Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

十字架を負ってついていく

私は何を望みとして今日を生きるか。

まだ、まだ、私は分かっていない。

 

天に用意してくださっている永遠の栄光が、

地上の人生における一時の苦しみに比べて、

取るに足りない物であることを。

 

キリストの受けられたそしりを、私も負って生きることに躊躇している人生は、

もうおしまいにしよう。

 

生きることは「自分」ではなく、生きることは「キリスト」。

自分の十字架を負って、キリストにどこまでもついていく。

 

キリストこそが、私のいのちなのだから。

 

 

         我々が天の故郷に入り、兄弟なるイエスの御国を相続するとき、

         頭にはとこしえに輝く栄光の冠を受け、その重みを感じるとき、

              この世の痛みや苦しみを振り返るとき、

         地上での人生と悲しみは、栄光へと繋がるほんの一歩であり、

     その日々、その苦しみは、天で過ごす一夜ほどにも満たないことに気付くだろう。

 

 

              年月はなんと早く過ぎ去るものだろう。

            人がその人生で与えられた期間を終えたその時、

          この世の栄光は、もはや夢や思い出としてしか残らない。

                    幸いな人よ、

   とこしえに、地上のいのちと天上の永遠なるいのちの価値を正しく見極めることができる者は。

              地の栄光は空しく、天の栄光は輝きわたる。

                             

                            サミュエル・ラザフォード

 

 

 

 人の子が栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」

 すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」

 すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」

                                   マタイの福音書25章

 

 

 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくだささる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

 

 ......私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか、「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

                                    ローマ8章

 

 

 主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。とうのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

                                                                                                                   第二コリント12

 

こういうわけで、もしあなたがた、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現されます。

                                    コロサイ3章

 

 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱しに求めなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

 私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスとの御前で、あなたに命じます。私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。

 その現れを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくことのできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

                                     第一テモテ6章

 

 

 私たちが神の子どもと呼ばれるために、ーー事実、いま私たちは神の子どもですーー御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態は明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分をきよくします。

                                     第一ヨハネ3章

 

 

 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものにします。

                                        マタイ10章

Fix on Jesus -イエスから目を離さない-

長期間の旅や奉仕の後、大抵の場合、私は少し鬱っぽくなる。

前向きな気持ちになれず、何事にもやる気が起こらない。

全身の動きが鈍ってしまい、頭の回転は遅くなり、心が状況についていかなくなる。

 

経験上、そのようなときは、1日か2日は何もせずに、ゆっくりと休んだ方がいい。

祈りつつ、聖書のことばをじっくりと思い巡らしながら、神様の前に静まっていく。

 

気持ちが焦ったり、高揚したりすると、目の前のことが見えなくなり、

大切な瞬間を取りこぼしていってしまう。

 

今日はヤバいと直感した。

気持ちが全く落ち着かなくて、不安や苛立ちが大波のように迫ってくるのを感じた。

 

それで、近くの湖の畔へ走った。夜の9時を回っていた。

そこは、大事な決断をするときには、私がいつも訪れる場所だった。

 

人気はなく、一人でひっそりと宇宙を感じることが出来るところ。

湖と山と夜空に囲まれて、神様の偉大さに包み込まれる。

 

そこで、覚えたての賛美を歌いながら、携帯に録音しておいた聖書のことばの朗読を繰

り返し聴く。心の思いを注ぎ出しながら、神様の御声に耳を傾ける。

 

月の黄金色の輝きが、この世のものとは思えないほどに、美しかった。

 

 

 

今夜、主が語ってくださったこと。

それは、イエス・キリストが、まことの神であり、永遠のいのちだということ。

だから、この御方をいつも思って生きる。片時も目を離してはいけない。

 

 

世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

ヨハネの手紙第一5章

 

だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、

神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。

愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

ヨハネの手紙第一5章

 

エスを信じる者と、神は「ともに」おられる。

神が途方もなく私から離れてしまっているように感じていたのかもしれない。

けれど、今も、神はこんなに近くにいてくださったのだ。

 

偽りの霊を見分ける基準も、その霊がイエスを告白するかどうかである。

惑わされないように気をつけていなければ、足下をすくわれてしまうため、

その霊が神からのものかどうか、ためさなければならない。

 

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。

それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。

なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。

それによって神からの霊を知りなさい。

エスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。

それは反キリストの霊です。

あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、

今それが世に来ているのです。

ヨハネの手紙第一4章

 

人となって来られた主イエス・キリストを告白し続けること。

そして、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うこと。

 このみことばにとどまり続けることが、最も大事。

                      Fitting my eyes on you in this race that I run.

