Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

羊、吠える

大学生のとき、図書館でMr. childrenの「羊、吠える」を初めて聴いた。

 

自分の心を代弁しているように感じた。そのときから、音楽の歌詞に興味を持ち始めた。

 

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        あまりに多くの期待を、もう自分に寄せていない。

        ときどき、誉めてくれる人に出会う、それで十分。

 

         服を来た犬は、鏡の前、何を思うのだろうか。

           ここ2、3、日はそんな事考えてる。

 

         狼の血筋じゃないから、いっそ羊の声で吠える。

         ばかみたいと笑う君に、気付かないふりしながら。

 

自分に失望していた。自分は狼ではなく、羊だと思っていた。

自分は取るに足りない敗者のように感じていた。

 

その頃の気持ちを思い出すと、心が重くなる。

この曲は当時の記憶を少し呼び覚ます。

 

狼は食い尽くす存在であり、羊は食われる存在。

楽しそうに、幸せそうにしている人々を横目で見ながら、私の足が向かうのはいつも図

書館だった。勉強をするためではなく、押しつぶされそうな心を守るために。

 

家に帰ってもよかった。けれど、孤独の見えない世界に入れば、私がすることは決まっていた。ポルノを見て、一時的な快楽に現実を忘れることだった。何かに圧迫されている心を解放するためにポルノを見た。それは、私に慰めを与える薬のようだった。しかし、心は荒んでいくことを知っていた。

 

大学に行っても、何をするでもなく、ただ時間を過ごし、家に帰って、寝る。

私の逃げ場は図書館。もしくは、インターネットのポルノの中。そんな生活が長く続い

た。

 

ポルノの依存性は強かった。中学校の頃から見始めたポルノは、いつかは自然とやめれるときが来ると信じていたが、実際は依存は強まっていく一方だった。次第に脳は麻痺していき、普通のものじゃ満足出来なくなり、さらに刺激的なものを求めるようになっていった。人間関係がどうでもよくなっていった。勉強などどうでもよくなった。けど卒業単位はちゃんと取得したい。親を悲しませたくはない。結婚はしたい。しかし、それでも、今気持ちよくなれれば、何だっていいという心がすべてを凌駕し、私の人格や人生は崩壊へと進んでいった。

 

 

いつ、私はもとに戻れたのか・・・あまり覚えていない。今でも、強い葛藤を覚え、誘惑に負けてしまうことがある。敗北が続いて、自分のすべてが汚れていると感じ、生きる気力さえ失ってしまうことがある。ポルノが与えるのは偽りの慰めであり、私の心、人間関係、社会性すべてを奪い去っていくことを知った。

 

神は、私を憐れみ、暗闇から救い出してくださった。

本当の慰めが与えられた。ポルノはもう要らない。

 

神は、この期間を通して、私と出会ってくださった。

 

  

 

     

 

 

心の所在すら分からない

学生の頃、椎名林檎を熱狂的に好きになった。

 

東京事変の「アダルト(大人)」というアルバムを聞いてから、その格好よいメロディとともに、彼女の独特な声と世界観にたちまち魅了された。

 

群青日和」というシングルのPVを見たとき、あまりの可愛さに心は奪われてしまった。それから、CDやライブのDVDも買うようになって、集めるようになった。それだけでなく、彼女の出演した番組や雑誌も見るようになり、彼女の人生の経歴や、彼女がどういった女性なのかも気になり始めた。

 

彼女のことを考えると心が高鳴った。あれは恋だったのだろうか。それとは、また違うように思う。なぜなら、私は彼女を個人的に知ることは決してなかったからだ。私にとって、彼女は雲の上の存在で、アイドルのようだった。会いに行けるアイドルのように身近な存在ではなく、遠くて高い”神”のようになっていた。

 

あの時期、私に最も生きる喜びや楽しみを与えてくれたのは、椎名林檎だった。私は、彼女のようになろうともした。彼女の外見、性格、考え方を無意識のうちに真似るようになっていた。彼女のショートヘアー時代の髪型に似せたり、口調や表情を似せてみたりした。自分が彼女ようになっていくことが、彼女に近づくことであり、それが幸せだと思った。それほどに、彼女の存在は私に欠かせないものとなっていた。

