In the Valley 谷の中で
たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
詩篇23篇
この詩篇の作者のようには、私は生きることはできていません。
私は臆病者です。
不安になると、現実逃避を繰り返して、気がつけば、状況が悪化していて、心はズタボロになっています。余裕がさらになくなって、目の前が冷静に見えなくなります。
わけわからんってなります。
なんやねんってなります。
「おれってカスやな」とか繰り返して言ってしまいます。
そして、現実逃避して、寝ます。
私が恐れているのは、人生の虚しさと向き合うこと。意味がない人生を認めて生きること。他にも、人や世間からの評価だったり、人を傷つけることなく守ることができるのかだったり、思い煩いはなくなりません。
でも、それらすべての悩みの一番奥にあるのは、死の現実です。死がすべてを取り去ってしまい、後には何も残らない。人が死んだら天国に行くって思いたいけど、そんな保証はどこにあるのでしょうか。死という得体の知れない相手に対して、自分なりに解決を用意してないと、死とは向き合えないから、先祖供養とか、天国とか私たちは幻想しているのではないかと、思います。もしかしたら、死への恐れというよりも、日本人であることにこだわっているのかもしれません。他の人たちと違う行動をすることは、日本ではあまり良く思われません。そこにも、恐怖が潜んでいます。
周りと一緒なら安心感が持てるし、本当に天国に行けるなら希望が持てる。けれど、それってほんまなん、と考えてみることも大事だと思います。
この詩篇の作者が最も恐れていたのは、神に見捨てられることでした。
彼が信じて、従っていたのは、世界を創造された唯一まことの神です。
彼にとって、世であっても、天国であっても、神がともにいてくださらなければ、人生は恐ろしく、虚しいものでした。
世は、神を認めない。自分の神を作るか、自分の偶像をつくるかして、心の空虚さを埋めている。人は生きる為に、神なしで自分はこの世界を生きることができると信じている。けれど、成功、結婚、繁栄、名誉、快楽、楽しみ、美しさ、すべてを手に入れても、満足することは決してない。そして、自己満足、自己充足を追い求めた人生の最後に待っているのは死。いつ訪れるかは誰にも分からない。生と死のサイクルは、世界が保たれる限り続いていく。人生の後には、死後の世界があり、永遠にその世界を生きるのだろうと漠然とした望みを抱きながら、人は一生を終えていく。しかし、だれも死の後に何が待っているのかを本当は知らない。そのように突き詰めて考えていくと、人は人生について、いや、自分自身についても何が何だかよく分からないと思います。
人は祈る。神を求めて。それは、神を求めるように、神が人を造られたから。人は神とともに生きるように造られたから。人は一人で生きていくことはできずに、神に依存してでしか生きることのできない存在として造られたから。
神は、人の心に永遠を与えられた。宇宙の自然を見て、神の存在と力を認める者として造られた。人は、自分とこの世界を創造された神を賛美して、喜んで、神を礼拝して生きる者として造られた。
その初めの世界は、神の目に、非常に良いものだった。
神を知ることは、世界を知ることであり、自分を知ることであります。
なぜなら、すべて、目に見えるものも、目に見えないものも、ただ神によって造られたからです。
けれど、人が罪を犯し、罪が全世界に入り、死がすべての人を支配するようになったとき、世界は暴虐に満ち溢れました。サタンが人を惑わし、神の栄光を奪った。神の栄光を現すために造られたすべての人が、自分の栄光を求め、自分が神のようになり、世界を自分のものとして支配するようになった。それは、人にたましいの死と破滅をもたらした。それが、サタンの願いだった。サタンは、世界を罪と死によって支配し、人を甘い言葉で誘惑し、惑わし、心と欲望を正当化させる。一瞬の快楽は長くは続かず、静かに人生に暗闇をもたらしていく。たましいの渇きはもはや潤うことがない。荒れ地、砂漠のような心に、いのちは育たない。サタンは、初めから真理に立たず、人を惑わし、いのちを奪いさる、人殺しだ。しかし、自分が奴隷であることも、人は自分で知ることはできない。決して渇くことのない、新しいいのちの泉を必要としている。
神は天におられる。天におられ、地上のすべてを支配しておられる。そうであるならば、人は死後、天に行けるのか。神は、人を受け入れ、ご自分のふところに住まわせてくださるのだろうか。
神を認めず、サタンの偽りを信じ、神に罪を犯して生きる人間を、神は天国に招き入れる義務があるのだろうか。むしろ、聖なる神の御前に、人は近づくことはできないのだ。人は、自ら神を離れ、一人で生きることを選んだ、その責任を自分で背負わなくてはならない。人は、死後、神のさばきを受けて、永遠に神の御前から取り去られてしまうべき存在なのだ。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
主が、私とともにおられますから。
なぜこの作者は、わざわいを恐れなかったのか。それは、主がともにおられたからだ。しかし、なぜ主は罪人とともにいてくださるのか。
