Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

暁 -苦難と望み-

神は仰せられた。

「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。

 彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配するように。」

 

神は人をご自身のかたちとして創造された。

神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。

「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。

 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

神は仰せられた。

「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、

 種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、

 いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」

そのようになった。

 

神はお造りになったすべてのものを見られた。

見よ。それは非常に良かった。

夕があり、朝があった。

第六日。

(創世記1章)

 

なぜ、神がいるなら、世界に苦しみがあるのか。

なぜ、神がいるなら、世界に悪が存在するのか。

多くの人がキリスト教について、このような疑問を持っている。

私は、聖書の真理をもって、これらの問いに答えることができてこなかったこと

を、まず認める勇気が必要だ。

 

私は、本やメディアを通して見てきた世界観でもなく、自分が今持っている聖書の

知識によってでもなく、自分はまだ知っていないが、聖書が明確に啓示している世

界について、謙虚になって教えられる必要がある。

 

ここからは、私が今学んでいることの整理であって、聖書の完全な解き明かしでは

ない。けれど、神ご自身が、聖霊を通して、無知で愚かな私にも、聖書の真理を悟

らせてくださる御方であることを信じている。

 

助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネ福音書14章

 

真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

ヨハネ福音書16章

 

 

私は、苦しみや悪を考えるとき、漠然と考えてしまう傾向がある。

戦争、貧困、虐待、搾取、差別、偏見、汚職などの言葉を並べて、説明する

ことはできる。けれど、その苦しみを生きる人の生活をどれほど知っているだ

ろうか。たとえば、農業で生計を立てている人たちの、毎日の労苦を私は知らな

い。経験は殆ど無いに等しい。スーパーマ—ケットに行って、食材を買ってきて、

家で調理して食べるか、お弁当を買って食べるか、外食するかして、私は日々の食

糧を得ている。家畜や野菜や穀物を育てることの労苦をこれっぽっちも共有するこ

とはない。

 

また、貧困で苦しんでいる当事者を個人的に私はあまり知らない。

頭で貧困問題を考えて、議論して、または教えていても、その苦しみを生きる人の

傍らに私はいない。遠く離れたところで、美味しい料理を楽しみながら、上から高

見の見物をしているかのようだ。

 

世界を知れば知るほど、自分の良心と正義感が、私個人の生活の変革を余儀なくす

る。なぜなら、このままの生活を続けるならば、「高見の見物者」であり続けるこ

とになり、自己矛盾を抱えたまま、結局は「何も知らなかった」という最も楽な生

き方を選択してしまうからだ。そうはなりたくないという内なる叫びと、今の生活

を続けたいという安逸を愛する心がぶつかって、最後は後者が勝利する。

 

私は、そんな人生を繰り返してきた。

何をやっても私は変わらない。そうあきらめる癖もついた。

しかし、神に受け入れられた私は、もはや以前の私ではない。

神ご自身が、神の栄光のために、私をキリストのしもべとして必ず造り変えてくだ

さるからだ。

 

 

 

  

ARI(アジア農業学園)という栃木にある学校で、少しの期間、ボランティアをし

てきた。アジアやアフリカの貧しい地域に仕える人たちが、農業とサーバントリ

ダーになるための学びをしている。

 

学校法人 アジア学院 – アジア農村指導者養成専門学校 – 共に生きるために – That We May Live Togeher –

 

「共に生きる」をモットーに、自給自足の共同生活をしている。

朝起きて、掃除をして、ある人達は豚と山羊と鶏の世話をして、ある人達は植物の

世話をして、ある人たちはご飯の準備をして、そして午後は学びをし、夕方はまた

家畜と植物の世話をする。学生たちが学んでいる日中に、職員やボランティアで農

作業をする。

 

そこでは、農薬を使わない有機農業をしている。そのため、雑草は生い茂り、虫も

沢山寄ってくる。雑草抜きや、土作り、種植え、収穫など、すべて手作業で行う。

 

なぜなら、農薬や化学肥料は高いからだ。

また、人体や土、環境に対して悪影響を与えるからだ。

 

