Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

暁 -苦難と望み-

神は仰せられた。

「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。

 彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配するように。」

 

神は人をご自身のかたちとして創造された。

神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。

「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。

 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

神は仰せられた。

「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、

 種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、

 いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」

そのようになった。

 

神はお造りになったすべてのものを見られた。

見よ。それは非常に良かった。

夕があり、朝があった。

第六日。

(創世記1章)

 

なぜ、神がいるなら、世界に苦しみがあるのか。

なぜ、神がいるなら、世界に悪が存在するのか。

多くの人がキリスト教について、このような疑問を持っている。

私は、聖書の真理をもって、これらの問いに答えることができてこなかったこと

を、まず認める勇気が必要だ。

 

私は、本やメディアを通して見てきた世界観でもなく、自分が今持っている聖書の

知識によってでもなく、自分はまだ知っていないが、聖書が明確に啓示している世

界について、謙虚になって教えられる必要がある。

 

ここからは、私が今学んでいることの整理であって、聖書の完全な解き明かしでは

ない。けれど、神ご自身が、聖霊を通して、無知で愚かな私にも、聖書の真理を悟

らせてくださる御方であることを信じている。

 

助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ヨハネ福音書14章

 

真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

ヨハネ福音書16章

 

 

私は、苦しみや悪を考えるとき、漠然と考えてしまう傾向がある。

戦争、貧困、虐待、搾取、差別、偏見、汚職などの言葉を並べて、説明する

ことはできる。けれど、その苦しみを生きる人の生活をどれほど知っているだ

ろうか。たとえば、農業で生計を立てている人たちの、毎日の労苦を私は知らな

い。経験は殆ど無いに等しい。スーパーマ—ケットに行って、食材を買ってきて、

家で調理して食べるか、お弁当を買って食べるか、外食するかして、私は日々の食

糧を得ている。家畜や野菜や穀物を育てることの労苦をこれっぽっちも共有するこ

とはない。

 

また、貧困で苦しんでいる当事者を個人的に私はあまり知らない。

頭で貧困問題を考えて、議論して、または教えていても、その苦しみを生きる人の

傍らに私はいない。遠く離れたところで、美味しい料理を楽しみながら、上から高

見の見物をしているかのようだ。

 

世界を知れば知るほど、自分の良心と正義感が、私個人の生活の変革を余儀なくす

る。なぜなら、このままの生活を続けるならば、「高見の見物者」であり続けるこ

とになり、自己矛盾を抱えたまま、結局は「何も知らなかった」という最も楽な生

き方を選択してしまうからだ。そうはなりたくないという内なる叫びと、今の生活

を続けたいという安逸を愛する心がぶつかって、最後は後者が勝利する。

 

私は、そんな人生を繰り返してきた。

何をやっても私は変わらない。そうあきらめる癖もついた。

しかし、神に受け入れられた私は、もはや以前の私ではない。

神ご自身が、神の栄光のために、私をキリストのしもべとして必ず造り変えてくだ

さるからだ。

 

 

 

  

ARI(アジア農業学園)という栃木にある学校で、少しの期間、ボランティアをし

てきた。アジアやアフリカの貧しい地域に仕える人たちが、農業とサーバントリ

ダーになるための学びをしている。

 

学校法人 アジア学院 – アジア農村指導者養成専門学校 – 共に生きるために – That We May Live Togeher –

 

「共に生きる」をモットーに、自給自足の共同生活をしている。

朝起きて、掃除をして、ある人達は豚と山羊と鶏の世話をして、ある人達は植物の

世話をして、ある人たちはご飯の準備をして、そして午後は学びをし、夕方はまた

家畜と植物の世話をする。学生たちが学んでいる日中に、職員やボランティアで農

作業をする。

 

そこでは、農薬を使わない有機農業をしている。そのため、雑草は生い茂り、虫も

沢山寄ってくる。雑草抜きや、土作り、種植え、収穫など、すべて手作業で行う。

 

なぜなら、農薬や化学肥料は高いからだ。

また、人体や土、環境に対して悪影響を与えるからだ。

 

ここで学んだ学生達が帰っていところは、貧しい地域であるため、農薬を買うお金

はない。また、日本にある機械やノウハウを使えるようなお金や資源も存在しな

い。そのため、彼らは自分たちの持っている資源を最大限に活かし、学んだ農業の

知識・技術を自分たちの土地で応用させていかなくてはならない。よって、ここで

学ぶことは、農業の最先端の技術ではない。彼らが帰ってから用いることのできる

有機農業の基本的知識と、それを自分たちの土地で応用する知恵と、そこで待って

いる様々な人たちに忍耐を持って謙虚に仕えていく、サーバントリーダーとしての

品性だ。

 