 

今は、彼女の音楽は聴かなくなった。テレビやお店で彼女の音楽が流れてきたときに、恰好いいとは思うが、彼女自身への関心は殆どなくなった。

 

けれども、椎名林檎の曲をもう一度聞き始めて、そして彼女を見ていくなら、私は彼女をもう一度好きになってしまうのではないか、と思うときがある。彼女の存在が、再び自分のうちで大きくなっていくなら、やがて、昔のように、彼女を必要とする人生になってしまうかもしれない。

 

でも、もう支配はされたくない。私は自由とされたから。そして、私の存在は、本当の”神”のためにあり、誰もその神の代わりになることはできないから。

 

だから、もう一度彼女の音楽を聞き始めるなら、

自由な心を持って、彼女と、彼女の曲を好きになりたい。

 

「心」 東京事変

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       心という、毎日聞いているものの所在だって、

           分からないまま、大人になってしまったんだ。

仮面舞踏会

仮面を被って生きることにあまりにも慣れてしまっていた。

 

真実の愛がないことを認めたくない。だから、偽りの愛を用いる。

 

見たくないものを見たくないように、人は認めたくないものを認めたくない。

 

心に覆いをかぶせて、愛の欠如を隠してしまう。

 

 

真実の愛に気付かせてくれる、神の愛。

それは、私たちが普段口にしている愛とは違う。

 

自分を憎むものを、敵対するものを、蔑むものを、悪口を言うものを、逆らうものを、それでも見捨てないこと。

 

それでも、相手を赦して、受け入れること。

それでも、相手を信じて、耐え忍ぶこと。

それでも、自分の利益のためではなく、相手の利益を求めること。

それでも、相手のために、自分のいのちを捨てること。

  •           愛を知っているものは、神を知っています。 

             愛のないものに、神は分かりません。

文化

"Moolaade"(母たちの村)

 

アフリカのある村では、4-9歳の女性に割礼を施す慣習がある。

それを「お浄め」と呼び、村人の通過儀礼となっている。割礼を受けた女性でなければ、子どもを産むことはできないと教えられる。

しかし、割礼により、命を落としてしまう子どもたちもいる。後遺症により、中絶や流産の可能性も高くなってしまう。

 

この映画は、そのような慣習、儀式によって成り立つ文化で、男尊女卑の社会構造の下、割礼という悪しき慣習に立ち向かい、女性の尊厳と自由を取り戻すために立ち上がった母親たちの姿を描いている。

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文化とは、「人間の存在意義を構築する象徴のシステム」だと言われる。

つまり、人間が造り出す聖と俗、善と悪の区別が、主に神話(言い伝え)と儀礼を通して、文化として表現される。そして、文化と世界観は密接に結びついているため、その文化を共有している人々は、無意識のうちに、同じ世界観を共有することになる。

 

この村では、長老や家父長に従うことが善であり、従わないことは悪だった。

男は女を支配し、女は男の言うことを聞くことが善だった。

割礼を受けた少女は聖で、祝福を受けるべき者であり、割礼を拒んだ少女は俗で、呪われるべき存在だった。

 

悪霊の呪い、精霊の怒りといった、人を恐怖で支配するための言い伝えがあった。

一夫多妻、家父長制、割礼等の儀式が慣習となり、人の生活を縛り付けていた。

 

 

映画の終わりの方に、こんなシーンがあった。 

女子割礼を信奉していた母親が、村の呪術師のような者たちのいる場所に、嫌がる娘を無理矢理連れていった。カミソリで強制的に割礼を施された娘は、そのあまりの痛みにより死んでしまった。母親は、娘の死を嘆き悲しんだ。そして、長老たちに立ち向かい、割礼を撲滅する声を上げる者となった。

 

母親の泣き崩れる姿に、胸が締め付けられる思いだった。

 