ここで学んだ学生達が帰っていところは、貧しい地域であるため、農薬を買うお金

はない。また、日本にある機械やノウハウを使えるようなお金や資源も存在しな

い。そのため、彼らは自分たちの持っている資源を最大限に活かし、学んだ農業の

知識・技術を自分たちの土地で応用させていかなくてはならない。よって、ここで

学ぶことは、農業の最先端の技術ではない。彼らが帰ってから用いることのできる

有機農業の基本的知識と、それを自分たちの土地で応用する知恵と、そこで待って

いる様々な人たちに忍耐を持って謙虚に仕えていく、サーバントリーダーとしての

品性だ。

 

 

あるインドネシアの村では、ミドルマン(販売代理をする人や業者)が殆どの利益

を持ち去ってしまう。農家が労苦して収穫した作物は、複数のミドルマンを経由し

てから、消費者の手元に届くような販売構造になっているため、農家の手元には殆

ど収益が入らない。

 

365日、汗水流しながら、必死に労苦した挙げ句、収益はほんのわずかで、まとも

に食糧を得ることができず、家族も十分に養うことが出来ず、子どもに教育を受け

させる余裕もなく、ただ子どもたちが痩せ細っていくのを黙って見ているしかな

い状況がある。貧困の連鎖からは抜け出せない。

 

その村から来た学生は、正義と公正がないがしろにされているその搾取構造を変え

なくては、貧困がなくならないことを知っている。しかし、貧しい農家の人たち

が、ミドルマンとの繋がりを断ち、新しいスタートを踏み切ることも、簡単ではな

いことも知っている。なぜなら、そのためには、そのコミュニティのリーダーや村

人たちが教育され、勇気を持って一緒に立ち上がる必要があるからだ。

 

何が正しくて正しくないか、何が良いことで悪いことか。

社会や状況を改善するために、どうすればよいのか。

教育によって、自分の人生と世界を見る目は変わっていく。

無知は人を閉じ込める。しかし、教育によって道が開かれる。

 

しかし、教育こそが、最も難しいことではないだろうか。

その学生は、サーバントリーダーになることが自分には不可能だと感じているこ

とを正直に語ってくれた。世のリーダーは自分の力を誇示して、権力を誇るように

なる。しかし、キリストを模範とするサーバントリーダーは、自分の権力を捨て、

最も低い者となり、自分のためではなく、相手の益のために仕えるしもべとなるこ

とだ。

 

反対を受けても、非難中傷を受けても、忍耐と謙虚さによって、人の心が変わるま

で信じて仕え続けることなんて出来るのだろうか。これは、彼が、コミュニティの

抱える問題と、その担い手である村人たちを個人的に知っているからこそ、生ま

れる葛藤なのだろう。彼は、すでに10年以上、その地域で貧しい農民たちに仕えて

きたのだから、色々な実情が見えているのだ。

 

しかし、彼はそのような恐怖に襲われながらも、神の与える忍耐と励ましによっ

て、神が彼を遣わす地域のために、毎日備えをしている。

 

 

 

そんな彼と、結婚についての話もした。彼には奥さんがいて、小さな子どもも

る。初めは1年間なんですぐだと思っていたそうだ。けれど、実際に離ればなれに

なってみると、毎日寂しくてたまらないらしい。

 

結婚は簡単ではないと話してくれた。

結婚してから、奥さんの悪い部分が沢山見えてくるからだ。逆に、自分の悪いとこ

ろにも奥さんが気付くようになるからだ。色々なことで、互いにぶつかったり、上

手くいかないことがあったそうだ。けれど、今は会いたくて仕方がないと言った。

 

日本の婚姻率は年々低下し、平均初婚年齢は上昇している。晩婚化は、少子化につ

ながり、少子化は社会全体の負荷の要因となる。フィリピンは逆で、人口ピラミッ

ドが綺麗なピラミッドになっている。社会全体に希望がある。

 

なぜ、日本はそうなのかと聞かれたが、経済状況や価値観の移り変わりなどが原因

だと思うとしか答えられなかった。しかし、結婚において最も大切なのは、相手へ

のコミットメント(献身)ではないかと思う。それは、妻を自分自身のように愛

し、生涯をかけて、自分を捧げて生きることだ。価値観の相違や相手の悪い点が見

えてくることは当たり前のことだ。ときにはトラブルも起こるだろう。そして、

上手くいっていないときには、他の女性に慰めを求める思いも湧いてくるかもしれ

ない。

 