 

姦淫の罪

私は罪を犯した。

 

結婚のことを考えていて、神様の御心に従いたくなくて、逃げようとした。

すると、ポルノの誘惑が私を襲って来た。

 

私は欲望に従い、ポルノを見てしまい、姦淫の罪を犯した。

 

「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。

からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨ててしまいなさい。

からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

マタイの福音書5章

 

情欲を抱いて女性を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した。

この聖書が書かれた当時は、カメラもなければビデオもなかった。

まして、インターネットなど存在していなかったため、現代のようなポルノはな

かった。

 

そのため、当時「姦淫」という言葉が持っていた意味は、主に結婚外での肉体関係

を持つことだった。今日の世界では、フリーセックスが当然のようになっている

が、神様の律法では、それは固く禁じられていることだ。その目的は、人の喜びを

奪い、縛り付けるためではなく、むしろその逆だ。本来、神様が意図された結婚と

家庭には、夫婦間の誠実さと貞潔さが不可欠であるからだ。そのため、結婚した男

女が不倫をしないのは勿論のこと、結婚する前の男女が結婚に備えて、誘惑に耐

え、自らの貞潔を守ることが神様の御心なのだ。

 

肉体関係こそが、愛の最大の結晶であるかのように考えられがちだが、決してそ

うではない。愛とは、相手の益のために、自分を捨てることである。肉体関係が男

女間の愛の頂点だとするなら、愛は虚しいものである。愛は快楽以上の、満ち溢れ

た喜びを与えるものであり、相手の品性を高めるものである。愛は、肉体よりむし

ろ、豊かな人格的触れ合いである。人格的触れ合いには、摩擦や軋轢が伴う。しか

し、そこを愛によって乗り越えていくときに、愛の絆は成長していく。

 

このように、神は、人が真実の愛に生きていくために、「姦淫してはならない」と

いう律法を与えてくださった。しかし、キリストはその律法のさらに本質的な理解

を示してくださった。それは、「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦

淫の罪を犯した」ということだ。

 

「すでに」心の中で姦淫の罪を犯しているのだ。

 

私は、生身の人間であろうと、ネットで見るポルノであろうと、そこにいる女性、

あるいは同性であっても、情欲を抱いてみるならば、その人と肉体関係を持ってし

まった罪と同じ罪を犯しているのである。

 

なぜなら、すでに、心の中で、神様と妻への誠実さと貞潔を捨ててしまっているか

らである。行動は、すべて心の中から始まる。

 

よって、ポルノではなく、ライトポルノと言われるような、刺激の弱めのものを見

たからといって、罪が軽いというわけではない。さらに言うならば、テレビに登場

するアイドルや女性タレントを見て、現実を逃避し、自分の情欲を少しでも満たし

ているのならば、私の心はすでに信仰と愛を捨てて、姦淫の罪を犯しているのだ。

 

その罪の報酬は、死なのだ。罪は、からだ全体をゲヘナ(永遠の苦しみ)に投げ込

まれるなくてはならないほどに、神の聖さと全く相容れないものなのだ。

 

しかし、その罪をイエス・キリストが代わりに背負ってさばきを受けてくださっ

た。そして、ただ一人、神のすべての律法を完全に成就してくださった。

 

神は、このキリストによって、キリストを信じる信仰によって、私を義と認め、

私を罪と死の定めから救い出してくださり、永遠のいのちを与えてくださった。

ハレルヤ、主よ。感謝します。

 

ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、

アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとその捧げものには目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである。

創世記4章

 

カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。......私たちは、自分が死からいのちに映ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです......神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

ヨハネの手紙第一3章

 

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

ローマ13章

 

 

あるショートフィルムを見た。父親と娘の2人暮らしの家族を描いた作品で、父親はポルノの依存症であり、娘に隠れてインターネットサイトの更新を続けていた。あるとき、そのサイトに自分の娘の盗撮写真が投稿されているのに気付いた。そのことから、彼は自分のしていることの愚かさに気付くようになり、収拾していた画像をすべて消去した。そして、娘を盗撮している犯人を捜し出す、彼のSDカードを没収し、彼のカメラをぶちこわした。その後、話は続くのだが、その後の父娘の歩みについては語られていない。

 

ポルノは、家族関係を崩壊させる。ポルノは妻、娘、息子、親、まわりの大切な人たちの心をえぐり、傷つける。

 

