暗闇に光を。

サラリーマンを中心に、日本人について知るために、ブログを書いています。

渇けば渇くほど、いのちの水を欲する。

風のように過ぎていく古いいのち。

風のように吹き込んで来る新しいいのち。

 

やがてしおれてしまう花を咲かせる朽ちる種。

決してしおれることのない花を咲かせる朽ちない種。

 

虫とさびできず物になり、盗人が穴を空けて盗んでしまう地上の宝。

虫もさびも付かず、盗人が穴を空けて盗むこともない天の宝。

 

いつの日か滅び去ってしまう世と世の欲。

いつまでもながらえる神の御心を行う者。

 

無知であったときの様々な欲望と父祖伝来の虚しい生き方。

真理に従い従順な子どもの聖なる生き方。

 

罪過と罪のなかに死んでいた過去の自分。

義と永遠のいのちによって生きる今の自分。

 

以前は神の民でもなく、あわれみを受ける資格のない異邦人。

今は神の民であり、あわれみを受けた聖なる国民。

 

 

 

           わたしはよみがりです。いのちです。

 

         イエスがキリストであると信じる者はだれでも、

             神によって生まれたのです。

         生んでくださった方を愛する者はだれでも、

          その方によって生まれた者をも愛します。

 

          また、私は新しい天と地とを見た。

        以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

          

             また言われた。

  「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。

      わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。

          勝利を得る者は、これらのものを相続する。

         わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」

 

 

主は、渇く私に、いのちの水を、価なしに飲ませて下さる。

なんという希望だろうか。

復活

真実かどうかを検証しなくてはならない。

その事象が大きければ大きいほど。

 

ある新興宗教の教祖を神だと信じて疑わない人がいる。

その証拠はとても乏しい。

 

しかし、イエスが神である証拠は豊富にある。

その最たるものは、イエスの復活だ。

 

エスの復活を否定する見解は存在する。

けれど、今はそれを否定する歴史家は殆どいない。

 

エスの復活は、イエスが神の御子であることの証明だ。

この事実を告げ知らせなくてはならない。

 

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十字架を負ってついていく

私は何を望みとして今日を生きるか。

まだ、まだ、私は分かっていない。

 

天に用意してくださっている永遠の栄光が、

地上の人生における一時の苦しみに比べて、

取るに足りない物であることを。

 

キリストの受けられたそしりを、私も負って生きることに躊躇している人生は、

もうおしまいにしよう。

 

生きることは「自分」ではなく、生きることは「キリスト」。

自分の十字架を負って、キリストにどこまでもついていく。

 

キリストこそが、私のいのちなのだから。

 

 

         我々が天の故郷に入り、兄弟なるイエスの御国を相続するとき、

         頭にはとこしえに輝く栄光の冠を受け、その重みを感じるとき、

              この世の痛みや苦しみを振り返るとき、

         地上での人生と悲しみは、栄光へと繋がるほんの一歩であり、

     その日々、その苦しみは、天で過ごす一夜ほどにも満たないことに気付くだろう。

 

 

              年月はなんと早く過ぎ去るものだろう。

            人がその人生で与えられた期間を終えたその時、

          この世の栄光は、もはや夢や思い出としてしか残らない。

                    幸いな人よ、

   とこしえに、地上のいのちと天上の永遠なるいのちの価値を正しく見極めることができる者は。

              地の栄光は空しく、天の栄光は輝きわたる。

                             

                            サミュエル・ラザフォード

 

 

 

 人の子が栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」

 すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」

 すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」

                                   マタイの福音書25章

 

 

 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくだささる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

 

 ......私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか、「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

                                    ローマ8章

 

 

 主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。とうのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

                                                                                                                   第二コリント12

 

こういうわけで、もしあなたがた、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現されます。

                                    コロサイ3章

 

 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱しに求めなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

 私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。

 その現れを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくことのできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

                                     第一テモテ6章

 

 

 私たちが神の子どもと呼ばれるために、ーー事実、いま私たちは神の子どもですーー御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態は明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分をきよくします。

                                     第一ヨハネ3章

 

 