しかし、その都度、コミットメントに立ち帰らなくてはならない。夫として、妻を

いかなるときも愛すると誓った最初の誓約に。彼は最初の契約に立ち続けている。

相手の嫌な部分を知ってもなお、一人の妻の夫として生きている。このコミットメ

ントを破るとき、夫婦間の信頼関係は脆く崩れ去り、愛は冷えていき、家庭崩壊へ

と進んで行くだろう。

 

 

労働も喜びとなり、結婚も喜びとなる。しかし、どちらも喜びだけではない。労苦

があり、困難が伴い、涙を流すときだってある。どうにもならないような、悲惨な

現実を受け入れなくてはならないときもあるだろう。不作の年があり、自然災害に

よる大損害を受けるときもある。搾取があり、破壊があり、飢餓によって亡くなっ

てしまう子どもたちもいる。夫婦や家族の間でDVや虐待がある。夫婦関係、親子関

係に亀裂が入り、幸せとは正反対な家庭環境も多い。不倫によって、涙を流す人た

ちがいる。離婚によって、愛に飢える子どもたちがいる。そして、ときにネグレク

トによって、あるいは虐待によって命を落としてしまう子どもたちもいる。

 

 

 

 

どうして、神がいるなら、世界に苦しみがあるのか。

どうして、神がいるなら、世界に悪が存在するのか。

 

今なら、私はこのように答えるだろう。

 

最初に世界が造られたとき、世界は非常に良いところだった。神は、人がこの世界

に生まれ、ふえて、広がっていくようにと祝福された。そして、地を従えて、動物

たちを治める責任を人に委ねられた。神は、人にも動物たちにも、その食糧とし

て、十分な植物を用意してくださった。そこには、貧困もなく、争いもなく、平和

な秩序が存在していた。まさに、「共に生きる」世界があった。

 

けれど、サタンの誘惑によって、人が神のことばに背き、神のみが有していた善悪

の知識を得てしまったことにより、人は恥を感じるようになり、神を恐れるように

なってしまった。それから、人は自己義認と責任転嫁をするようになり、サタンの

惑わしに従い、神に背いて生きるようになってしまった。

 

人の罪のゆえに、神は、出産と夫婦の関係に苦しみを増し加えられ、さらに、土地

を呪い、土地から糧を得るための労苦を与えられた。そして、人が永遠に生きるこ

とのないように、いのちの木から取って食べることが出来ないようにし、やがては

土地のちりに帰らなくてはならない、はかない存在とされた。

 

 

この世界の苦しみや悪とは何だろうか。

悪とは、サタンの惑わしであり、また人の罪である。それは、神の否定、恥と恐

れ、自己義認と責任転換、そこから派生する様々な悪い考えや行いである。

 

苦しみとは、出産と夫婦関係、糧を得るための労苦、はかない命、そして死であ

る。この後、創世記には、人類最初の殺人が記され、土地の争奪、暴力による復

讐と支配、夫と妻の支配関係、多重婚、姦淫、乱れた性的関係など、世界は人の罪

による暴虐に満ちていく。それらが人にもたらすものは、苦しみである。

 

この世界にこのような苦しみや悪が存在するのは、人の罪のゆえである。

神が、人の罪のゆえに、土地を呪い、夫婦や労働の苦しみを増し加えられ、ついに

はちりに帰る存在とされた。そして、地上には人の悪が増大していき、人の暴虐で

満ちていった。

 

このような状況に対して、最も心を痛められたのは、神ご自身であった。

実際、神は一度、世界を大洪水によって滅ぼされた。それが、ノアの大洪水として

知られる出来事である。しかし、神は、主の心にかなって歩んでいたノアとその家

族と、すべての生き物を雄雌1匹ずつ生き残らせるために、ノアに箱舟を作ること

を命じられた。ノアはすべて神が命じられとおりにした。

 

そして、ノア達だけが助かり、神はノアとその子孫と動物達に対して、永遠の契約

を結ばれた。「すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もは

や大洪水が地を滅ぼすようなことはない」。そして、”虹”がその契約のしるしとし

て与えられた。

 

そして、神は、ノアとその子孫に再び祝福を与え、生んで、ふえて、地に満ちてい

くようにされた。さらに、すべての生き物を再び、彼らに委ねられ、それらを彼ら

の食糧とされた。しかし、血にあるままで食べてはならないとも命じられた。なぜ

なら、神は人を神のかたちに造られたからであり、血を流すためではなく、ふえ広

がるようにされたからである。そのため、神は、人のいのちのためには、血の価を

要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流されなくてはならない。おそら

く、生き物を血のあるままで食べてはならない理由は、神にとって、血は人のい

のちそのものであり、そのことを覚えるためだと考えられる。

 