その実例をこれまでに沢山聞いて来た。

そして、その経験を赤裸々に分かち合ってくれて、妻のためにポルノを絶対にやめ

るようにと愛をもって励まし、祈ってくれた人がいた。

 

 

どうか、神様。私を守ってください。妻を愛せるように。

隣人に害を与えるのではなく、喜びを与える者と変えてください。

隣人を殺すのではなく、隣人のためにいのちを捨てる者となしてください。

 

神様の前に正しく、自分のすべてを神様への生きた供え物としてささげさせてくだ

さい。

 

日々、私のあなたへの誠実さを養い、従順なしもべとしてください。

 

私は、キリストによって、すでに罪から解放されています。

その真理に歩ませてください。

 

父、子、御霊なる主の愛と恵みに感謝します。

父、子、御霊の真理

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た者と代えてしまいました。それゆえ、神は彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

 

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

ローマ人への手紙1章

 

宗教心ってなんだろう。

宗教ってなんだろう。

信仰ってなんだろう。

 

 

それらすべての議論を越えて、イエス・キリストに目を注ぐ。

 

キリストが真理、いのち、道だから。

キリストを通してでなければ、誰も神を知ることはできないから。

 

真理の他に真理はない。

真理の外にあるのは、すべて偽り。

人が行き着く先は、どんな道を辿っても、偶像礼拝。

 

ある新興宗教の講演会に出た。

信者にインタビューをして、語り合った。

教祖が神だと信じ切っていた。

 

その後、違う場所で色々な人たちとの交流があった。

ある仏教徒の人と話した。

彼は、キリスト教徒たちの信仰に触れるなかで、仏教徒としての信仰を深めていく

ことになった。彼は、信仰の力を信じるようになった。

 

宗教に関心を示さない大学生に出会った。

彼はキリスト教にも、他の宗教にも見切りをつけていた。

しかし、彼の質問に丁寧に答えていったとき、彼の目は好奇心に満ちていった。

 

また、もう1人宗教に関心を示さない大学生と話した。

彼の場合は、頑なに宗教を拒否していた。

話をすると、苦難の経験の末に、神なんて存在しないという結論に至ったそうだ。

彼は、神の存在を認めていたことになる。そして、今も、彼はどこかで神を認めて

いる。しかし、彼の神観は聖書のそれとは同じではなかった。彼は、神を知らな

いだけだ。神の真理を知らないのだ。彼と話をし、彼の疑問に答えていくなかで、

彼は、これまで知らなかった新たな神の事実に触れることができた。

 

 

 

これらの経験を通して、私が今気付かされていることは、

人は、自分が信じていることを間違っているとは普通思わない、ということ。

人は、尊敬する人を信頼し、その人のことばを疑いなく信じるようになること。

人は、それが真理であるかどうかより、感情的な基準に重きを置いていること。

人は、神を知っているが、神を認めようとしないこと。あるいは、自分の神を造り

出すこと。

 

そして、私がなすべきことは、真理をまっすぐに解き明かすこと、だということ。

 

 

人の問題は真理を悟らないこと。

イエス・キリストただお一人が、神の真理を解き明かされた。

 

私がすべきことは、自分を述べ伝えることではなく、

イエス・キリストを宣べ伝えていくこと。

 

神が、その人を愛しておられ、その人を神ご自身の子として定めておられるなら

ば、彼は神のことばを聞き分けることができる。神は、必ずご自分の羊を捜し出し

て救われる御方だ。

 

問題は、真理を語らないこと。

真理の柱、また土台である教会が真理を失っていくこと。

 

私たちは、真理にとどまり、真理に生き続けなくてはならない。

もし真理を失えば、塩気を失った塩のように、何の役にも立たない者となってしま

う。

 

しかし、私たちには、キリストから受けた注ぎの油が私たちのうちにとどまってい

る。それは、真理の御霊である。私たちはすでに世に勝利している。

 

御霊が私たちにすべての真理を教え、キリストのうちにとどまらせてくださる。

 

 

偶像を警戒し、キリストにとどまれ。

キリストを世の果てまで宣べ伝えよ。

恐れるな。雄々しくあれ。

 

私たちのうちには、キリストが住んでおられるから。

 

神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。

ヨハネの手紙第一5章

 

 

Longing for a heavenly country  ー天の故郷に憧れるー

これらの人々(旧約時代の信仰者たち)はみな、信仰の人々として死にました。

約束のものを手に入れることはありませんでしたが、

はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。

それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。

事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

ヘブル人への手紙11章

 

 

物事には終わりが来る。

幸せな時間はいつまでも続かない。

私たちは、前に進んでいかなければならない。

 

