Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

イエス様の味わわれた苦難と忍耐を思うなら、私たちは疲れ果ててしまうことはない。

エス様の忍耐はいかなるものだったか。

 

エス様は、血の汗を滴らせるほどの、悶え苦しまれた。

 

エス様は、神の権威を用いて、自分を救おうと思えばいつでも救うことができた。

 

けれど、イエス様は屠り場に引いていかれる羊のように、口を開かず、十字架を自ら背負われた。

 

エス様は十字架の上で息を引き取られるその瞬間まで、ひたすら忍耐された。

 

罪人たちの反抗を、最後まで耐え忍ばれた。

 

耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐えられた。

 

神への信仰のゆえに。

 

苦しみの先にある、父なる神からの栄光という喜びのために。

 

 

その十字架の死のゆえに、私たちは罪を赦され、神の子どもとされるという恵みにあずかることができた。

 

 

 

信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

 

あなたがたは、罪人たちの、このような反抗を耐え忍ばれた方のことを思いなさい。

 

あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

 

 

 

エス様の苦難と忍耐を見るとき、私たちは励ましを受ける。

 

エス様が私たちのために受けてくださった苦難は、今私たちが受けているどんな苦難よりもひどかったから。

 

エス様の忍耐は、私たちの忍耐よりも遥かに凄まじいものだったから。

 

それゆえ、イエス様は私たちの弱さをすべて知っていてくださる。そして、私たちを助けることがおできになる。

 

子羊なるキリスト・イエスに栄光がいつまでもあるように!

 

 

 

神の大いなるご計画と憐れみによって、キリストの名による罪の赦しを得させる悔い改めは、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる!

 

ルカの福音書15:1-3、15:11-32、16:14、19:47-48、23:13-25、24:44-49

 

1さて、取税人たちや罪人たちが皆、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。

2すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った

3そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。......(いなくなった羊のたとえ、なくした銀貨のたとえ)......

 

11イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。

12弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。

13それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。

14何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。

15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。

16彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。

17しかし、彼は我に返って言った。「父のふところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。

18立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。

19もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」

20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

21息子は父に言った。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。」

22ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。

23そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。

24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」こうして彼らは祝宴を始めた。

 

25ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。

26それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

27しもべは彼に言った。「あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。」

28すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。

29しかし、兄は父に答えた。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。

30それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。

31父は彼に言った。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。

32だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」

 

16:14

金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、エスをあざ笑っていた

 

19:47-48

エスは毎日、宮で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、何をしたらよいのか分からなかった。人々が皆、イエスのことばに耳を傾けていたからである。

 

23:13-25

ピラトは、祭司長たちと議員たち、そして民衆を呼び集め、こう言った。「おまえたちはこの人を、民衆を惑わす者として私のところに連れて来た。私がおまえたちの前で取り調べたところ、おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返して来たのだから。見なさい。この人は死に値することを何もしていない。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」しかし彼らは一斉に叫んだ。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ。」バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった。ピラトはイエスを釈放しようと思って、再び彼らに呼びかけた。しかし彼らは、「十字架だ。十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは彼らに三度目に言った。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」けれども、彼らはイエスを十字架につけるように、しつこく大声で要求し続けた。そして、その声がいよいよ強くなっていった。それでピラトは、彼らの要求どおりにすることに決めた。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男を願いどおりに釈放し、他方イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。

 

24:44-49

そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいた頃、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇とに書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

 

 

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放蕩息子のたとえ話で、兄は、父親が弟を赦すことを受け入れることができなかった。同様に、律法学者やパリサイ人たちは、イエスが取税人や罪人たちを受け入れて、食事までともにし、罪の赦しを宣べ伝えていることを受け入れることができなかった。

 

律法学者やパリサイ人たちは、イエスをあざ笑った。それはやがて怒りとなり、妬みとなり、憎悪となり、殺意となった。彼らは、イエスを捉え、訴え、叫び、十字架刑を勝ち取った。

 