また、こんなシーンもあった。

兄は弟に対して権威をもっていた。ある男性は、兄から脅されて、娘の割礼を拒む妻をむち打ちにして、娘に割礼を受けさせるまで拷問するように命じられた。男性は、その文化の支配する価値観に従って、兄と自分の面目を守るために、涙を流しながら、妻をむち打ち続けた。しかし、後日、その男性は、割礼撲滅のために立ち上がった女性たちに鼓舞され、彼女たちに蔑みのことばを放つ兄に対して、「妻は勇敢だ」と語り、怒る兄に対して、「私にも誇りがある」と言って、妻の側についた。

 

弟の誇りに、同じ人間として親しみを覚えた。

 

 

文化は人を支配する。けれど、人の心は正直であり、文化に抗う心も持っている。

文化がいくら善だと言っても、人は悲しみ、傷つき、疑い、怒る。

文化と心は切り離せない一方で、文化と心は全く等しいものではない。

文化を受け入れる人もいれば、受け入れない人もいる。

益を受ける者と、益を受けない者が存在する。

強者と弱者に分かれる。

文化を分析していくと、結局どの文化も同じ結論に行き着くような気がする。

 

 

文化の成り立ちの初めには、人間の持っている善悪、聖俗の基準がある。

その基準を人はどのように造り出すのだろうか。最初の人間に、その答えがあるのでは

ないか。

  

 

            神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出し、

            地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、

             その住まいとの境界とをお定めになりました。

                            使徒の働き17章

 

 

最初に造られた人アダムは、神が食べてはならないと命じておいた「善悪の知識の木」から取って食べてしまった。そのことにより、アダムは神のように善悪を知るようになった。それが人類にとっても、さらに全被造物にとっても不幸の始まりであった。

 

                 神である主は仰せられた。

        「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。

       今、彼が手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

                                創世記2章

 

 

人は神に従い、神の造られた世界を治めるために造られたが、神のように善悪を知るようになることは望まれていなかった。なぜなら、人は神の栄光のためにのみ創造されたからだ。そのためには、人が神に従うことで十分だった。

 

ところが、人は自分の栄光を求め、神のようになり、善悪を知るようになることを選んでしまった。そのとき、人は死んだ。自分が裸であることを知り、神に見られることを恐れ、神から身を隠す者となってしまったのだ。神も、人が永遠に生きることのないようにされた。

 

アダムにつながるすべての人間が、死んでしまった。

思いは虚しくなり、無知な心は暗くなり、神の栄光を、滅ぶべき人間や、その他の被造

物へと代えてしまった。

 

そのため、神は、人をその心の欲望のままに汚れに引き渡し、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになった。

 

それは、人が神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに造られた物を礼拝し、それに仕えたからだ。

 

          

             彼らが神を知ろうとしたがらないので、

             神は彼らを良くない思いに引き渡され、

       そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

         

         彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、

        ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、

            陰口を言う者、そしる者、大言壮語する者、

          悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、

           約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

 

              彼らは、そのようなことを行えば、

           死罪に当たるという神の定めを知っていながら、

               それを行っているだけでなく、

            それを行う者に心から同意しているのです。

                        ローマ人への手紙1章

 

神はご自分の栄光のために行動される。神の栄光を汚す者に対して、神はそのわざに応じて報いられる御方だ。神に対する人の不遜な態度はすべて、神の栄光を奪い去っている。神は罪を正しくさばかれる正しい御方。人は自分自身の罪のうちを歩み、人生の終わりには、神のさばきに服し、死罪を宣告される。

 

混沌が、海のようにこの世界を覆っている。本当に悲しくてたまらない。

罪の堕落の影響を受けていない文化は1つも存在しない。

文化は、1人の罪人により始まり、すべての罪人によって継承され続けているものだか

ら。世は文化の集合体であり、世を支配する者は、アダムを惑わし罪を犯させたサタン

である。

 

しかし、神はこの世界をお見捨てにならなかった。神は、サタンの策略を打ち砕き、人

間に救いを与える約束を下さった。

          

 

                                                     わたしは、おまえ(サタン)と女(エバ)との間に、

                                   また、おまえの子孫とおんなの子孫との間に、敵意を置く。

                                    彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

                                  創世記3

       

 