キリストについていく道は、綺麗に舗装された道ではない。

その道には困難が待ち受けている。

私たちは、それを知りながらも、その道を進まなくてはならない。

  

私たちは、キリストの歩まれた苦難の道を辿っていかなければならない。

なぜなら、その先に、さらにすぐれた故郷、天の御国があるから。

 

神が私たちのために用意してくださっているのは、この世の故郷ではなく、

天にある都だ。この世の誉れではなく、天にある栄光だ。

 

進まなくてはならない。前に。前に。キリストの背中を見ながら。

 

ARIで出会ったフィリピンの仲間の背中に、みことばが書かれていたことを思い出

した。 

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。

わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

ヨハネ10章

 

キリストが来たのは、私がいのちを得、それを豊かに持つため。

永遠のいのちに生きるなら、必ず多くの実を結ぶ。

 

キリストにとどまり、キリストのことばをとどまらせて生きるなら。

 

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家族、家、故郷、すべてを捨てて主に従った人たちが私を取り囲んでいる。

彼らのように、私も歩ませてください。

 

               涙とともに種を蒔く者は、

              喜び叫びながら刈り取ろう。

           種入れをかかれ、泣きながら出て行く者は、

           束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

                          詩篇126篇

暁 -苦難と望み-

神は仰せられた。

「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。

 彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配するように。」

 

神は人をご自身のかたちとして創造された。

神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。

「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。

 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

神は仰せられた。

「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、

 種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、

 いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」

そのようになった。

 

神はお造りになったすべてのものを見られた。

見よ。それは非常に良かった。

夕があり、朝があった。

第六日。

(創世記1章)

 

なぜ、神がいるなら、世界に苦しみがあるのか。

なぜ、神がいるなら、世界に悪が存在するのか。

多くの人がキリスト教について、このような疑問を持っている。

私は、聖書の真理をもって、これらの問いに答えることができてこなかったこと

を、まず認める勇気が必要だ。

 

私は、本やメディアを通して見てきた世界観でもなく、自分が今持っている聖書の

知識によってでもなく、自分はまだ知っていないが、聖書が明確に啓示している世

界について、謙虚になって教えられる必要がある。

 

ここからは、私が今学んでいることの整理であって、聖書の完全な解き明かしでは

ない。けれど、神ご自身が、聖霊を通して、無知で愚かな私にも、聖書の真理を悟

らせてくださる御方であることを信じている。

 

助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネ福音書14章

 

真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

ヨハネ福音書16章

 

 

私は、苦しみや悪を考えるとき、漠然と考えてしまう傾向がある。

戦争、貧困、虐待、搾取、差別、偏見、汚職などの言葉を並べて、説明する

ことはできる。けれど、その苦しみを生きる人の生活をどれほど知っているだ

ろうか。たとえば、農業で生計を立てている人たちの、毎日の労苦を私は知らな

い。経験は殆ど無いに等しい。スーパーマ—ケットに行って、食材を買ってきて、

家で調理して食べるか、お弁当を買って食べるか、外食するかして、私は日々の食

糧を得ている。家畜や野菜や穀物を育てることの労苦をこれっぽっちも共有するこ

とはない。

 

また、貧困で苦しんでいる当事者を個人的に私はあまり知らない。

頭で貧困問題を考えて、議論して、または教えていても、その苦しみを生きる人の

傍らに私はいない。遠く離れたところで、美味しい料理を楽しみながら、上から高

見の見物をしているかのようだ。

 

世界を知れば知るほど、自分の良心と正義感が、私個人の生活の変革を余儀なくす

る。なぜなら、このままの生活を続けるならば、「高見の見物者」であり続けるこ

とになり、自己矛盾を抱えたまま、結局は「何も知らなかった」という最も楽な生

き方を選択してしまうからだ。そうはなりたくないという内なる叫びと、今の生活

を続けたいという安逸を愛する心がぶつかって、最後は後者が勝利する。

 

私は、そんな人生を繰り返してきた。

何をやっても私は変わらない。そうあきらめる癖もついた。

しかし、神に受け入れられた私は、もはや以前の私ではない。

神ご自身が、神の栄光のために、私をキリストのしもべとして必ず造り変えてくだ

さるからだ。

 

 

 

  

ARI(アジア農業学園)という栃木にある学校で、少しの期間、ボランティアをし

てきた。アジアやアフリカの貧しい地域に仕える人たちが、農業とサーバントリ

ダーになるための学びをしている。

 