 

あるインドネシアの村では、ミドルマン(販売代理をする人や業者)が殆どの利益

を持ち去ってしまう。農家が労苦して収穫した作物は、複数のミドルマンを経由し

てから、消費者の手元に届くような販売構造になっているため、農家の手元には殆

ど収益が入らない。

 

365日、汗水流しながら、必死に労苦した挙げ句、収益はほんのわずかで、まとも

に食糧を得ることができず、家族も十分に養うことが出来ず、子どもに教育を受け

させる余裕もなく、ただ子どもたちが痩せ細っていくのを黙って見ているしかな

い状況がある。貧困の連鎖からは抜け出せない。

 

その村から来た学生は、正義と公正がないがしろにされているその搾取構造を変え

なくては、貧困がなくならないことを知っている。しかし、貧しい農家の人たち

が、ミドルマンとの繋がりを断ち、新しいスタートを踏み切ることも、簡単ではな

いことも知っている。なぜなら、そのためには、そのコミュニティのリーダーや村

人たちが教育され、勇気を持って一緒に立ち上がる必要があるからだ。

 

何が正しくて正しくないか、何が良いことで悪いことか。

社会や状況を改善するために、どうすればよいのか。

教育によって、自分の人生と世界を見る目は変わっていく。

無知は人を閉じ込める。しかし、教育によって道が開かれる。

 

しかし、教育こそが、最も難しいことではないだろうか。

その学生は、サーバントリーダーになることが自分には不可能だと感じているこ

とを正直に語ってくれた。世のリーダーは自分の力を誇示して、権力を誇るように

なる。しかし、キリストを模範とするサーバントリーダーは、自分の権力を捨て、

最も低い者となり、自分のためではなく、相手の益のために仕えるしもべとなるこ

とだ。

 

反対を受けても、非難中傷を受けても、忍耐と謙虚さによって、人の心が変わるま

で信じて仕え続けることなんて出来るのだろうか。これは、彼が、コミュニティの

抱える問題と、その担い手である村人たちを個人的に知っているからこそ、生ま

れる葛藤なのだろう。彼は、すでに10年以上、その地域で貧しい農民たちに仕えて

きたのだから、色々な実情が見えているのだ。

 

しかし、彼はそのような恐怖に襲われながらも、神の与える忍耐と励ましによっ

て、神が彼を遣わす地域のために、毎日備えをしている。

 

 

 

そんな彼と、結婚についての話もした。彼には奥さんがいて、小さな子どもも

る。初めは1年間なんですぐだと思っていたそうだ。けれど、実際に離ればなれに

なってみると、毎日寂しくてたまらないらしい。

 

結婚は簡単ではないと話してくれた。

結婚してから、奥さんの悪い部分が沢山見えてくるからだ。逆に、自分の悪いとこ

ろにも奥さんが気付くようになるからだ。色々なことで、互いにぶつかったり、上

手くいかないことがあったそうだ。けれど、今は会いたくて仕方がないと言った。

 

日本の婚姻率は年々低下し、平均初婚年齢は上昇している。晩婚化は、少子化につ

ながり、少子化は社会全体の負荷の要因となる。フィリピンは逆で、人口ピラミッ

ドが綺麗なピラミッドになっている。社会全体に希望がある。

 

なぜ、日本はそうなのかと聞かれたが、経済状況や価値観の移り変わりなどが原因

だと思うとしか答えられなかった。しかし、結婚において最も大切なのは、相手へ

のコミットメント(献身)ではないかと思う。それは、妻を自分自身のように愛

し、生涯をかけて、自分を捧げて生きることだ。価値観の相違や相手の悪い点が見

えてくることは当たり前のことだ。ときにはトラブルも起こるだろう。そして、

上手くいっていないときには、他の女性に慰めを求める思いも湧いてくるかもしれ

ない。

 

しかし、その都度、コミットメントに立ち帰らなくてはならない。夫として、妻を

いかなるときも愛すると誓った最初の誓約に。彼は最初の契約に立ち続けている。

相手の嫌な部分を知ってもなお、一人の妻の夫として生きている。このコミットメ

ントを破るとき、夫婦間の信頼関係は脆く崩れ去り、愛は冷えていき、家庭崩壊へ

と進んで行くだろう。

 

 