 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものにします。

                                        マタイ10章

Fix on Jesus -イエスから目を離さない-

長期間の旅や奉仕の後、大抵の場合、私は少し鬱っぽくなる。

前向きな気持ちになれず、何事にもやる気が起こらない。

全身の動きが鈍ってしまい、頭の回転は遅くなり、心が状況についていかなくなる。

 

経験上、そのようなときは、1日か2日は何もせずに、ゆっくりと休んだ方がいい。

祈りつつ、聖書のことばをじっくりと思い巡らしながら、神様の前に静まっていく。

 

気持ちが焦ったり、高揚したりすると、目の前のことが見えなくなり、

大切な瞬間を取りこぼしていってしまう。

 

今日はヤバいと直感した。

気持ちが全く落ち着かなくて、不安や苛立ちが大波のように迫ってくるのを感じた。

 

それで、近くの湖の畔へ走った。夜の9時を回っていた。

そこは、大事な決断をするときには、私がいつも訪れる場所だった。

 

人気はなく、一人でひっそりと宇宙を感じることが出来るところ。

湖と山と夜空に囲まれて、神様の偉大さに包み込まれる。

 

そこで、覚えたての賛美を歌いながら、携帯に録音しておいた聖書のことばの朗読を繰

り返し聴く。心の思いを注ぎ出しながら、神様の御声に耳を傾ける。

 

月の黄金色の輝きが、この世のものとは思えないほどに、美しかった。

 

 

 

今夜、主が語ってくださったこと。

それは、イエス・キリストが、まことの神であり、永遠のいのちだということ。

だから、この御方をいつも思って生きる。片時も目を離してはいけない。

 

 

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

ヨハネの手紙第一5章

 

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、

神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。

愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

ヨハネの手紙第一5章

 

エスを信じる者と、神は「ともに」おられる。

神が途方もなく私から離れてしまっているように感じていたのかもしれない。

けれど、今も、神はこんなに近くにいてくださったのだ。

 

偽りの霊を見分ける基準も、その霊がイエスを告白するかどうかである。

惑わされないように気をつけていなければ、足下をすくわれてしまうため、

その霊が神からのものかどうか、ためさなければならない。

 

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。

それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。

なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。

それによって神からの霊を知りなさい。

エスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。

それは反キリストの霊です。

あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、

今それが世に来ているのです。

ヨハネの手紙第一4章

 

人となって来られた主イエス・キリストを告白し続けること。

そして、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うこと。

 このみことばにとどまり続けることが、最も大事。

                      Fitting my eyes on you in this race that I run.

 

姦淫の罪

私は罪を犯した。

 

結婚のことを考えていて、神様の御心に従いたくなくて、逃げようとした。

すると、ポルノの誘惑が私を襲って来た。

 

私は欲望に従い、ポルノを見てしまい、姦淫の罪を犯した。

 

「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。

からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨ててしまいなさい。

からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

マタイの福音書5章

 

情欲を抱いて女性を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した。

この聖書が書かれた当時は、カメラもなければビデオもなかった。

まして、インターネットなど存在していなかったため、現代のようなポルノはな

かった。

 

そのため、当時「姦淫」という言葉が持っていた意味は、主に結婚外での肉体関係

を持つことだった。今日の世界では、フリーセックスが当然のようになっている

が、神様の律法では、それは固く禁じられていることだ。その目的は、人の喜びを

奪い、縛り付けるためではなく、むしろその逆だ。本来、神様が意図された結婚と

家庭には、夫婦間の誠実さと貞潔さが不可欠であるからだ。そのため、結婚した男

女が不倫をしないのは勿論のこと、結婚する前の男女が結婚に備えて、誘惑に耐

え、自らの貞潔を守ることが神様の御心なのだ。

 

肉体関係こそが、愛の最大の結晶であるかのように考えられがちだが、決してそ

うではない。愛とは、相手の益のために、自分を捨てることである。肉体関係が男

女間の愛の頂点だとするなら、愛は虚しいものである。愛は快楽以上の、満ち溢れ

た喜びを与えるものであり、相手の品性を高めるものである。愛は、肉体よりむし

ろ、豊かな人格的触れ合いである。人格的触れ合いには、摩擦や軋轢が伴う。しか

し、そこを愛によって乗り越えていくときに、愛の絆は成長していく。

 