神は、人と被造物を憐れんでくださった。

 

わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。

人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、

わたしがしたように、すべての生き物を討ち滅ぼすことはすまい。

地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、

寒さと暑さ、夏と冬、

昼と夜とは、やむことはない。

創世記8章

 

 

人は、悪を心に抱えながら、出産、夫婦の苦しみ、糧を得ていくための労苦、人生

の儚さを与えられながら、神の憐れみによって保たれている世界にふえ広がってい

くようにされた。しかし、そこには神の目的があった。人が再び神を求めるように

なり、そして、神を知り、神を信じて従い、神の恵みの栄光をほめたたえるように

なることであった。神は人を見捨てなかった。

 

 

実は、人が罪を犯した後、神は労苦を人間と世界に与えられただけではない。

神は、救いの約束と恵みをも与えてくださったのだ。

 

神は、サタンに向かって、「女の子孫によって、おまえのかしらを踏み砕く」と宣

言された。それは、罪と死によって人と世とを支配するようになったサタンの力

を、神はやがて滅ぼし、人を救われるという約束だった。それは、「女の子孫」と

して、初めの女性エバの遠い子孫であるマリヤによって生まれることになるイエ

ス・キリストのことだ。キリストの十字架によって、サタンの頭は打ち砕かれた。

サタンは、キリストを信じる者を、もはや罪と死によって支配することはできな

い。なぜなら、彼らは、キリストにあって、罪の赦しと、永遠のいのちを得ている

からである。

 

また、恥を覚えて後、いちじくの葉をつづり合わせて、腰の覆いを作り、神を恐れ

て、身を隠していた人間に対して、神はいじちくの葉の代わりに、皮の衣を作り、

彼らに着せてくださった。皮の衣ということは、動物の血が流されたということ

だ。神が作られた良い世界の中心にあったエデンの園で、初めて動物の血が流され

た。しかも、神ご自身の手によって。それは、人の恥を覆うために。

 

神は、ご自身に背いた人間に対して、皮の衣を着せてくださった。

恩恵を受けるに価しない人間に、神は良くしてくださった。これが、神の恵み。

皮の衣で人間の恥を完全に覆い隠すことはできない。しかし、これは後に訪れる救

いの型であり、ついに神の御子イエス・キリストご自身が肉体を割かれ、血を流

し、私たち人間の恥を完全に覆って下さった。それは、私たちがキリストを着るな

ら、キリストの完全な義が私たちのものとなるからだ。

 

神は、私たち罪人を、もはや罪に定めることなく、義と認め、神の御霊を注ぎ、ご

自身の子として受け入れてくださっているのである。

 

神である主は蛇に仰せられた。

「おまえが、こんな事をしたので、おまえはあらゆる家畜、

 あらゆる野の獣よりのろわれる。

 おまえは、一生、腹ばいで歩き、

 ちりを食べなければならない。

 

 わたしは、おまえと女との間に、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、

 おまえは彼のかかとにかみつく。」

 

女にはこう仰せられた。

「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。

 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。

 しかも、あなたは夫を恋い慕うが、

 彼は、あなたを支配することになる。」

 

また、人に仰せられた。

「あなたが、妻の声に聞き従い、

 食べてはならないと

 わたしが命じておいた木から食べたので、

 土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。

 あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、

 あなたは、野の草を食べなければならない。

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、

 ついに、あなたは土に帰る。

 あなたはそこから取られたのだから。

 あなたはちりだから、

 ちりに帰らなければならない。」

 創世記3章

 

 

 

 このように、神は土地への呪いと人への労苦とともに、救いも約束してくださっ

た。そして、その救いはキリストによって成就し、私たちとすべての被造物に生け

る望みを与えてくださった。

 

動物も、植物も、土地も、空も、海も、宇宙も、ともにうめき、ともに産みの苦し

みをしながら、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる。

 

御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心のなかでうめきながら、子にしてい

ただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる。

 

 

 

結論は、

人生は苦しみと悪で満ちている。

それは人の罪のゆえである。

 

しかし、神は人と被造物を必ず救ってくださる。

 