そこに、主の恵みがある。
主は人を赦して、ご自分のもとに引き寄せてくださるのだ。
ところが、神は聖なる御方であり、人の罪を必ず罰する御方である。そのため、神は人とともに住まうことは出来ないのだ。
けれども、なぜ神は人とともにいることができるのか。それは、私たちの代わりに、さばきを受けてくださった御方がいるからだ。また、私たちの代わりに、神に従って、完全な正しい生涯を全うされた御方がいるからだ。その御方は、イエス・キリスト。神の御子である。
キリストは、神であり、世界の創造される前から、神とともにおられた御子である。神は、その御子を完全な人間とし、私たちのために、世に遣わしてくださった。目に見えない神は、目に見えるかたちで、ご自身を現された。神と御子は1つであられる。
キリストは、世にあって、死の陰の谷を歩かれた。人々からののしられ、暴力をふるわれ、迫害され、偽証によって訴えられ、裁判にかけられ、そして十字架刑に処せられ、死なれた。
キリストは、苦しみもだえられた。十字架にかけて殺されることを知りながら、エルサレムに向かった。彼は、涙と叫びをもって、神に祈られた。そして、神は恐れに打ち勝ち、私たちを罪と死の奴隷から救い、永遠のいのちを与えるために、十字架の死に従われた。
たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
主が、わたしとともにおられますから。
神は、キリストとともにおられた。神は、キリストの祈りと願いを聞き届けられた。しかし、その答えは、最後に神から見捨てられることであった。つまり、キリストは、私が出来なかった完全な信頼と従順を成し遂げられ、同時に、私が受けるべき罰を、代わりに受けてくださった。
杯に注がれた御怒りは誰かが飲まなくてはならない。キリストは私の杯を代わりに飲み干し、キリストが受けるべき祝福を、神は私の杯に満ち溢れるまで注いでくださった。
キリストは私たちの救い主。神は、キリストを信じる者のすべて罪を赦し、罰を取り去り、キリストの義をその者の義としてくださった。
神は、キリストを愛するように私を愛し、キリストを喜ぶように、私を喜び、キリストを死からよみがえらせ、栄光を与えてくださるように。私を死からよみがえらせ、同じ栄光を授けてくださる。主なる神は、私を見捨てるのではなく、私を抱きしめてくださった。
私には、祝福でなく呪いに値する罪人であった。しかし、今、杯に注がれているのは、神の溢れる祝福。私の唇は、ただ神の恵みを賛美する。
キリストは死に、よみがえり、天に上られ、神の右の座に着かれ、天と地におけるすべての権威を与えられ、私たちの罪のためにとりなす大祭司(仲介者)であり、義をもってこの世界をやがてさばかれる王となられた。
そして、私たちは、主の恵みによる永遠の選びによって、キリストのものとされた。
キリストは、決して私を手放さず、いつまでもともにいてくださる。
そして、困難や迫害のただ中にあって、私を守り、養い、祝福を溢れさせてくださる。
まことに、いのちの日の限り、慈しみと恵みとが私を追ってくるでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
主にいつまでも、とどまり続けたい。ここからはぐれてしまいたくない。主がともにおられること、それが私にとってのすべてだ。
たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、
神は、私を苦難の道へと導かれる。それは、苦難のなかに、神の恵みと力が現されるからであり、苦難を通して、神は私をキリストのような人へと造り変えてくださるからだ。わざわいを恐れることなく、ともにおられる主に信頼し、主にとどまり続けることを何よりも願う者へ。
神を愛し、神の栄光が現されるために、自分の十字架を背負う者となれるように。
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
私の帰るべき場所は天にある。
地上をさまよい歩くのではなく、天に向かってまっすぐに歩く。
ほんまもんの羊飼いに導かれて。
主は、飢えの中でも、私の必要を満たしてくださる。
主は、罪に死んでいるたましいを、赦しと義によって生かしてくださる。
主は、苦難を通して、私の信仰を養い、勇敢な者へと造り変えてくださる。
主は、敵から私を守り、祝福で私を満たしていてくださる。
主が味方であるなら、だれも私に敵対できる者はいない。
神が義と認めてくださっているのなら、だれも私を罪に定めることはできない。
神が愛してくださっているのなら、だれも神の愛から私を引き離すことはできない。
飢え、罪、苦難、迫害、欺き、争い。
これらすべての中にあっても、キリストにある神の愛によって、
私は圧倒的な勝利者となる。
主は私の羊飼い。
私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主はわたしのたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
”In The Valley”(谷の中で)