心の所在すら分からない
学生の頃、椎名林檎を熱狂的に好きになった。
東京事変の「アダルト(大人)」というアルバムを聞いてから、その格好よいメロディとともに、彼女の独特な声と世界観にたちまち魅了された。
「群青日和」というシングルのPVを見たとき、あまりの可愛さに心は奪われてしまった。それから、CDやライブのDVDも買うようになって、集めるようになった。それだけでなく、彼女の出演した番組や雑誌も見るようになり、彼女の人生の経歴や、彼女がどういった女性なのかも気になり始めた。
彼女のことを考えると心が高鳴った。あれは恋だったのだろうか。それとは、また違うように思う。なぜなら、私は彼女を個人的に知ることは決してなかったからだ。私にとって、彼女は雲の上の存在で、アイドルのようだった。会いに行けるアイドルのように身近な存在ではなく、遠くて高い”神”のようになっていた。
あの時期、私に最も生きる喜びや楽しみを与えてくれたのは、椎名林檎だった。私は、彼女のようになろうともした。彼女の外見、性格、考え方を無意識のうちに真似るようになっていた。彼女のショートヘアー時代の髪型に似せたり、口調や表情を似せてみたりした。自分が彼女ようになっていくことが、彼女に近づくことであり、それが幸せだと思った。それほどに、彼女の存在は私に欠かせないものとなっていた。
今は、彼女の音楽は聴かなくなった。テレビやお店で彼女の音楽が流れてきたときに、恰好いいとは思うが、彼女自身への関心は殆どなくなった。
けれども、椎名林檎の曲をもう一度聞き始めて、そして彼女を見ていくなら、私は彼女をもう一度好きになってしまうのではないか、と思うときがある。彼女の存在が、再び自分のうちで大きくなっていくなら、やがて、昔のように、彼女を必要とする人生になってしまうかもしれない。
でも、もう支配はされたくない。私は自由とされたから。そして、私の存在は、本当の”神”のためにあり、誰もその神の代わりになることはできないから。
だから、もう一度彼女の音楽を聞き始めるなら、
自由な心を持って、彼女と、彼女の曲を好きになりたい。
「心」 東京事変
心という、毎日聞いているものの所在だって、
分からないまま、大人になってしまったんだ。