私たちはキリストによって魂を救われ、聖霊を与えられた。

そして、今、すべての被造物とともに、うめきながら、

神の救いの訪れを待ち望んでいる。

 

それは、すべて神の憐れみと恵みによるものである。 

 

私たちが、イエス・キリストによる神の恵みの栄光を、私たちがほめたたえるため

に。

 

          私たちは、この望みによって救われているのです。

            目に見える望みは、望みではありません。

       だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

           もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、

            私たちは、忍耐を持って熱心に待ちます。

                            ローマ8章

 

 

 

長崎に原爆が落ちた日付に、アジア、アフリカのクリスチャン達とともに

主に祈り、主に賛美を捧げた。

 

平和の君なるイエス・キリストの御名をたたえます。

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乳児院

乳児院で働く女性の話を聴きました

 

乳児院とは、様々な事情によって家庭で十分な保育を受けることができない乳幼児を養育することを目的とした児童養護施設です。

 

政府は先日、里親数を75%増やして、現在全国に100以上ある乳児院や、その他の児童養護施設を減らしていく方針を示しました。

 

しかし、実の子どもではない子どもの親代わりをすることは簡単なことではないと思います。親から捨てられた子どもたちの心の傷の深さを誰が知ることができるでしょうか。

 

子どもを捨てた親は、なぜその選択をとってしまったのでしょうか。結婚、夫婦、家族の抱える問題はとても大きいのに、あまり注目されていないように感じます。

 

家には奥様や小さな子どもたちがいるのに、仕事からまっすぐ帰らずに、言い訳を作って遊ぶサラリーマンの知り合いも周りにいます。

 

結婚指輪を外すことで、自分が既婚者であることをあえて知られないようにしている人たちもいます。

 

友だちのバイト先には、パパ活をしている女子高生や大学生がいます。女子学生のみではなく、可愛めの男子学生もパパ活をしています。パパ活とは、パトロン(パパ)を見つけて、一緒に食事をしたりすることで、金銭的な施しを受けることです。肉体関係は伴わないため、援助交際とは区別されています。

 

自分の父親がもしそんなことをしてたら、子どもはどんな気持ちになるでしょうか。

 

パパ活援助交際、キャバクラ、ガールズバー、風俗。沢山のサラリーマンが、女性をお金で買っています。それが、ストレス発散の娯楽となっています。

 

さらに、スマフォを使って、いつでも簡単に、ポルノを見ています。

女性は、AVに強制出演させられてもしています。

 

なにげなく見るポルノや、通りすがりの女性を情欲を持って見ることや、友だちや会社の同僚との淫らな会話、またメディアが発信する性の価値観などによって、私は女性の扱い方が変わってしまうことを知っています。

 

男性が一人の女性を、一人の尊い人格として見ることが出来なくなっていくとき、それは結婚、夫婦関係、そして子どもの人生へと悪い影響が繋がっていきます。

 

 

それはとても恐ろしく、残酷なことです。

女性が傷ついています。家庭が崩壊していきます。その結果、苦しむのは子どもたちです。さらに、生まれてくる前に殺されてしまう赤ちゃんも沢山います。

 

 

乳児院の話を聴きながら、闇夜の深さをまだ知らない自分を受け入れつつ、

闇が深くなるほどに、キリストの光は輝きを増すのだと教えられた。

 

罪が深くなるとき、神の恵みも大きくなる。

 

 

神は、みなしごであった私たちを、キリストの代価によって買い取り、養子としてくださった。その恵みと救いに対する賛美。そこから、キリストを宣べ伝える情熱が溢れ出る。

 

 

友だちのアメリカ人夫婦は、日本人の女の子を養子として受け入れた。それ以来、2人は養親として彼女を大切に育てている。そんな夫婦と女の子の家族としての歩みを近くで見ながら、私は真実な神の愛をそこに感じている。

 

それこそ、「真実と行いの伴った」愛だと、思う。

神は、実際に、ご自分の御子を、私たちの罪のために、十字架にかけられた。

そこに、愛がある。 

 

 

 

 

 

 

 

まだ見ていないもの

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。......私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。ローマ8章

 

 

主よ、私は何を望みとして生きているのでしょうか。

私の心を探ってください。

そして、虚しいものを追い求めることをやめさせてください。

 

主が私に下さった望みは、まだ目で見ていないものです。

それは、まだ来ていないのです。

だからこそ、私は忍耐を持って、熱心に待ち望めるのです。

 