ところが、イエス・キリストは三日目によみがえられた。そして、その名による罪の赦しを得させる悔い改めは、ユダヤ人の取税人や罪人にとどまらず、あらゆる国の人々に宣べ伝えられるようになった。

 

イエス・キリストは12弟子たちを証人としてお立てになり、聖霊によって天からの力を着せて、彼らを地の果てまでお遣わしになった。

 

今日、世界中に福音が宣べ伝えられている。キリストの名による罪の赦しを得させる悔い改めを通して、あらゆる国の人々が神の子どもとされ、天の御国を受け取っている。

 

たとえ、ご自分の民がみことばを受け入れず、イエス・キリストを信じなくとも、神はご自分の計画をすべて成し遂げられる。神は罪によって失われた、ご自分の民をすべて救われる。ハレルヤ!

 

黙示録7:1-10

「その後、私は四人の御使いたちを見た。彼らは地の四隅に立ち、地の四方の風をしっかりと押さえて、地にも海にもどんな木にも吹きつけないようにしていた。また私は、もう一人の御使いが、日の昇る方から、生ける神の印を持って上ってくるのを見た。彼は、地にも海にも害を加えることを許された四人の御使いたちに、大声で叫んだ。『私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を加えてはいけない。』

私は、印を押された者たちの数を耳にした。それは十四万四千人で、イスラエルの子らのあらゆる部族の者が印を押されていた。ユダ族から一万二千人が押され、ルベン族から一万二千人、ガド族から一万二千人、アシェル族から一万二千人、ナフタリ族から一万二千人、マナセ族から一万二千人、シメオン族から一万二千人、レビ族から一万二千人、イッサカル族から一万二千人、ゼブルン族から一万二千人、ヨセフ族から一万二千人、ベニヤミン族から一万二千人、印を押されていた。

その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数え切れないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。『救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。』御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。『アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。』」

 

 

神は、やがてもたらされる終わりの日の前に、ご自分のしもべをすべて救われる。こうして、神様に召されたすべてのユダヤ人も、すべての国民、部族、民族、言語から召された数え切れないほどの異邦人も、御使いたちも、御座の前と子羊の前で、御座に着いておられる神と子羊を礼拝するときがやがてもたらされる。

 

栄光は、私たちの神にとこしえまで。

父なる神様の訓練、キリストの完全な従順、

「あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。そして、

あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れ

ています。

 

 『わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならな

  い。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだ

  から。』

 

訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓

練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受け

ていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。さらに、私たちには肉

の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それ

なら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

 

 

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことに従って私たちを訓練しましたが、霊の父

は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるので

す。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるもの

ですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせま

す。」

 

                                                           ヘブル人への手紙12:4-11

 

 私の父は、私を訓練することはなかった。むしろ、母が教育に熱心だった。小学生だった時のある出来事を覚えている。当時、私はピアノを習っていたが、ピアノを弾くのがあまり好きではなかった。そのため、練習はサボりがちであった。母は、私がピアノを弾けるようになってほしいと強く願っていたから、私が練習をしていないと厳しく叱った。私は不満を漏らし、側にいた父に助けを求めた。父は私をかばって、母を非難した。すると、母は怒り、その場から去ってしまった。

 

 この後、母は私に謝ってきて、私がしたいようにすればいいよ、と言ってくれた。そのおかげで、私はピアノをやめることができた。けれども、月日が経つにつれて、ピアノをちゃんと続けておけば良かったなあ、と後悔することが何度もあった。私は、母に従わない反抗的な息子だった。母親が良いと思って教えてくれていることに、従順に従い続けていたなら、そんな後悔はなかっただろう。

 

一方、父は単身赴任をしていたので、家に帰ってくるのは週末だけだった。しかし、私は週末には友達と遊びに出かけたり、部活をしたりしていたため、父と過ごす時間は短かった。父から勉強やスポーツを教えてもらったことは覚えているが、父から何か道徳的なことを教えられた記憶は殆どない。

 

私は父親を尊敬している。多くを語ることはないが、私たちの家族のために一生懸命働いてくれている。口下手だが、優しい。そんな父親に感謝している。

 