神は、一人の御方によって、新しい人類を創造された。第二のアダム、イエス・キリス

トである。アダムが失敗したことを、キリストは完全に成し遂げられた。キリストは、

堕落した世を生きながらも、世と調子を合わせることなく、神の御心に完全に従い通さ

れた。世は世の基準に従って、キリストを拒んだ。なぜなら、キリストが語ったのは神

の真理についてだからである。

 

 

          光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。

                その行いが悪かったからである。

                 悪いことをする者は光を憎み、   

          その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

                        ヨハネ3章

 

 

キリストは、彼を憎む者たちの手に捕らえられ、訴えられ、むち打たれ、そして人々の前で十字架にかけられ、恥ずかしめを受けて、死なれた。しかし、キリストは敗北したのではない。キリストは勝利されたのだ。キリストは、神の御心に従い、自らいのちをお捨てになられ、そして、再びいのちを得られたのだ。キリストは、私たちの罪のために身代わりとなって死なれ、そして、その完全な従順のゆえに、神はキリストを死からよみがえらせ、天に上らせ、栄光の冠を授けられた。そして、キリストを従うすべての人々に、とこしえの救いを与える者とされた。

 

神は、私たちが受けるべき罰を、罪のないキリストに負わせてくださった。私たちが果たせなかった従順をキリストが代わりに全うしてくださった。そのキリストを信じることにより、罪はすべて赦され、義と認められ、神の子とされた。やがて、神のみもとに上げられ、栄光が与えられる。これはすべて、神の恵み。夫が、姦淫する妻をそれでも愛し続けるように、神は私たちのことを愛してくださった。

 

          神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

                   それは御子を信じる者が、

           ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

                  神が御子を世に遣わされたのは、

          世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

                              ヨハネ福音書3章

 

 

永遠のいのちが、私たちを世の支配から自由にする。永遠のいのちが、たましいに救

いを与え、真理へと導くからだ。無知、虚無、そして死への恐れから、キリストにある

者は解放された。古い自分は死に、聖霊によって、新しく生まれ変わった。私たちは日

毎にキリストの似姿に変えられ、真理は日毎に私を自由にしていく。そして、地上の旅

路の先には、天の王座に着かれたキリストが待って下さっている。そこが、私たちの

永遠の住まい。新しい天と地。神が私たちのうちに住まわれ、昼も夜も私たちを栄光で

照らしてくださる。すべての国々から集められた神の家族とともに、神の祝宴に招か

れ、神の救いと恵みを喜び歌い、賛美を捧げる日。すべての戦いは終わり、勝利の角笛

が鳴り響き、私たちは安息のうちに憩う。古いものは過ぎ去り、すべてのものが新しく

される。

 

生きていても、死んでいても、主はいつまでも私とともにおられる。

主に栄光が、とこしえにありますように。

 

            彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、

             その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

 

       だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。

        そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。

 

            彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、

            太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。

 

              なぜなら、御座の正面におられる小羊が、

          彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。

         また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。

                                黙示録7章

 

 

 "The power of the cross"

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イエス・キリストの十字架。それが私たちの必要のすべて。

 

エスは失敗した。イエスは救い主ではなかった。イエスは単なる預言者の一人だ。イエスはただの人間だ。イエスはよみがえらなかった。イエスはただ死んだだけだ。私がキリストだ。私が救い主だ。私が再臨したキリストだ。など、様々な宗教の指導者たちが言っている。けれど、それらの偽りに耳を傾けないでください。

 

エスは、神の御子、キリスト。

キリストは私たちすべてのために死なれ、よみがえられた主。

主の御名だけが永遠に称えられますように。

 

                                               罪に定めようとするのはだれですか。

                       死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、

        神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

                                ローマ8:34

友だち

 

友だちが欲しくてずっと悩んだ。

心が通じ合えるような理想の友だち像があった。けれど、それにぴたっと合う友だちは現れなくて、そうでない人たちを見下すようになった。友だちはぼくの周りから消えていった。孤独を感じるようになった。孤独が恐かった。しだいに、孤独に慣れていった。 孤独が好きになった。けれど、また寂しくなった。そして、友だちを再び欲するようになった。けれど、もう周りのグループは出来上がっている。私は、浮いている存在だった。