主が将来現そうとされている栄光は、想像を遥かに超えて余りあるものです。

私たちと被造物はともに、うめきながら、産みの苦しみをしています。

しかし、私たちが贖われ、自由とされ、栄光の中に入れられるときが来ます。

 

それは、私たちの罪のためにほふられてくださった小羊、

イエス・キリストによる和解のゆえです。

 

主よ、私の望みは目で見えているものではなく、まだ見ていないものであることを、

いつも思い出させていてください。

 

主を待ち望みます。

主の栄光を現して下さい。

嘆き

嘆くことは人生の一部。

 

隠さなくて、強がらなくていい。

 

この世界に生きていて、悲しみを感じないなんてあり得ない・

 

だから、嘆くことをためらわないで。

 

嘆くことを奪わないで。

 

嘆く人をさばかないで。

 

むしろ、悲しむ人の隣にそっと寄り添って、

一緒に涙を流してあげて。

 

無理矢理、涙を拭おうとしなくていい。

涙を流し切るまで、待ってあげて。

 

エス様が、必ず涙を拭ってくださるときが来るから。

スローペース

限りある人生において、本当に優先しなければならないものは何だろうか。

1つのことが終われば、すぐに次のことに取りかかり、息つく暇もないまま忙しく過ご

してしまっている。もはや「木を見て、森を見ず」の状態が当然になっている。

  

忙しさをあえて好む人もいる。その1つの理由は、余計なことを考えなくていいから

だ。

 

自分な好きなことをして、能力を生かして、自由な意思を持って、活き活きと働くこと

ができる仕事を見つけることが出来たら幸せだろう。それで、なおかつ十分なお金を稼

ぐことができて、大切な家族と余暇を存分に楽しむことが出来たら最高だ。

けれど、もうそんな望みも抱かなくなった。会社に行きたくない。また地獄の一週間が

始まった。会社で笑えない。やめたいけど、やめられない。だから、人生にもうそんな

希望は持てない、と思っている人も多いだろう。

 

そんな人生に変革をもたらすことを目的とした数ヶ月感のプログラムを提供している会

社がyoutubeで広告を出していた。実際に人生が変わったという受講者たちの声もウェ

ブサイトに載っている。多くの日本の人たちが、新しい展望と可能性を得て、よりポジ

ティブでクリエイティブな人生を始めることができるかもしれない。

 

けれども、人が本当に必要としている変化はもっと大きなものだと、聖書は教えてくれ

ている。

 

自分を中心に考えるならば、別に変化を必要としていない人もいる。

今の状態がもっと続けばいいと思っている人もいる。

 

けれど、人は、まさにそこに根本的な変化を必要とする。

それは、神を認めることである。偽者の神ではなく、聖書と、人となられた御子によっ

て啓示された真実の神である。

 

神を認めることは、神の存在を肯定することのみではない。

それは、自分中心の生き方から神中心の生き方に変わることであり、

自己礼拝の人生から、神礼拝の人生に変わることである。

 

神が求めているのは、神を愛し、神の命令を守る礼拝者である。

神は、そのために、ご自分の御子を世に遣わし、かつては神から離れていた私たちに、

神ご自身が近づいてくださった。そして、御子の死と復活により、信仰による賜物であ

聖霊によって、神に近づける存在としてくださった。

 

                私たちは、このキリストによって、

           両者(ユダヤ人と異邦人)ともに一つの御霊において、

              父のみもとに近づくことができるのです。

                         エペソ人への手紙2章

 

父(神)のみもとに近づくことができるのは、父が私たちの罪を赦し、子として受け入

れて下さったから。聖霊はその証。もう恐れなくていい。神は愛と恵みを持って、罪人

の私を抱きしめてくださる。だから、いつまでも罪責感にしがみついてはいけない。自

分を汚れた人間だと思い続けなくていい。罪を償おうとしたり、汚れを隠そうとした

り、神や人から逃げたりしなくていい。

 

もう孤児でも奴隷でもなく、神は私たちを養子として受け入れてくださり、「お父さ

ん」と呼んでいいよ、と言ってくださったのだから。しかし、父は、私たちを放任しな

い。「好き勝手していいよ。ぜんぶあなたのものだから。」とは決して言われない。

 