けれども、道徳的・精神的な訓練を父から受けることなく、ひたすら甘やかされて育ってきたことが、自分の生活力の乏しさや精神の薄弱さに影響していると思う。

 

父親を責めるつもりはさらさらない。むしろ、感謝と尊敬を表したい。しかし、今になって、子どもが父からふさわしく訓練を受けることが、子にとってどれほど大切なことなのか痛感している。え

 

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けれども、母であれ、父であれ、人間の親に完全な人はいない。完全なお方はすべての人間を造られた神様ただお一人である。

 

肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことに従って私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」

 

神様が私の父となって、私を愛して、私を子として訓練してくださる。

神様は訓練を妥協されない。必ず、私をご自分に似た者へと成長させてくださる。

義という平安の実が結ぶのを楽しみにしながら、今日も神様は訓練していてくださる。

 

霊の父である神様に服従して生きよう。訓練として耐え忍ぼう。

 

 

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エス様は御子であられるのに、様々な苦しみを通して従順を学ばれ、完全な者となられた。イエス様は私たちの弱さに同情し、私を助け出してくださる大祭司となられた。イエス様は信仰の創始者であり完成者となられた。

 

「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。」

      ヘブル人への手紙2:10

 

「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。」

                     5:8-10

 

 

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」

              12:2-3

 

私たちが試練を通して父なる神からの訓練を受けているとき、私たちが目を離してはならないのはイエス様である。イエス様は、罪人たちの反抗により、様々な苦難を受けられた。しかし、イエス様はそれらすべてを忍耐し、従順を学ばれ、完全な者となられた。そして、辱めをものともせずに最後は十字架の死にまで従われた。

 

死んで葬られた3日目に、イエス様は死者の中からよみがえられ、神様の御座の右に着座された。そして、キリストに従うすべての人にとっての永遠の救いの源となられた。つまり、信仰を与え、信仰を完成し、ご自身の栄光に導いてくださる永遠の大祭司となられた。

 

私たちにはこの完全な大祭司であられるイエス様が天におられるから、約束を信じて殉教していった信仰の証人たちのように、「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を走り続ける」ことができる!信仰と希望と愛を持って!

 

父なる神様が、すべての試練を通して、私たちを子どもとして訓練してくださり、苦しみの後には「義という平安の実」を結ばせてくださるのだから、そのことを確信するとき、私たちは「弱った手と衰えた膝をまっすぐにし」、「自分の足のために、まっすぐな道」を作ることができる。それは、足の不自由な私たちが踏み外すことなく、むしろ癒され、まっすぐに歩けるようになるためである!

 

さあ、進んでいこう。キリストから目を離さないで。父なる神様の訓練として、試練を耐え忍んで。癒されるために、弱った手足をまっすぐにして、まっすぐな道を作って。

 

 

 

 

 

 

 

鹿のように

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鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 

 

神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。

 

私のたましいは 神を 生ける神を求めて 渇いています。

 

いつになれば 私は行って 神の御前に出られるのでしょうか。

 

昼も夜も 私の涙が 私の食べ物でした。

 

「おまえの神はどこにいるのか」と 人が絶えず私に言う間。

 

私は自分のうちで思い起こし 私のたましいを注ぎ出しています。

 

私が祭りを祝う群衆とともに 喜びと感謝の声をあげて

 

あの群れと一緒に 神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。

 

 

 

わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。

 

私のうちで思い乱れているのか。

 

神を待ち望め。

 

私はなおも神をほめたたえる。

 

御顔の救いを。

 

 

 

私の神よ 私のたましいは 私のうちでうなだれています。

 

それゆえ 私はヨルダンとヘルモンの地から 

 

またミツアルの山から あなたを思い起こします。

 

あなたの大滝のとどろきに 淵が淵を呼び起こし

 

あなたの波 あなたの大波はみな 私の上を越えて行きました。

 

昼には 主が恵みを下さり

 

夜には 主の歌が私とともにあります。

 

私のいのちなる神への祈りが。

 

私は わが巌なる神に申し上げます。

 

「なぜ あなたは私をお忘れになったのですか。

 