 

大学、親友を欲した。普通の友だちでは満足出来なかった。誰かと特別な絆で結ばれたかった。交友関係を広げた。慕われるようになった。キャラが喜ばれるようになった。誘われるようになった。けれど、無理しているようで、心は疲れていった。そして、気付けば、また一人になっていた。学校の帰りの坂道を、一人で歩くとき、涙がこぼれることもあった。そんなときは、イヤホンを取り出して、音楽を聴きながら、自分の世界に浸った。センチメンタルな自分をどこかで愛しながら。

 

本当に一人だった。心は常に孤独だった。だから、自分とともにいてくださる御方がいる、という賛美は私の心の拠り所となった。私は、そのとき慰められることの意味を知った。

 

「翼のない鳥」

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    何より大切なものは何だろう。あなたと歩めるだけで、それだけでいい。

 

月日が経ち、私には大切な友だち、家族が与えられた。時々、私はこんな幸せを受けてもいいのだろうかと思うときがある。私に彼らの友としての資格があるのだろうかと悩まされる。恐くて逃げてしまいたくなるときがある。失うことを恐れて、距離を取ってしまうこともある。

 

けれど、何より大切な友が私にはいることを忘れてはならない。最高の友は、イエス・キリストだ。私がどれだけ友にふさわしくない行動をしても、キリストは私を見捨てない。そして、友に見捨てられる失望を味わわれたキリストは、友に見捨てられた人の心を慰めてくれる。

 

私は、神なる主に嫌われることを恐れる。けれど、キリストの愛はこの恐れを打ち消してくださる。そして、私も友の恐れを締め出すように、友を愛する者へと変えられていく。

 

        愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。

             なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。

            恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

                             Ⅰヨハネ4章

 

     

 

In the Valley  谷の中で

 

        たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、

              私はわざわいを恐れません。

                    詩篇23篇

 

この詩篇の作者のようには、私は生きることはできていません。

私は臆病者です。

 

不安になると、現実逃避を繰り返して、気がつけば、状況が悪化していて、心はズタボロになっています。余裕がさらになくなって、目の前が冷静に見えなくなります。

 

わけわからんってなります。

なんやねんってなります。

「おれってカスやな」とか繰り返して言ってしまいます。

そして、現実逃避して、寝ます。

 

 

 

私が恐れているのは、人生の虚しさと向き合うこと。意味がない人生を認めて生きること。他にも、人や世間からの評価だったり、人を傷つけることなく守ることができるのかだったり、思い煩いはなくなりません。

 

でも、それらすべての悩みの一番奥にあるのは、死の現実です。死がすべてを取り去ってしまい、後には何も残らない。人が死んだら天国に行くって思いたいけど、そんな保証はどこにあるのでしょうか。死という得体の知れない相手に対して、自分なりに解決を用意してないと、死とは向き合えないから、先祖供養とか、天国とか私たちは幻想しているのではないかと、思います。もしかしたら、死への恐れというよりも、日本人であることにこだわっているのかもしれません。他の人たちと違う行動をすることは、日本ではあまり良く思われません。そこにも、恐怖が潜んでいます。

 

周りと一緒なら安心感が持てるし、本当に天国に行けるなら希望が持てる。けれど、それってほんまなん、と考えてみることも大事だと思います。

 

 

 

 

この詩篇の作者が最も恐れていたのは、神に見捨てられることでした。

彼が信じて、従っていたのは、世界を創造された唯一まことの神です。

 

 

彼にとって、世であっても、天国であっても、神がともにいてくださらなければ、人生は恐ろしく、虚しいものでした。

 

世は、神を認めない。自分の神を作るか、自分の偶像をつくるかして、心の空虚さを埋めている。人は生きる為に、神なしで自分はこの世界を生きることができると信じている。けれど、成功、結婚、繁栄、名誉、快楽、楽しみ、美しさ、すべてを手に入れても、満足することは決してない。そして、自己満足、自己充足を追い求めた人生の最後に待っているのは死。いつ訪れるかは誰にも分からない。生と死のサイクルは、世界が保たれる限り続いていく。人生の後には、死後の世界があり、永遠にその世界を生きるのだろうと漠然とした望みを抱きながら、人は一生を終えていく。しかし、だれも死の後に何が待っているのかを本当は知らない。そのように突き詰めて考えていくと、人は人生について、いや、自分自身についても何が何だかよく分からないと思います。

