Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

文化

"Moolaade"(母たちの村)

 

アフリカのある村では、4-9歳の女性に割礼を施す慣習がある。

それを「お浄め」と呼び、村人の通過儀礼となっている。割礼を受けた女性でなければ、子どもを産むことはできないと教えられる。

しかし、割礼により、命を落としてしまう子どもたちもいる。後遺症により、中絶や流産の可能性も高くなってしまう。

 

この映画は、そのような慣習、儀式によって成り立つ文化で、男尊女卑の社会構造の下、割礼という悪しき慣習に立ち向かい、女性の尊厳と自由を取り戻すために立ち上がった母親たちの姿を描いている。

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文化とは、「人間の存在意義を構築する象徴のシステム」だと言われる。

つまり、人間が造り出す聖と俗、善と悪の区別が、主に神話(言い伝え)と儀礼を通して、文化として表現される。そして、文化と世界観は密接に結びついているため、その文化を共有している人々は、無意識のうちに、同じ世界観を共有することになる。

 

この村では、長老や家父長に従うことが善であり、従わないことは悪だった。

男は女を支配し、女は男の言うことを聞くことが善だった。

割礼を受けた少女は聖で、祝福を受けるべき者であり、割礼を拒んだ少女は俗で、呪われるべき存在だった。

 

悪霊の呪い、精霊の怒りといった、人を恐怖で支配するための言い伝えがあった。

一夫多妻、家父長制、割礼等の儀式が慣習となり、人の生活を縛り付けていた。

 

 

映画の終わりの方に、こんなシーンがあった。 

女子割礼を信奉していた母親が、村の呪術師のような者たちのいる場所に、嫌がる娘を無理矢理連れていった。カミソリで強制的に割礼を施された娘は、そのあまりの痛みにより死んでしまった。母親は、娘の死を嘆き悲しんだ。そして、長老たちに立ち向かい、割礼を撲滅する声を上げる者となった。

 

母親の泣き崩れる姿に、胸が締め付けられる思いだった。

 

また、こんなシーンもあった。

兄は弟に対して権威をもっていた。ある男性は、兄から脅されて、娘の割礼を拒む妻をむち打ちにして、娘に割礼を受けさせるまで拷問するように命じられた。男性は、その文化の支配する価値観に従って、兄と自分の面目を守るために、涙を流しながら、妻をむち打ち続けた。しかし、後日、その男性は、割礼撲滅のために立ち上がった女性たちに鼓舞され、彼女たちに蔑みのことばを放つ兄に対して、「妻は勇敢だ」と語り、怒る兄に対して、「私にも誇りがある」と言って、妻の側についた。

 

弟の誇りに、同じ人間として親しみを覚えた。

 

 

文化は人を支配する。けれど、人の心は正直であり、文化に抗う心も持っている。

文化がいくら善だと言っても、人は悲しみ、傷つき、疑い、怒る。

文化と心は切り離せない一方で、文化と心は全く等しいものではない。

文化を受け入れる人もいれば、受け入れない人もいる。

益を受ける者と、益を受けない者が存在する。

強者と弱者に分かれる。

文化を分析していくと、結局どの文化も同じ結論に行き着くような気がする。

 

 

文化の成り立ちの初めには、人間の持っている善悪、聖俗の基準がある。

その基準を人はどのように造り出すのだろうか。最初の人間に、その答えがあるのでは

ないか。

  

 

            神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出し、

            地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、

             その住まいとの境界とをお定めになりました。

                            使徒の働き17章

 

 

最初に造られた人アダムは、神が食べてはならないと命じておいた「善悪の知識の木」から取って食べてしまった。そのことにより、アダムは神のように善悪を知るようになった。それが人類にとっても、さらに全被造物にとっても不幸の始まりであった。

 

                 神である主は仰せられた。

        「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。

       今、彼が手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

                                創世記2章

 

 

人は神に従い、神の造られた世界を治めるために造られたが、神のように善悪を知るようになることは望まれていなかった。なぜなら、人は神の栄光のためにのみ創造されたからだ。そのためには、人が神に従うことで十分だった。

 

ところが、人は自分の栄光を求め、神のようになり、善悪を知るようになることを選んでしまった。そのとき、人は死んだ。自分が裸であることを知り、神に見られることを恐れ、神から身を隠す者となってしまったのだ。神も、人が永遠に生きることのないようにされた。

 

アダムにつながるすべての人間が、死んでしまった。

思いは虚しくなり、無知な心は暗くなり、神の栄光を、滅ぶべき人間や、その他の被造

物へと代えてしまった。

 

そのため、神は、人をその心の欲望のままに汚れに引き渡し、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになった。

 

それは、人が神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに造られた物を礼拝し、それに仕えたからだ。

 

          

             彼らが神を知ろうとしたがらないので、

             神は彼らを良くない思いに引き渡され、

       そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

         

         彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、

        ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、

            陰口を言う者、そしる者、大言壮語する者、

          悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、

           約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。

 