父は私たちをご自分の子として愛しているがゆえに、懲らしめてくださる。それは、私

たちの間違いを教え、正しい道を生きることができるように成長させるため。

 

      肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、

  霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

    すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、

        後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

                               ヘブル人への手紙12章

 

人が本当に優先すべきものは何だろうか。それは、人が”神”を造り出した目的とは逆で

あり、神が人を造られた目的に生きることである。

 

それは、神を礼拝すること。だから、神を礼拝するとき、人の心は喜びに満た

される。その喜びは、他のものが与えることは決してできない。

 

キリストは人間の代表として、神を礼拝して生きられた。そして、十字架の死さえも、

神の御心に従われ、ご自身を神に捧げられた。私たちは、キリストのような礼拝者では

ない。けれど、神はキリストと同じように私たちを見てくださっている。それは、神の

約束と恵みのゆえに、信仰によって、私たちはキリストと一つにされたから。そして、

キリストに似た礼拝者へと、私たちの心を聖霊によって変えてくださる。父が子を懲ら

しめるようにして。

 

 

 

私は、母親と姉がクリスチャンだ。

物心ついたときから、天地を創造された神を信じていた。

しかし、私の人生は自分中心であり、神は人生の附属物にすぎなかった。

 

けれど、神の恵みにより、世界は神を中心にまわっていることを知った。

私の存在は、私のためではなく、神のためにあることを知ったとき、

私のなかですべてのピースが繋がった。

 

                 そういうわけですか、兄弟たち。 

          私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

    あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

               それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 

               この世と調子を合わせてはいけません。

                いや、むしろ、神のみこころは何か、

             すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、

               完全であるのかをわきまえ知るために、

                 心の一新によって自分を変えなさい。

                               ローマ人への手紙12章

 

限りある人生の中で、本当に優先すべきことは何か。

それは、何をするときも神を礼拝すること。

 

人生のすべては、神を礼拝するためにある。自分の存在そのものが、神へのささげもの

である。私は、いつも聖書のことばによって、その真理に立ち帰り、自分の動機・目的

を点検する必要がある。いや、それ以上に新しくされ続ける必要がある。そのために、

神は、真理の導き手、助け手なる聖霊を与えてくださっている。

 

しかし、私は、神を礼拝して生きているのか分からなくなるときがある。

自分が、神への礼拝だと思っていても、実際は自分を礼拝していることが、どれほどあ

るだろうか。私は、いつになっても自己中心と虚栄心によって行動してしまい、自分の

心さえも欺いてしまう罪人だ。

 

だから、ゆっくりと立ち止まる時間が必要だ。最近は、ますます強くそう思わされてい

る。そういう意味で、私はもっとスローペースに人生を歩みたい。

 

人生で最も大切な目的に生きるために。

 

 

ちなみに、

毎週日曜日にもたれる礼拝と、聖餐式は、神の救いをお祝いする祝祭だ。

神の御子の割かれた肉体と、流された血潮によって、私たちはいのちを与えら

れた。週に一度、立ち止まって、キリストのよる救いを思い出しながら、神の御前で休

むとき、続く一週間を神への礼拝のために生きる力を与えられる。

 

神に救われ、神の子とされた私たちは、人生の苦難を共にし、天におられる主に向かっ

て新しい賛美を歌う。キリストが戻ってこられる日を待ち望みつつ。

 

私たちは一人ではなく、キリストにあって一つの家族。神は、私たちのうち誰一人をも

失うことなく、天の御国へと守り導かれる。

 

 

今、この文章を読んで下さっているあなたも、キリストを信じて、神の家族に加えられ

ますようにと、祈りつつ。

 

"Behold The lamb"

聖餐式の際に、よく用いられる賛美。

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心にタンポポ

自分を誉めることは、私にとって一番苦手なことの1つだと思う。

 

友だちに、「たまには自分のことも誉めてあげないとだめだよ。はい、誉めてみてっ」

と言われて、沈黙してしまった。

 

そういえば、就職活動のときも、自分の長所が思いつかなくて困った。

その頃から、自分に対する見方はあまり変わっていないのかもしれない。

 

髪の毛が大分長くなっているのに、なかなか髪を切りにいくことが出来なかったのも、私のコンプレックスが関係している。

 

少しでも格好よく見られたかったから。

髪の毛が短くなれば、貧弱な姿が目立ってしまう気がした。

だから、カットに行く踏ん切りがつくまで、結構な時間がかかってしまった。

 