学校法人 アジア学院 – アジア農村指導者養成専門学校 – 共に生きるために – That We May Live Togeher –

 

「共に生きる」をモットーに、自給自足の共同生活をしている。

朝起きて、掃除をして、ある人達は豚と山羊と鶏の世話をして、ある人達は植物の

世話をして、ある人たちはご飯の準備をして、そして午後は学びをし、夕方はまた

家畜と植物の世話をする。学生たちが学んでいる日中に、職員やボランティアで農

作業をする。

 

そこでは、農薬を使わない有機農業をしている。そのため、雑草は生い茂り、虫も

沢山寄ってくる。雑草抜きや、土作り、種植え、収穫など、すべて手作業で行う。

 

なぜなら、農薬や化学肥料は高いからだ。

また、人体や土、環境に対して悪影響を与えるからだ。

 

ここで学んだ学生達が帰っていところは、貧しい地域であるため、農薬を買うお金

はない。また、日本にある機械やノウハウを使えるようなお金や資源も存在しな

い。そのため、彼らは自分たちの持っている資源を最大限に活かし、学んだ農業の

知識・技術を自分たちの土地で応用させていかなくてはならない。よって、ここで

学ぶことは、農業の最先端の技術ではない。彼らが帰ってから用いることのできる

有機農業の基本的知識と、それを自分たちの土地で応用する知恵と、そこで待って

いる様々な人たちに忍耐を持って謙虚に仕えていく、サーバントリーダーとしての

品性だ。

 

 

あるインドネシアの村では、ミドルマン(販売代理をする人や業者)が殆どの利益

を持ち去ってしまう。農家が労苦して収穫した作物は、複数のミドルマンを経由し

てから、消費者の手元に届くような販売構造になっているため、農家の手元には殆

ど収益が入らない。

 

365日、汗水流しながら、必死に労苦した挙げ句、収益はほんのわずかで、まとも

に食糧を得ることができず、家族も十分に養うことが出来ず、子どもに教育を受け

させる余裕もなく、ただ子どもたちが痩せ細っていくのを黙って見ているしかな

い状況がある。貧困の連鎖からは抜け出せない。

 

その村から来た学生は、正義と公正がないがしろにされているその搾取構造を変え

なくては、貧困がなくならないことを知っている。しかし、貧しい農家の人たち

が、ミドルマンとの繋がりを断ち、新しいスタートを踏み切ることも、簡単ではな

いことも知っている。なぜなら、そのためには、そのコミュニティのリーダーや村

人たちが教育され、勇気を持って一緒に立ち上がる必要があるからだ。

 

何が正しくて正しくないか、何が良いことで悪いことか。

社会や状況を改善するために、どうすればよいのか。

教育によって、自分の人生と世界を見る目は変わっていく。

無知は人を閉じ込める。しかし、教育によって道が開かれる。

 

しかし、教育こそが、最も難しいことではないだろうか。

その学生は、サーバントリーダーになることが自分には不可能だと感じているこ

とを正直に語ってくれた。世のリーダーは自分の力を誇示して、権力を誇るように

なる。しかし、キリストを模範とするサーバントリーダーは、自分の権力を捨て、

最も低い者となり、自分のためではなく、相手の益のために仕えるしもべとなるこ

とだ。

 

反対を受けても、非難中傷を受けても、忍耐と謙虚さによって、人の心が変わるま

で信じて仕え続けることなんて出来るのだろうか。これは、彼が、コミュニティの

抱える問題と、その担い手である村人たちを個人的に知っているからこそ、生ま

れる葛藤なのだろう。彼は、すでに10年以上、その地域で貧しい農民たちに仕えて

きたのだから、色々な実情が見えているのだ。

 

しかし、彼はそのような恐怖に襲われながらも、神の与える忍耐と励ましによっ

て、神が彼を遣わす地域のために、毎日備えをしている。

 

 

 

そんな彼と、結婚についての話もした。彼には奥さんがいて、小さな子どもも

る。初めは1年間なんですぐだと思っていたそうだ。けれど、実際に離ればなれに

なってみると、毎日寂しくてたまらないらしい。

 

結婚は簡単ではないと話してくれた。

結婚してから、奥さんの悪い部分が沢山見えてくるからだ。逆に、自分の悪いとこ

ろにも奥さんが気付くようになるからだ。色々なことで、互いにぶつかったり、上

手くいかないことがあったそうだ。けれど、今は会いたくて仕方がないと言った。

 