              彼らは、そのようなことを行えば、

           死罪に当たるという神の定めを知っていながら、

               それを行っているだけでなく、

            それを行う者に心から同意しているのです。

                        ローマ人への手紙1章

 

神はご自分の栄光のために行動される。神の栄光を汚す者に対して、神はそのわざに応じて報いられる御方だ。神に対する人の不遜な態度はすべて、神の栄光を奪い去っている。神は罪を正しくさばかれる正しい御方。人は自分自身の罪のうちを歩み、人生の終わりには、神のさばきに服し、死罪を宣告される。

 

混沌が、海のようにこの世界を覆っている。本当に悲しくてたまらない。

罪の堕落の影響を受けていない文化は1つも存在しない。

文化は、1人の罪人により始まり、すべての罪人によって継承され続けているものだか

ら。世は文化の集合体であり、世を支配する者は、アダムを惑わし罪を犯させたサタン

である。

 

しかし、神はこの世界をお見捨てにならなかった。神は、サタンの策略を打ち砕き、人

間に救いを与える約束を下さった。

          

 

                                                     わたしは、おまえ(サタン)と女(エバ)との間に、

                                   また、おまえの子孫とおんなの子孫との間に、敵意を置く。

                                    彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

                                  創世記3

       

 

神は、一人の御方によって、新しい人類を創造された。第二のアダム、イエス・キリス

トである。アダムが失敗したことを、キリストは完全に成し遂げられた。キリストは、

堕落した世を生きながらも、世と調子を合わせることなく、神の御心に完全に従い通さ

れた。世は世の基準に従って、キリストを拒んだ。なぜなら、キリストが語ったのは神

の真理についてだからである。

 

 

          光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。

                その行いが悪かったからである。

                 悪いことをする者は光を憎み、   

          その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

                        ヨハネ3章

 

 

キリストは、彼を憎む者たちの手に捕らえられ、訴えられ、むち打たれ、そして人々の前で十字架にかけられ、恥ずかしめを受けて、死なれた。しかし、キリストは敗北したのではない。キリストは勝利されたのだ。キリストは、神の御心に従い、自らいのちをお捨てになられ、そして、再びいのちを得られたのだ。キリストは、私たちの罪のために身代わりとなって死なれ、そして、その完全な従順のゆえに、神はキリストを死からよみがえらせ、天に上らせ、栄光の冠を授けられた。そして、キリストを従うすべての人々に、とこしえの救いを与える者とされた。

 

神は、私たちが受けるべき罰を、罪のないキリストに負わせてくださった。私たちが果たせなかった従順をキリストが代わりに全うしてくださった。そのキリストを信じることにより、罪はすべて赦され、義と認められ、神の子とされた。やがて、神のみもとに上げられ、栄光が与えられる。これはすべて、神の恵み。夫が、姦淫する妻をそれでも愛し続けるように、神は私たちのことを愛してくださった。

 

          神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

                   それは御子を信じる者が、

           ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

                  神が御子を世に遣わされたのは、

          世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

                              ヨハネ福音書3章

 

 

永遠のいのちが、私たちを世の支配から自由にする。永遠のいのちが、たましいに救

いを与え、真理へと導くからだ。無知、虚無、そして死への恐れから、キリストにある

者は解放された。古い自分は死に、聖霊によって、新しく生まれ変わった。私たちは日

毎にキリストの似姿に変えられ、真理は日毎に私を自由にしていく。そして、地上の旅

路の先には、天の王座に着かれたキリストが待って下さっている。そこが、私たちの

永遠の住まい。新しい天と地。神が私たちのうちに住まわれ、昼も夜も私たちを栄光で

照らしてくださる。すべての国々から集められた神の家族とともに、神の祝宴に招か

れ、神の救いと恵みを喜び歌い、賛美を捧げる日。すべての戦いは終わり、勝利の角笛

が鳴り響き、私たちは安息のうちに憩う。古いものは過ぎ去り、すべてのものが新しく

される。

 

生きていても、死んでいても、主はいつまでも私とともにおられる。

主に栄光が、とこしえにありますように。

 

            彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、

             その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

 

       だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。

        そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。

 

            彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、

            太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。

 

              なぜなら、御座の正面におられる小羊が、

          彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。

         また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。

                                黙示録7章

 

 

 "The power of the cross"

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イエス・キリストの十字架。それが私たちの必要のすべて。

 

エスは失敗した。イエスは救い主ではなかった。イエスは単なる預言者の一人だ。イエスはただの人間だ。イエスはよみがえらなかった。イエスはただ死んだだけだ。私がキリストだ。私が救い主だ。私が再臨したキリストだ。など、様々な宗教の指導者たちが言っている。けれど、それらの偽りに耳を傾けないでください。

 

エスは、神の御子、キリスト。

キリストは私たちすべてのために死なれ、よみがえられた主。

主の御名だけが永遠に称えられますように。

 

                                               罪に定めようとするのはだれですか。

                       死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、

        神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

                                ローマ8:34