 なぜ 私は敵の虐げに 嘆いて歩き回るのですか。」

 

私に敵対する者たちは 私の骨を砕くほどに 私をそしり 絶えず私に言っています。

 

「おまえの神はどこにいるのか」と。 

 

 

 

わがたましいよ

 

なぜ おまえはうなだれているのか。

 

なぜ 私のうちで思い乱れているのか。

 

神を待ち望め。

 

私はなおも神をほめたたえる。

 

私の救い 私の神を。

 

                          詩篇42篇

 

 

 

この詩篇を書いた詩人は、神の民の一人であった。神の民は、神からの豊かな祝福を受けて、シオン(エルサレム)には平和と喜びがあった。

 

しかし、神の民は神に背いてしまった。神は背きの民を敵の手に渡された。この詩人もその民の一人として、苦難の中に置かれた。

 

敵の虐げとそしりが彼を襲った。

 

彼のたましいはうなだれた。思い乱れた。

彼のたましいは、神を求めて、渇いた。

 

彼は、鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神を慕いあえいだ。

 

ただ、ひたすら、神を待ち望んだ。

 

「私の救い 私の神を」

 

 

わがたましいよ 主をほめたたえよ

わがたましいよ 主をほめたたえよ。

身体が痛くても、頭が働かなくても、たましいが主をほめたたえるなら、私は大丈夫。

 

 

わが神 主よ あなたはまことに大いなる方。あなたは威厳と威光を身にまとっておられます。

私にはどんな輝きがなくても、私の神である主はまことに大いなる方。

 

 

私はいのちの限り 主に歌い 生きるかぎり 私の神をほめ歌います。

私の心の思いが みこころにかないますように。私は 主を喜びます。

 

ハレルヤ!

 

詩篇104から

教理教育

教会が陥っている失敗とその解決策について、分かりやすくまとめてある記述に出会った。ここに一部を抜粋する。少し長めであるが、ぜひ読んでいただきたい。

 

1、失敗している点

「クリスチャンでない人たちの注目を引こうと、教会は世の人の関心を引くものを提供しようと一生懸命である。そうすることによって、教会は真理の柱であり土台である教会の本当の目的を見失ってしまったのである......教会に通う人たちは、人生の真の変化は考えの真の変化から生まれるということを理解せず、教理は実際的ではないと主張し、教理を強調する説教を批判するのである。......礼拝や教会プログラムの数が増える中で娯楽的な要素がキリスト教教理の実質的な教育にとって替わりつつある。......子どもたちに聖書を教えることを優先していても、聖書教理を教えることが優先されることはめったにない。子どもたちは、同じ聖書の物語を繰り返し聞く。それもほとんどの場合、どのような行動を取るべきかという道徳的レッスンとしてのお話である。......聖書の物語がこのような使われ方をすると、良い行動を取った人を祝福し、失敗した人をのろうおとぎ話の妖精のように、神さまは物語の周辺におられることになる。子どもたちは、神ご自身があらゆる聖書記述の主役であることを、めったに学べなくなってしまう。子どもたちは、読む一つ一つの話について、「この話は神様について何を私に教えているのだろうか」と問うことを学ばなくなるであろう。」子どもたちは、ご自身のために民をあがなうという神の全体目的に照らして聖書記述を読む方法を学ぶことはないだろう。子どもたちが学ぶことは、良い子になりなさい、そうすれば神様が祝福してくださいます、悪い子になったら、祝福してくださいません、ということだけになる。これは福音の間違った表し方というだけでなく、まったく福音とは言えないものである。なんという悲劇であろうか!」  

(『主を知り、主を喜ぶ(Training hearts, teaching minds) ~子どもから大人まで〜教理問答による日々のデボーション』、スター・ミード著 )

 

要約すると、真理の柱であり土台である教会が、教理を教えることを怠ってきた結果、真理に生き、真理を教え、真理を宣べ伝えるという教会の本当の目的を見失ってしまっているということである。

 