労働も喜びとなり、結婚も喜びとなる。しかし、どちらも喜びだけではない。労苦

があり、困難が伴い、涙を流すときだってある。どうにもならないような、悲惨な

現実を受け入れなくてはならないときもあるだろう。不作の年があり、自然災害に

よる大損害を受けるときもある。搾取があり、破壊があり、飢餓によって亡くなっ

てしまう子どもたちもいる。夫婦や家族の間でDVや虐待がある。夫婦関係、親子関

係に亀裂が入り、幸せとは正反対な家庭環境も多い。不倫によって、涙を流す人た

ちがいる。離婚によって、愛に飢える子どもたちがいる。そして、ときにネグレク

トによって、あるいは虐待によって命を落としてしまう子どもたちもいる。

 

 

 

 

どうして、神がいるなら、世界に苦しみがあるのか。

どうして、神がいるなら、世界に悪が存在するのか。

 

今なら、私はこのように答えるだろう。

 

最初に世界が造られたとき、世界は非常に良いところだった。神は、人がこの世界

に生まれ、ふえて、広がっていくようにと祝福された。そして、地を従えて、動物

たちを治める責任を人に委ねられた。神は、人にも動物たちにも、その食糧とし

て、十分な植物を用意してくださった。そこには、貧困もなく、争いもなく、平和

な秩序が存在していた。まさに、「共に生きる」世界があった。

 

けれど、サタンの誘惑によって、人が神のことばに背き、神のみが有していた善悪

の知識を得てしまったことにより、人は恥を感じるようになり、神を恐れるように

なってしまった。それから、人は自己義認と責任転嫁をするようになり、サタンの

惑わしに従い、神に背いて生きるようになってしまった。

 

人の罪のゆえに、神は、出産と夫婦の関係に苦しみを増し加えられ、さらに、土地

を呪い、土地から糧を得るための労苦を与えられた。そして、人が永遠に生きるこ

とのないように、いのちの木から取って食べることが出来ないようにし、やがては

土地のちりに帰らなくてはならない、はかない存在とされた。

 

 

この世界の苦しみや悪とは何だろうか。

悪とは、サタンの惑わしであり、また人の罪である。それは、神の否定、恥と恐

れ、自己義認と責任転換、そこから派生する様々な悪い考えや行いである。

 

苦しみとは、出産と夫婦関係、糧を得るための労苦、はかない命、そして死であ

る。この後、創世記には、人類最初の殺人が記され、土地の争奪、暴力による復

讐と支配、夫と妻の支配関係、多重婚、姦淫、乱れた性的関係など、世界は人の罪

による暴虐に満ちていく。それらが人にもたらすものは、苦しみである。

 

この世界にこのような苦しみや悪が存在するのは、人の罪のゆえである。

神が、人の罪のゆえに、土地を呪い、夫婦や労働の苦しみを増し加えられ、ついに

はちりに帰る存在とされた。そして、地上には人の悪が増大していき、人の暴虐で

満ちていった。

 

このような状況に対して、最も心を痛められたのは、神ご自身であった。

実際、神は一度、世界を大洪水によって滅ぼされた。それが、ノアの大洪水として

知られる出来事である。しかし、神は、主の心にかなって歩んでいたノアとその家

族と、すべての生き物を雄雌1匹ずつ生き残らせるために、ノアに箱舟を作ること

を命じられた。ノアはすべて神が命じられとおりにした。

 

そして、ノア達だけが助かり、神はノアとその子孫と動物達に対して、永遠の契約

を結ばれた。「すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もは

や大洪水が地を滅ぼすようなことはない」。そして、”虹”がその契約のしるしとし

て与えられた。

 

そして、神は、ノアとその子孫に再び祝福を与え、生んで、ふえて、地に満ちてい

くようにされた。さらに、すべての生き物を再び、彼らに委ねられ、それらを彼ら

の食糧とされた。しかし、血にあるままで食べてはならないとも命じられた。なぜ

なら、神は人を神のかたちに造られたからであり、血を流すためではなく、ふえ広

がるようにされたからである。そのため、神は、人のいのちのためには、血の価を

要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流されなくてはならない。おそら

く、生き物を血のあるままで食べてはならない理由は、神にとって、血は人のい

のちそのものであり、そのことを覚えるためだと考えられる。

 

神は、人と被造物を憐れんでくださった。

 

わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。

人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。わたしは、決して再び、

わたしがしたように、すべての生き物を討ち滅ぼすことはすまい。

地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、

寒さと暑さ、夏と冬、

昼と夜とは、やむことはない。

創世記8章

 

 