 

 

人は祈る。神を求めて。それは、神を求めるように、神が人を造られたから。人は神とともに生きるように造られたから。人は一人で生きていくことはできずに、神に依存してでしか生きることのできない存在として造られたから。

 

神は、人の心に永遠を与えられた。宇宙の自然を見て、神の存在と力を認める者として造られた。人は、自分とこの世界を創造された神を賛美して、喜んで、神を礼拝して生きる者として造られた。

 

その初めの世界は、神の目に、非常に良いものだった。

神を知ることは、世界を知ることであり、自分を知ることであります。

なぜなら、すべて、目に見えるものも、目に見えないものも、ただ神によって造られたからです。

 

 

 

けれど、人が罪を犯し、罪が全世界に入り、死がすべての人を支配するようになったとき、世界は暴虐に満ち溢れました。サタンが人を惑わし、神の栄光を奪った。神の栄光を現すために造られたすべての人が、自分の栄光を求め、自分が神のようになり、世界を自分のものとして支配するようになった。それは、人にたましいの死と破滅をもたらした。それが、サタンの願いだった。サタンは、世界を罪と死によって支配し、人を甘い言葉で誘惑し、惑わし、心と欲望を正当化させる。一瞬の快楽は長くは続かず、静かに人生に暗闇をもたらしていく。たましいの渇きはもはや潤うことがない。荒れ地、砂漠のような心に、いのちは育たない。サタンは、初めから真理に立たず、人を惑わし、いのちを奪いさる、人殺しだ。しかし、自分が奴隷であることも、人は自分で知ることはできない。決して渇くことのない、新しいいのちの泉を必要としている。

 

神は天におられる。天におられ、地上のすべてを支配しておられる。そうであるならば、人は死後、天に行けるのか。神は、人を受け入れ、ご自分のふところに住まわせてくださるのだろうか。

 

神を認めず、サタンの偽りを信じ、神に罪を犯して生きる人間を、神は天国に招き入れる義務があるのだろうか。むしろ、聖なる神の御前に、人は近づくことはできないのだ。人は、自ら神を離れ、一人で生きることを選んだ、その責任を自分で背負わなくてはならない。人は、死後、神のさばきを受けて、永遠に神の御前から取り去られてしまうべき存在なのだ。

 

           

        たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、

               私はわざわいを恐れません。

            主が、私とともにおられますから。

 

 

なぜこの作者は、わざわいを恐れなかったのか。それは、主がともにおられたからだ。しかし、なぜ主は罪人とともにいてくださるのか。

 

そこに、主の恵みがある。

主は人を赦して、ご自分のもとに引き寄せてくださるのだ。

 

ところが、神は聖なる御方であり、人の罪を必ず罰する御方である。そのため、神は人とともに住まうことは出来ないのだ。

 

けれども、なぜ神は人とともにいることができるのか。それは、私たちの代わりに、さばきを受けてくださった御方がいるからだ。また、私たちの代わりに、神に従って、完全な正しい生涯を全うされた御方がいるからだ。その御方は、イエス・キリスト。神の御子である。

 

キリストは、神であり、世界の創造される前から、神とともにおられた御子である。神は、その御子を完全な人間とし、私たちのために、世に遣わしてくださった。目に見えない神は、目に見えるかたちで、ご自身を現された。神と御子は1つであられる。

 

キリストは、世にあって、死の陰の谷を歩かれた。人々からののしられ、暴力をふるわれ、迫害され、偽証によって訴えられ、裁判にかけられ、そして十字架刑に処せられ、死なれた。

 

キリストは、苦しみもだえられた。十字架にかけて殺されることを知りながら、エルサレムに向かった。彼は、涙と叫びをもって、神に祈られた。そして、神は恐れに打ち勝ち、私たちを罪と死の奴隷から救い、永遠のいのちを与えるために、十字架の死に従われた。