2、解決策

「歴史的キリスト教真理のバトンを次の世代に渡すことに関心を持っている私たちは、私たちの子どもたちに教理を忠実に伝えることの重要性に目覚めなければならない。私たちは、子どもたちがなんとかしてキリスト教の重要な教えを学んでもらいたいと願うのであれば、無計画で行き当たりばったりの聖書物語と暗唱聖句を当てにすることはできない。むしろ、私たちは教理に置いて入念かつ体系的な教育を提供しなければならない。子どもたちは、見たり聞いたりするすべてのことをふるいにかける網目となる判断基準を必要としている。子どもたちがまだ幼いうちに、これを提供しなければならない。教理教育は、子どもたちが十代になるまで待つべきではない。青年期は人生の重大な決断の時期だからである。そのような決断がなされる基礎としての神学的骨組み、聖書的世界観が、その時までに整えられていなければならない。」

(同上、スター・ミード著)

 

著者は、忠実な教理教育を子どもたちに与えるための道具として、この本を執筆された。その中身は、「ウェストミンスター小教理問答書現代英語版」の一問一答を、家族が6日日間共に分かち合うデボーションの読み物となっている。日毎のデボーションの内容は簡潔であり、読みやすい。一週間で一対の問いと答えを、その真理を味わいながら覚えることができる。

 

この著者は、アメリカ人の女性で、子どもたちに聖書を語り、教理を教える働きに長年従事しておられる方である。現在も、旦那様と共に教会の日曜学校で教えておられる。

 

 

 

私は、この本をルームメイトと読み始めることにした。これからに期待している。自分が味わって良かったものは、喜んで教会の人たちにも勧めることができる。

 

 

 

 

行動や生活を決めるのは心である。

「教会の人たちは、礼拝でみことばを聞いても、礼拝が終わったら、教会の外にいる人たちと全く変わらない生活をしている。これでいいのだろうか?こんなものなのだろうか?」

 

先日、ある方が上に書いたような正直な思いを分かち合ってくださった。

 

「クリスチャンの生活が、クリスチャンでない人たちの生活と何も変わらない」とこの方は実感しておられた。私も同感であった。おそらく、多くの人たちも同意するだろう。

 

このままでいいのだろうか?

神様は聖書のことばを通して、そんな私たちに何を語ってくださっているのだろうか。

 

 

1、神の民イスラエル

1)約束の地を占領しようとしているとき

神の民イスラエルは、約束の地を占領しているとき、王がいなかった。王がいないために、民はそれぞれ自分の目に良いと見えることを行なっていた、と士師記に何度も書かれている。彼らは、神が与えた律法に従わず、周りの国々と全く同じように歩んでしまっていた。

 

2)約束の地を占領したとき

イスラエルは、王を求めた。神様を王として認めず、周りの国々ような王を求めたのだ。その王は、神を恐れて、律法に従う王ではなかった。神様は、彼らの願いに答えて、彼らが望むような王を与えた。それは、サウロであった。美男子で体格がよく、まさに「王」にふさわしい姿であった。

 

しかし、サウロ王は高慢になり、神の律法に従うことに失敗してしまった。それゆえ、神様はサウロ王を殺し、神様の御心にかなう新たな王を与えられた。それが、ダビデだった。ダビデは、完全に律法に従うことができた王ではなかった。晩年には、姦淫の罪や、殺人の罪を犯した。また、神様に信頼せずに、自分の知恵と軍事力に頼ってしまうこともあった。しかし、ダビデ王は、罪を指摘されたとき、心を砕かれて、神様に心から悔い改めた。そのようなダビデを、神様は主のみこころにかなった王として祝福した。民も律法に従い、神を礼拝し、ともに祝福を受けた。

 

ところが、ダビデの王位を継承したソロモン王は、異邦人の女たちを迎え入れ、彼女たちにより偶像礼拝に陥り、律法に背いてしまった。ソロモン王の後、王国は分裂し、北イスラエルと南ユダに分かれてしまった。両国の王たちは、ダビデのように神様の心と一つになっていなかった。王たちは、偶像礼拝を行い、律法に従わず、民たちを正しく治めなかった。その結果、民たちも偶像礼拝を行い、罪を犯し、イスラエルは周りの異邦人たちと何も変わらない生活をするようになった。いや、むしろ、周りの国々の中でも見られないほどの悪を行なったのだ。