このように、神は、人が真実の愛に生きていくために、「姦淫してはならない」と

いう律法を与えてくださった。しかし、キリストはその律法のさらに本質的な理解

を示してくださった。それは、「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦

淫の罪を犯した」ということだ。

 

「すでに」心の中で姦淫の罪を犯しているのだ。

 

私は、生身の人間であろうと、ネットで見るポルノであろうと、そこにいる女性、

あるいは同性であっても、情欲を抱いてみるならば、その人と肉体関係を持ってし

まった罪と同じ罪を犯しているのである。

 

なぜなら、すでに、心の中で、神様と妻への誠実さと貞潔を捨ててしまっているか

らである。行動は、すべて心の中から始まる。

 

よって、ポルノではなく、ライトポルノと言われるような、刺激の弱めのものを見

たからといって、罪が軽いというわけではない。さらに言うならば、テレビに登場

するアイドルや女性タレントを見て、現実を逃避し、自分の情欲を少しでも満たし

ているのならば、私の心はすでに信仰と愛を捨てて、姦淫の罪を犯しているのだ。

 

その罪の報酬は、死なのだ。罪は、からだ全体をゲヘナ(永遠の苦しみ)に投げ込

まれるなくてはならないほどに、神の聖さと全く相容れないものなのだ。

 

しかし、その罪をイエス・キリストが代わりに背負ってさばきを受けてくださっ

た。そして、ただ一人、神のすべての律法を完全に成就してくださった。

 

神は、このキリストによって、キリストを信じる信仰によって、私を義と認め、

私を罪と死の定めから救い出してくださり、永遠のいのちを与えてくださった。

ハレルヤ、主よ。感謝します。

 

ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、

アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとその捧げものには目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである。

創世記4章

 

カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。......私たちは、自分が死からいのちに映ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです......神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

ヨハネの手紙第一3章

 

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

ローマ13章

 

 

あるショートフィルムを見た。父親と娘の2人暮らしの家族を描いた作品で、父親はポルノの依存症であり、娘に隠れてインターネットサイトの更新を続けていた。あるとき、そのサイトに自分の娘の盗撮写真が投稿されているのに気付いた。そのことから、彼は自分のしていることの愚かさに気付くようになり、収拾していた画像をすべて消去した。そして、娘を盗撮している犯人を捜し出す、彼のSDカードを没収し、彼のカメラをぶちこわした。その後、話は続くのだが、その後の父娘の歩みについては語られていない。

 

ポルノは、家族関係を崩壊させる。ポルノは妻、娘、息子、親、まわりの大切な人たちの心をえぐり、傷つける。

 

その実例をこれまでに沢山聞いて来た。

そして、その経験を赤裸々に分かち合ってくれて、妻のためにポルノを絶対にやめ

るようにと愛をもって励まし、祈ってくれた人がいた。

 

 

どうか、神様。私を守ってください。妻を愛せるように。

隣人に害を与えるのではなく、喜びを与える者と変えてください。

隣人を殺すのではなく、隣人のためにいのちを捨てる者となしてください。

 

神様の前に正しく、自分のすべてを神様への生きた供え物としてささげさせてくだ

さい。

 

日々、私のあなたへの誠実さを養い、従順なしもべとしてください。

 

私は、キリストによって、すでに罪から解放されています。

その真理に歩ませてください。

 

父、子、御霊なる主の愛と恵みに感謝します。

父、子、御霊の真理

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た者と代えてしまいました。それゆえ、神は彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

 

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

ローマ人への手紙1章

 

宗教心ってなんだろう。

宗教ってなんだろう。

信仰ってなんだろう。

 

 

それらすべての議論を越えて、イエス・キリストに目を注ぐ。

 

キリストが真理、いのち、道だから。

キリストを通してでなければ、誰も神を知ることはできないから。

 

真理の他に真理はない。

真理の外にあるのは、すべて偽り。

人が行き着く先は、どんな道を辿っても、偶像礼拝。

 

ある新興宗教の講演会に出た。

信者にインタビューをして、語り合った。

教祖が神だと信じ切っていた。

 

その後、違う場所で色々な人たちとの交流があった。

ある仏教徒の人と話した。

彼は、キリスト教徒たちの信仰に触れるなかで、仏教徒としての信仰を深めていく

ことになった。彼は、信仰の力を信じるようになった。

 