日本の婚姻率は年々低下し、平均初婚年齢は上昇している。晩婚化は、少子化につ

ながり、少子化は社会全体の負荷の要因となる。フィリピンは逆で、人口ピラミッ

ドが綺麗なピラミッドになっている。社会全体に希望がある。

 

なぜ、日本はそうなのかと聞かれたが、経済状況や価値観の移り変わりなどが原因

だと思うとしか答えられなかった。しかし、結婚において最も大切なのは、相手へ

のコミットメント(献身)ではないかと思う。それは、妻を自分自身のように愛

し、生涯をかけて、自分を捧げて生きることだ。価値観の相違や相手の悪い点が見

えてくることは当たり前のことだ。ときにはトラブルも起こるだろう。そして、

上手くいっていないときには、他の女性に慰めを求める思いも湧いてくるかもしれ

ない。

 

しかし、その都度、コミットメントに立ち帰らなくてはならない。夫として、妻を

いかなるときも愛すると誓った最初の誓約に。彼は最初の契約に立ち続けている。

相手の嫌な部分を知ってもなお、一人の妻の夫として生きている。このコミットメ

ントを破るとき、夫婦間の信頼関係は脆く崩れ去り、愛は冷えていき、家庭崩壊へ

と進んで行くだろう。

 

 

労働も喜びとなり、結婚も喜びとなる。しかし、どちらも喜びだけではない。労苦

があり、困難が伴い、涙を流すときだってある。どうにもならないような、悲惨な

現実を受け入れなくてはならないときもあるだろう。不作の年があり、自然災害に

よる大損害を受けるときもある。搾取があり、破壊があり、飢餓によって亡くなっ

てしまう子どもたちもいる。夫婦や家族の間でDVや虐待がある。夫婦関係、親子関

係に亀裂が入り、幸せとは正反対な家庭環境も多い。不倫によって、涙を流す人た

ちがいる。離婚によって、愛に飢える子どもたちがいる。そして、ときにネグレク

トによって、あるいは虐待によって命を落としてしまう子どもたちもいる。

 

 

 

 

どうして、神がいるなら、世界に苦しみがあるのか。

どうして、神がいるなら、世界に悪が存在するのか。

 

今なら、私はこのように答えるだろう。

 

最初に世界が造られたとき、世界は非常に良いところだった。神は、人がこの世界

に生まれ、ふえて、広がっていくようにと祝福された。そして、地を従えて、動物

たちを治める責任を人に委ねられた。神は、人にも動物たちにも、その食糧とし

て、十分な植物を用意してくださった。そこには、貧困もなく、争いもなく、平和

な秩序が存在していた。まさに、「共に生きる」世界があった。

 

けれど、サタンの誘惑によって、人が神のことばに背き、神のみが有していた善悪

の知識を得てしまったことにより、人は恥を感じるようになり、神を恐れるように

なってしまった。それから、人は自己義認と責任転嫁をするようになり、サタンの

惑わしに従い、神に背いて生きるようになってしまった。

 

人の罪のゆえに、神は、出産と夫婦の関係に苦しみを増し加えられ、さらに、土地

を呪い、土地から糧を得るための労苦を与えられた。そして、人が永遠に生きるこ

とのないように、いのちの木から取って食べることが出来ないようにし、やがては

土地のちりに帰らなくてはならない、はかない存在とされた。

 

 

この世界の苦しみや悪とは何だろうか。

悪とは、サタンの惑わしであり、また人の罪である。それは、神の否定、恥と恐

れ、自己義認と責任転換、そこから派生する様々な悪い考えや行いである。

 

苦しみとは、出産と夫婦関係、糧を得るための労苦、はかない命、そして死であ

る。この後、創世記には、人類最初の殺人が記され、土地の争奪、暴力による復

讐と支配、夫と妻の支配関係、多重婚、姦淫、乱れた性的関係など、世界は人の罪

による暴虐に満ちていく。それらが人にもたらすものは、苦しみである。

 

この世界にこのような苦しみや悪が存在するのは、人の罪のゆえである。

神が、人の罪のゆえに、土地を呪い、夫婦や労働の苦しみを増し加えられ、ついに

はちりに帰る存在とされた。そして、地上には人の悪が増大していき、人の暴虐で

満ちていった。

 

このような状況に対して、最も心を痛められたのは、神ご自身であった。

実際、神は一度、世界を大洪水によって滅ぼされた。それが、ノアの大洪水として

知られる出来事である。しかし、神は、主の心にかなって歩んでいたノアとその家

族と、すべての生き物を雄雌1匹ずつ生き残らせるために、ノアに箱舟を作ること

を命じられた。ノアはすべて神が命じられとおりにした。

 