 

神様は、律法の契約に従い、また預言者たちを通して警告した通りに、彼らを呪われた。北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、次に南ユダはバビロンの捕囚とされてしまった。

 

3)捕囚帰還後のイスラエル

神様はアブラハム、イサク、ヤコブ、すなわちイスラエルの父祖たちと結ばれた契約にどこまでも誠実なお方である。また、ダビデと結ばれた契約も決して破ることはなさらない。神様はこれらの契約に基づいて、ご自分の民イスラエルを滅ぼし尽くすことはなさらなかった。そして、彼らを救い出し、再び約束の土地に住まわせてくださった。

 

約束の地に帰還した民たちは、神殿と城壁の再建を行った。また、律法も民全体に教えられ、民全体は悔い改め、民全体は再び律法の全てを守り行うことを神様の前に誓った。祭司も立てられ、祭儀も律法に従って行われるようになり、神様が臨在される神殿と礼拝を中心に、イスラエルは神の民として再び栄えていくはずであった。

 

ところが、祭司が異国の女性たちを迎え入れ、祭司の職務は守られず、礼拝は形骸化していった。周りの国々のように、呪術が行われ、姦淫があり、偽りがあり、不正があり、虐げがあり、貧しい者たち、特にやもめや孤児が苦しめられ、寄留者たちものけもにされていた。このように民の心は再び神様から離れていき、律神からも完全に離れてしまった。

 

旧約聖書は、このようなイスラエルの状態を記したマラキ書という預言書によって、閉じられている。旧約聖書が見せているものは、神の民イスラエルが、いつでも、いつになっても、神の民ではない異邦人たちと全く同じような生活に戻ってしまう姿である。

 

 

ならば、新約聖書の時代の神の民であるクリスチャンたちも、旧約時代の神の民と同様に、異邦人たちと全く同じ生活をしてしまうのはしょうがないことなのだろうか。

 

それは違う!なぜなら、神様はご自分の御名が聖であることを示すために、神様ご自身が大いなるみわざを成し遂げられたからである。神様は、イエス・キリストを通して、私たちを贖い、イエス・キリストにあって私たちを聖なる者としてきよめることにより、私たちをのうちで、つまり教会において、ご自身の栄光を現されるからである!

 

神様は、私たちクリスチャンを、クリスチャンでない人たちと全く異なった存在とされ、全く異なった生活をさせる。それは、私たちのためではなく、イスラエルが汚してしまった、神様の聖なる御名のためである!

 

エゼキエル36:16~23

次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの家が自分の土地に住んでいたとき、彼らはその生き方と行いによって、その地を汚した。その生き方は、わたしの前では、月のさわりのある女の汚れのようであった。それでわたしは、彼らがその地に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのゆえに、わたしの憤りを彼らに注いだ。わたしは彼らを諸国の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの生き方と行いに従って彼らをさばいた。彼らはどの国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民なのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう言われる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行なった国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る。ー神である主のことばー」

 

ここに書かれていることを簡潔にまとめると以下である。

・神様の名は聖であられる(他のものと全く区別されるお方。それゆえ、唯一あがめられるべきお方)

イスラエルの行いと生き方(不正、暴虐、偶像礼拝など)により聖なる約束の地を汚したことにより、神様の憤りによるさばきを受けたゆえに、神様の名は汚された。

・しかし、神様はイスラエルによって、再びご自身の名が聖であることを国々示されると約束された。

 

ここで出てくる質問はこうである。

イスラエルは罪を犯して地を汚してしまう民なのに、どのようにして、そんな民を用いて神様は聖なる御名を示されるのか?

 

そのためには、民の不従順な行動と生き方が変えられなければならない。民は神様の大いなるみわざを経験しても、神様の大いなる憐れみを何度も経験しても、行動と生き方は変わることがなかった。そうであるならば、彼らの「心」に根本的な変化が必要である。

 

神様は、私たちのそのものを変えられる。

それは、イエス・キリストの福音を通してである。