宗教に関心を示さない大学生に出会った。

彼はキリスト教にも、他の宗教にも見切りをつけていた。

しかし、彼の質問に丁寧に答えていったとき、彼の目は好奇心に満ちていった。

 

また、もう1人宗教に関心を示さない大学生と話した。

彼の場合は、頑なに宗教を拒否していた。

話をすると、苦難の経験の末に、神なんて存在しないという結論に至ったそうだ。

彼は、神の存在を認めていたことになる。そして、今も、彼はどこかで神を認めて

いる。しかし、彼の神観は聖書のそれとは同じではなかった。彼は、神を知らな

いだけだ。神の真理を知らないのだ。彼と話をし、彼の疑問に答えていくなかで、

彼は、これまで知らなかった新たな神の事実に触れることができた。

 

 

 

これらの経験を通して、私が今気付かされていることは、

人は、自分が信じていることを間違っているとは普通思わない、ということ。

人は、尊敬する人を信頼し、その人のことばを疑いなく信じるようになること。

人は、それが真理であるかどうかより、感情的な基準に重きを置いていること。

人は、神を知っているが、神を認めようとしないこと。あるいは、自分の神を造り

出すこと。

 

そして、私がなすべきことは、真理をまっすぐに解き明かすこと、だということ。

 

 

人の問題は真理を悟らないこと。

イエス・キリストただお一人が、神の真理を解き明かされた。

 

私がすべきことは、自分を述べ伝えることではなく、

イエス・キリストを宣べ伝えていくこと。

 

神が、その人を愛しておられ、その人を神ご自身の子として定めておられるなら

ば、彼は神のことばを聞き分けることができる。神は、必ずご自分の羊を捜し出し

て救われる御方だ。

 

問題は、真理を語らないこと。

真理の柱、また土台である教会が真理を失っていくこと。

 

私たちは、真理にとどまり、真理に生き続けなくてはならない。

もし真理を失えば、塩気を失った塩のように、何の役にも立たない者となってしま

う。

 

しかし、私たちには、キリストから受けた注ぎの油が私たちのうちにとどまってい

る。それは、真理の御霊である。私たちはすでに世に勝利している。

 

御霊が私たちにすべての真理を教え、キリストのうちにとどまらせてくださる。

 

 

偶像を警戒し、キリストにとどまれ。

キリストを世の果てまで宣べ伝えよ。

恐れるな。雄々しくあれ。

 

私たちのうちには、キリストが住んでおられるから。

 

神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。

ヨハネの手紙第一5章

 

 

Longing for a heavenly country  ー天の故郷に憧れるー

これらの人々(旧約時代の信仰者たち)はみな、信仰の人々として死にました。

約束のものを手に入れることはありませんでしたが、

はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。

それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。

事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

ヘブル人への手紙11章

 

 

物事には終わりが来る。

幸せな時間はいつまでも続かない。

私たちは、前に進んでいかなければならない。

 

キリストについていく道は、綺麗に舗装された道ではない。

その道には困難が待ち受けている。

私たちは、それを知りながらも、その道を進まなくてはならない。

  

私たちは、キリストの歩まれた苦難の道を辿っていかなければならない。

なぜなら、その先に、さらにすぐれた故郷、天の御国があるから。

 

神が私たちのために用意してくださっているのは、この世の故郷ではなく、

天にある都だ。この世の誉れではなく、天にある栄光だ。

 

進まなくてはならない。前に。前に。キリストの背中を見ながら。

 

ARIで出会ったフィリピンの仲間の背中に、みことばが書かれていたことを思い出

した。 

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

ヨハネ10章

 

キリストが来たのは、私がいのちを得、それを豊かに持つため。

永遠のいのちに生きるなら、必ず多くの実を結ぶ。

 

キリストにとどまり、キリストのことばをとどまらせて生きるなら。

 

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家族、家、故郷、すべてを捨てて主に従った人たちが私を取り囲んでいる。

彼らのように、私も歩ませてください。

 

               涙とともに種を蒔く者は、

              喜び叫びながら刈り取ろう。

           種入れをかかれ、泣きながら出て行く者は、

           束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

                          詩篇126篇