そして、ノア達だけが助かり、神はノアとその子孫と動物達に対して、永遠の契約

を結ばれた。「すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もは

や大洪水が地を滅ぼすようなことはない」。そして、”虹”がその契約のしるしとし

て与えられた。

 

そして、神は、ノアとその子孫に再び祝福を与え、生んで、ふえて、地に満ちてい

くようにされた。さらに、すべての生き物を再び、彼らに委ねられ、それらを彼ら

の食糧とされた。しかし、血にあるままで食べてはならないとも命じられた。なぜ

なら、神は人を神のかたちに造られたからであり、血を流すためではなく、ふえ広

がるようにされたからである。そのため、神は、人のいのちのためには、血の価を

要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流されなくてはならない。おそら

く、生き物を血のあるままで食べてはならない理由は、神にとって、血は人のい

のちそのものであり、そのことを覚えるためだと考えられる。

 

神は、人と被造物を憐れんでくださった。

 

わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。

人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、

わたしがしたように、すべての生き物を討ち滅ぼすことはすまい。

地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、

寒さと暑さ、夏と冬、

昼と夜とは、やむことはない。

創世記8章

 

 

人は、悪を心に抱えながら、出産、夫婦の苦しみ、糧を得ていくための労苦、人生

の儚さを与えられながら、神の憐れみによって保たれている世界にふえ広がってい

くようにされた。しかし、そこには神の目的があった。人が再び神を求めるように

なり、そして、神を知り、神を信じて従い、神の恵みの栄光をほめたたえるように

なることであった。神は人を見捨てなかった。

 

 

実は、人が罪を犯した後、神は労苦を人間と世界に与えられただけではない。

神は、救いの約束と恵みをも与えてくださったのだ。

 

神は、サタンに向かって、「女の子孫によって、おまえのかしらを踏み砕く」と宣

言された。それは、罪と死によって人と世とを支配するようになったサタンの力

を、神はやがて滅ぼし、人を救われるという約束だった。それは、「女の子孫」と

して、初めの女性エバの遠い子孫であるマリヤによって生まれることになるイエ

ス・キリストのことだ。キリストの十字架によって、サタンの頭は打ち砕かれた。

サタンは、キリストを信じる者を、もはや罪と死によって支配することはできな

い。なぜなら、彼らは、キリストにあって、罪の赦しと、永遠のいのちを得ている

からである。

 

また、恥を覚えて後、いちじくの葉をつづり合わせて、腰の覆いを作り、神を恐れ

て、身を隠していた人間に対して、神はいじちくの葉の代わりに、皮の衣を作り、

彼らに着せてくださった。皮の衣ということは、動物の血が流されたということ

だ。神が作られた良い世界の中心にあったエデンの園で、初めて動物の血が流され

た。しかも、神ご自身の手によって。それは、人の恥を覆うために。

 

神は、ご自身に背いた人間に対して、皮の衣を着せてくださった。

恩恵を受けるに価しない人間に、神は良くしてくださった。これが、神の恵み。

皮の衣で人間の恥を完全に覆い隠すことはできない。しかし、これは後に訪れる救

いの型であり、ついに神の御子イエス・キリストご自身が肉体を割かれ、血を流

し、私たち人間の恥を完全に覆って下さった。それは、私たちがキリストを着るな

ら、キリストの完全な義が私たちのものとなるからだ。

 

神は、私たち罪人を、もはや罪に定めることなく、義と認め、神の御霊を注ぎ、ご

自身の子として受け入れてくださっているのである。

 

神である主は蛇に仰せられた。

「おまえが、こんな事をしたので、おまえはあらゆる家畜、

 あらゆる野の獣よりのろわれる。

 おまえは、一生、腹ばいで歩き、

 ちりを食べなければならない。

 

 わたしは、おまえと女との間に、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、

 おまえは彼のかかとにかみつく。」

 

女にはこう仰せられた。

「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。

 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。

 しかも、あなたは夫を恋い慕うが、

 彼は、あなたを支配することになる。」

 

また、人に仰せられた。

「あなたが、妻の声に聞き従い、

 食べてはならないと

 わたしが命じておいた木から食べたので、

 土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。

 あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、

 あなたは、野の草を食べなければならない。

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、

 ついに、あなたは土に帰る。

 あなたはそこから取られたのだから。

 あなたはちりだから、

 ちりに帰らなければならない。」

 創世記3章

 

 

 