 

             たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、

                私はわざわいを恐れません。

             主が、わたしとともにおられますから。

 

神は、キリストとともにおられた。神は、キリストの祈りと願いを聞き届けられた。しかし、その答えは、最後に神から見捨てられることであった。つまり、キリストは、私が出来なかった完全な信頼と従順を成し遂げられ、同時に、私が受けるべき罰を、代わりに受けてくださった。

 

杯に注がれた御怒りは誰かが飲まなくてはならない。キリストは私の杯を代わりに飲み干し、キリストが受けるべき祝福を、神は私の杯に満ち溢れるまで注いでくださった。

 

 キリストは私たちの救い主。神は、キリストを信じる者のすべて罪を赦し、罰を取り去り、キリストの義をその者の義としてくださった。

 

神は、キリストを愛するように私を愛し、キリストを喜ぶように、私を喜び、キリストを死からよみがえらせ、栄光を与えてくださるように。私を死からよみがえらせ、同じ栄光を授けてくださる。主なる神は、私を見捨てるのではなく、私を抱きしめてくださった。

 

私には、祝福でなく呪いに値する罪人であった。しかし、今、杯に注がれているのは、神の溢れる祝福。私の唇は、ただ神の恵みを賛美する。

 

キリストは死に、よみがえり、天に上られ、神の右の座に着かれ、天と地におけるすべての権威を与えられ、私たちの罪のためにとりなす大祭司(仲介者)であり、義をもってこの世界をやがてさばかれる王となられた。

 

そして、私たちは、主の恵みによる永遠の選びによって、キリストのものとされた。

キリストは、決して私を手放さず、いつまでもともにいてくださる。

そして、困難や迫害のただ中にあって、私を守り、養い、祝福を溢れさせてくださる。

 

 

          まことに、いのちの日の限り、慈しみと恵みとが私を追ってくるでしょう。

                       私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 

 

主にいつまでも、とどまり続けたい。ここからはぐれてしまいたくない。主がともにおられること、それが私にとってのすべてだ。

 

 

           たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、

 

 

神は、私を苦難の道へと導かれる。それは、苦難のなかに、神の恵みと力が現されるからであり、苦難を通して、神は私をキリストのような人へと造り変えてくださるからだ。わざわいを恐れることなく、ともにおられる主に信頼し、主にとどまり続けることを何よりも願う者へ。

 

神を愛し、神の栄光が現されるために、自分の十字架を背負う者となれるように。

 

       

             主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

 

 

私の帰るべき場所は天にある。

地上をさまよい歩くのではなく、天に向かってまっすぐに歩く。

ほんまもんの羊飼いに導かれて。

 

 

主は、飢えの中でも、私の必要を満たしてくださる。

主は、罪に死んでいるたましいを、赦しと義によって生かしてくださる。

主は、苦難を通して、私の信仰を養い、勇敢な者へと造り変えてくださる。

主は、敵から私を守り、祝福で私を満たしていてくださる。

 

 主が味方であるなら、だれも私に敵対できる者はいない。

 神が義と認めてくださっているのなら、だれも私を罪に定めることはできない。

 神が愛してくださっているのなら、だれも神の愛から私を引き離すことはできない。

 

      飢え、罪、苦難、迫害、欺き、争い。

      これらすべての中にあっても、キリストにある神の愛によって、

      私は圧倒的な勝利者となる。

 

 

                 主は私の羊飼い。

             私は、乏しいことがありません。

 

              主は私を緑の牧場に伏させ、

            いこいの水のほとりに伴われます。

 

            主はわたしのたましいを生き返らせ、

           御名のために、私を義の道に導かれます。

 

           たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、

              私はわざわいを恐れません。

            あなたが私とともにおられますから。

 

              あなたのむちとあなたの杖、

               それが私の慰めです。

 

        私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、

            私の頭に油をそそいでくださいます。

              私の杯は、あふれています。

 

            まことに、私のいのちの日の限り、

        いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。

         私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

                詩篇23篇 ダビデの賛歌

 

 

”In The Valley”(谷の中で)