人は、悪を心に抱えながら、出産、夫婦の苦しみ、糧を得ていくための労苦、人生

の儚さを与えられながら、神の憐れみによって保たれている世界にふえ広がってい

くようにされた。しかし、そこには神の目的があった。人が再び神を求めるように

なり、そして、神を知り、神を信じて従い、神の恵みの栄光をほめたたえるように

なることであった。神は人を見捨てなかった。

 

 

実は、人が罪を犯した後、神は労苦を人間と世界に与えられただけではない。

神は、救いの約束と恵みをも与えてくださったのだ。

 

神は、サタンに向かって、「女の子孫によって、おまえのかしらを踏み砕く」と宣

言された。それは、罪と死によって人と世とを支配するようになったサタンの力

を、神はやがて滅ぼし、人を救われるという約束だった。それは、「女の子孫」と

して、初めの女性エバの遠い子孫であるマリヤによって生まれることになるイエ

ス・キリストのことだ。キリストの十字架によって、サタンの頭は打ち砕かれた。

サタンは、キリストを信じる者を、もはや罪と死によって支配することはできな

い。なぜなら、彼らは、キリストにあって、罪の赦しと、永遠のいのちを得ている

からである。

 

また、恥を覚えて後、いちじくの葉をつづり合わせて、腰の覆いを作り、神を恐れ

て、身を隠していた人間に対して、神はいじちくの葉の代わりに、皮の衣を作り、

彼らに着せてくださった。皮の衣ということは、動物の血が流されたということ

だ。神が作られた良い世界の中心にあったエデンの園で、初めて動物の血が流され

た。しかも、神ご自身の手によって。それは、人の恥を覆うために。

 

神は、ご自身に背いた人間に対して、皮の衣を着せてくださった。

恩恵を受けるに価しない人間に、神は良くしてくださった。これが、神の恵み。

皮の衣で人間の恥を完全に覆い隠すことはできない。しかし、これは後に訪れる救

いの型であり、ついに神の御子イエス・キリストご自身が肉体を割かれ、血を流

し、私たち人間の恥を完全に覆って下さった。それは、私たちがキリストを着るな

ら、キリストの完全な義が私たちのものとなるからだ。

 

神は、私たち罪人を、もはや罪に定めることなく、義と認め、神の御霊を注ぎ、ご

自身の子として受け入れてくださっているのである。

 

神である主は蛇に仰せられた。

「おまえが、こんな事をしたので、おまえはあらゆる家畜、

 あらゆる野の獣よりのろわれる。

 おまえは、一生、腹ばいで歩き、

 ちりを食べなければならない。

 

 わたしは、おまえと女との間に、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、

 おまえは彼のかかとにかみつく。」

 

女にはこう仰せられた。

「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。

 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。

 しかも、あなたは夫を恋い慕うが、

 彼は、あなたを支配することになる。」

 

また、人に仰せられた。

「あなたが、妻の声に聞き従い、

 食べてはならないと

 わたしが命じておいた木から食べたので、

 土地は、あなたのゆえに呪われてしまった。

 あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、

 あなたは、野の草を食べなければならない。

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、

 ついに、あなたは土に帰る。

 あなたはそこから取られたのだから。

 あなたはちりだから、

 ちりに帰らなければならない。」

 創世記3章

 

 

 

 このように、神は土地への呪いと人への労苦とともに、救いも約束してくださっ

た。そして、その救いはキリストによって成就し、私たちとすべての被造物に生け

る望みを与えてくださった。

 

動物も、植物も、土地も、空も、海も、宇宙も、ともにうめき、ともに産みの苦し

みをしながら、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいる。

 

御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心のなかでうめきながら、子にしてい

ただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいる。

 

 

 

結論は、

人生は苦しみと悪で満ちている。

それは人の罪のゆえである。

 

しかし、神は人と被造物を必ず救ってくださる。

 

私たちはキリストによって魂を救われ、聖霊を与えられた。

そして、今、すべての被造物とともに、うめきながら、

神の救いの訪れを待ち望んでいる。

 

それは、すべて神の憐れみと恵みによるものである。 

 

私たちが、イエス・キリストによる神の恵みの栄光を、私たちがほめたたえるため

に。

 

          私たちは、この望みによって救われているのです。

            目に見える望みは、望みではありません。

       だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

           もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、

            私たちは、忍耐を持って熱心に待ちます。

                            ローマ8章

 

 

 

長崎に原爆が落ちた日付に、アジア、アフリカのクリスチャン達とともに

主に祈り、主に賛美を捧げた。

 

平和の君なるイエス・キリストの御名をたたえます。

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