 このように、神は土地への呪いと人への労苦とともに、救いも約束してくださっ

た。そして、その救いはキリストによって成就し、私たちとすべての被造物に生け

る望みを与えてくださった。

 

動物も、植物も、土地も、空も、海も、宇宙も、ともにうめき、ともに産みの苦し

みをしながら、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる。

 

御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心のなかでうめきながら、子にしてい

ただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる。

 

 

 

結論は、

人生は苦しみと悪で満ちている。

それは人の罪のゆえである。

 

しかし、神は人と被造物を必ず救ってくださる。

 

私たちはキリストによって魂を救われ、聖霊を与えられた。

そして、今、すべての被造物とともに、うめきながら、

神の救いの訪れを待ち望んでいる。

 

それは、すべて神の憐れみと恵みによるものである。 

 

私たちが、イエス・キリストによる神の恵みの栄光を、私たちがほめたたえるため

に。

 

          私たちは、この望みによって救われているのです。

            目に見える望みは、望みではありません。

       だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

           もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、

            私たちは、忍耐を持って熱心に待ちます。

                            ローマ8章

 

 

 

長崎に原爆が落ちた日付に、アジア、アフリカのクリスチャン達とともに

主に祈り、主に賛美を捧げた。

 

平和の君なるイエス・キリストの御名をたたえます。

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乳児院

乳児院で働く女性の話を聴きました

 

乳児院とは、様々な事情によって家庭で十分な保育を受けることができない乳幼児を養育することを目的とした児童養護施設です。

 

政府は先日、里親数を75%増やして、現在全国に100以上ある乳児院や、その他の児童養護施設を減らしていく方針を示しました。

 

しかし、実の子どもではない子どもの親代わりをすることは簡単なことではないと思います。親から捨てられた子どもたちの心の傷の深さを誰が知ることができるでしょうか。

 

子どもを捨てた親は、なぜその選択をとってしまったのでしょうか。結婚、夫婦、家族の抱える問題はとても大きいのに、あまり注目されていないように感じます。

 

家には奥様や小さな子どもたちがいるのに、仕事からまっすぐ帰らずに、言い訳を作って遊ぶサラリーマンの知り合いも周りにいます。

 

結婚指輪を外すことで、自分が既婚者であることをあえて知られないようにしている人たちもいます。

 

友だちのバイト先には、パパ活をしている女子高生や大学生がいます。女子学生のみではなく、可愛めの男子学生もパパ活をしています。パパ活とは、パトロン(パパ)を見つけて、一緒に食事をしたりすることで、金銭的な施しを受けることです。肉体関係は伴わないため、援助交際とは区別されています。

 

自分の父親がもしそんなことをしてたら、子どもはどんな気持ちになるでしょうか。

 

パパ活援助交際、キャバクラ、ガールズバー、風俗。沢山のサラリーマンが、女性をお金で買っています。それが、ストレス発散の娯楽となっています。

 

さらに、スマフォを使って、いつでも簡単に、ポルノを見ています。

女性は、AVに強制出演させられてもしています。

 

なにげなく見るポルノや、通りすがりの女性を情欲を持って見ることや、友だちや会社の同僚との淫らな会話、またメディアが発信する性の価値観などによって、私は女性の扱い方が変わってしまうことを知っています。

 

男性が一人の女性を、一人の尊い人格として見ることが出来なくなっていくとき、それは結婚、夫婦関係、そして子どもの人生へと悪い影響が繋がっていきます。

 

 

それはとても恐ろしく、残酷なことです。

女性が傷ついています。家庭が崩壊していきます。その結果、苦しむのは子どもたちです。さらに、生まれてくる前に殺されてしまう赤ちゃんも沢山います。

 

 

乳児院の話を聴きながら、闇夜の深さをまだ知らない自分を受け入れつつ、

闇が深くなるほどに、キリストの光は輝きを増すのだと教えられた。

 

罪が深くなるとき、神の恵みも大きくなる。

 

 

神は、みなしごであった私たちを、キリストの代価によって買い取り、養子としてくださった。その恵みと救いに対する賛美。そこから、キリストを宣べ伝える情熱が溢れ出る。

 

 

友だちのアメリカ人夫婦は、日本人の女の子を養子として受け入れた。それ以来、2人は養親として彼女を大切に育てている。そんな夫婦と女の子の家族としての歩みを近くで見ながら、私は真実な神の愛をそこに感じている。

 

それこそ、「真実と行いの伴った」愛だと、思う。

神は、実際に、ご自分の御子を、私たちの罪のために、十字架にかけられた。

そこに、愛がある。