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たかが髪の毛だけれど

床屋を予約した。

ガラケーでマップの写真を撮って、チャリで出発した。

途中で道が分からなくなった。

炎天下、とにかく暑い。

シャツは汗でくっつく。

半ズボンだと、O脚が目立って恥ずかしいから、

長ジーンズに履き替えた。それがまた暑い。

だらしなく伸びた髪の毛が、デコにくっつく。

でこのハゲが際立ってそうで、恥ずかしい。

あー、この鬱陶しい髪の毛を早く切りたいのに。

ストレスが溜まってくる。

ガラケーで撮った写真は画質が荒すぎて、地名が全く読めない。

完全に道に迷った。

もう予約時間を過ぎてしまった。

自分の方向音痴さに腹が立つ。

でもそれ以上に、意味のない写真を撮ってしまった自分に心底失望する。

こんなミスは今回だけではない。

毎回だ。

なんてカスなんだおれは、と繰り返しつぶやく。

あー髪の毛を切りたい。

切りたい。

長い。

鬱陶しい。

周りからも鬱陶しいと思われていそうだ。

こんな髪とは早くおさらばして、爽やかになりたい。

髪の毛を切るか切らないかで、どうしてここまで心が落ち着かなくなるんだ。

もはや、落ち着いて考えることができない。

電話がかかってきた。

電話番号の控えもとっていなかったから、遅刻の電話もできなかった。

電話に出て、道に迷ったことを伝えて、とにかく申し訳ないオーラと、大人な対応ができる大人を演出して、臨んだ。

「で、どうしますか?」

「で」、とは言われなかったが、それが聞こえてくるような言い方だった。

店員さんが、無愛想すぎて萎えてしまった。

自分が悪いと分かっているけど、心は萎えてしまった。

それで、予約をキャンセルして帰ることにした。

道は仕事帰りのサラリーマンや、学校帰りの高校生で溢れていた。

人ごみを自転車で通り抜けながら、ちんたらと家に向かってチャリをこいだ。

 

家に着いた。

暑さと虚しさで、心が参ってしまった。

弱っちいな、と情けなく思う。

パスタを作り過ぎた。

しめじを入れ過ぎた。

多く作りすぎたから、残りは明日の朝に食べることにした。

 

一日が過ぎた。

人と関わった時間もそれなりに多かった。

けれど、満足感は低い。

何にかもうまくいっていないような気分になる。

決してそんなことはないのに。

 

人間関係を持つのが本当にへたくそだなと思う。

イライラ。嫉妬。怒り。虚しさ。いっつも感じる。

疲れて仕方がない。

 

焦燥感を感じている。

止まれない。落ち着けない。

頭も体も、全然いうことを聞かない。

自分自身を全然コントロールできてない。

 

ストレス。イライラ。終わらない仕事。勉強。

時間がない。

あるけど、とにかくないと感じる。

何のために生きているのか、ゆっくり考えたい。

けど、そんな時間がない。

いや、時間は用意出来るかもしれない。

けれど、とにかく余裕がない。

休みたい。

offの日を作りたい。

 

心が疲弊していく原因に、人と比較しまうことがある。

ある人たちと比較して、張り合っている自分がいる。

その人に勝ちたい。

ギャフンと言わせたい。

認められたい。

もっと好かれたい。

仲良しでいたい。

でも、なにかうまくいってないと感じたり、

これから増々悪くなっていくような気がして、

気が気でなくなっていく。

ネガティブ思考が加速して、周りへのイライラや敵意へと変わってしまう。

自分自身の心から湧き出る憎しみに気付くとき、自分で自分が恐ろしく感じる。

どれだけ、自分の心は汚れているんだろ。

 

心の落ち着く場所はどこにあるんだろう。

人を恨んで、復讐して、はい終わり。

人生はそんな単純にはいかない。

復讐は復讐を生み、憎しみはさらに大きな憎しみを生み出す。

 

世の中に希望はやっぱりない。かといって、自分の内側に希望もない。心は腐っている。

 

This is the power of the cross. 

キリストが十字架にかかったのは、罪人を救うため。

No other name has power to save, but Jesus Christ alone. 

キリストだけが、救いの力を持っておられる。