「美しさ」は私の偶像だ。

自分が美しくあれば、大切な人たちはもっと私を求めてくれると期待してしまう。

 

でも、それは根本の偶像ではないと気付いた。

私が取り去らなくてはならない偶像は、「人」そのものだ。

 

人からの承認欲求が私を縛り付けている。

美しさを用いて、良い行いを用いて、笑顔を用いて、一緒に過ごすことを通して、

私は人に受け入れられようとしている。

 

そうして、いつの間にか自分も疲れて、相手も疲れさせてしまう。お互いにどこかで無理をしているのだと思う。少しのきっかけで、不安が大きくなって、距離を取るようになっていく。

 

ずっと悩んで、諦めかけていた。

 でも、神は私を諦めさせなかった。

 

答えはいつも、イエス・キリストへの信仰に立ち帰らされて、与えられる。

イエス・キリストの十字架と復活が私に与えてくれたものは、「すべて」だった。

神を知ることが、私にすべてを与えた。神を知ることが、すべてを変えた。

 

いくら強調しても足りない。神を知ることの大きさ。

神が愛する独り子を、死に明け渡されたのは、私たちが永遠のいのちを持ち、

神を知るためだった。それは、神との交わりに迎えられることだった。

 

私は神を知っている。神に愛されていることを知っている。神の尽きない恵みと憐れみを知っている。イエス・キリストを信じる者はみな、救われる。

 

自由だ!もう罪に定められることは決してない。死を宣告されることもない。さばきと呪いはすでに取り去られた。何も恐れるものはない!!!

 

神が味方であるなら、一体誰を恐れる必要があるのか。恐れるな、雄々しくあれ、勇敢

であれ。ただひたすらに、愛の賜物を熱心に求めよ。

 

 

                      兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。

                    ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

                                                                                               ガラテヤ人への手紙5

 

 

自由に生きていい。何にも縛られなくていい。私たちは自由を生きるために召されたの

だから。しかし、それは肉の欲望のままに生きるためではなく、互いに愛し合うため

だ。

 

 

             キリスト・イエスにあっては、割礼を受けるか受けないは大事なことではなく、

                                            愛によって働く信仰だけが大事なのです。

                                                                                            ガラテヤ5

 

 

愛し合うことを求めていいんだ。自分なんかって思わなくていい。

キリストにある兄弟と姉妹ともっと愛し合っていいんだ。

この「愛」はセクシュアルなものでも、いやらしいものでもない。

真に混じり気のない、関係に基づいた誠実な愛だ。

 

映画で、アフリカのある家族の兄弟たちが、妹を本当に愛して、抱きしめていた。

私も、主にある家族を、家族として抱きしめていいんだ。

 

                              あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、

               偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。

             

                あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、

                            生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

                                                                                                            Ⅰペテロ1

 

 

自分を誉めることはやっぱり苦手で、それは変わらないかもしれない。

 

けれど、私を認め、評価してくれる兄や姉、弟と妹たちがいる。

彼らの評価によって、私の存在価値が左右されるわけでは決してない。

だれが何を言おうと、私がどれだけ失敗したとしても、私が神様に愛されている子ど

もであることは絶対に変わらない。

 

 

しかし、彼らの優しいことばは、私に深い励ましと慰めを与えてくれた。

エス様は確かに私のうちに住んでおられることに、目を向けさせてくれた。

こんな家族を与えてくれて、神様、本当にありがとう。

 

 

すべての人が救いを必要としています。どうか、あの大切な友だちを救ってください。

彼は、人生の意味、目的の答えを求めています。世を支配する偽りに気付き始めてしま

す。けれど、偽りから脱却して、価値観を変革することの難しさも知っています。そし

て、実際、人は自分で真理を悟ることはできないのです。

 

真理はイエス様にあります。彼にはあなたが必要です。どうか、イエス様を通して、神

を知ることができるように、主がみわざをなしてください。

 

私たちは、友だちの前で、ただあなただけに感謝と賛美を捧げます。主の救いを。

 

                                          私は、この口をもって、大いに主に感謝します。

                                             私は多くの人々の真ん中で、賛美します。

                       主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。

                                                                                                                       詩篇109

 

 

 

Go tell it on the mountain 

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           語り継げよ。山を越え、谷越え、

           伝え広めよ。主は来られた。