暗闇に光を。

サラリーマンを中心に、日本人について知るために、ブログを書いています。

姦淫の罪

私は罪を犯した。

 

結婚のことを考えていて、神様の御心に従いたくなくて、逃げようとした。

すると、ポルノの誘惑が私を襲って来た。

 

私は欲望に従い、ポルノを見てしまい、姦淫の罪を犯した。

 

「姦淫してはならない」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。

だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。

からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨ててしまいなさい。

からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

マタイの福音書5章

 

情欲を抱いて女性を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した。

この聖書が書かれた当時は、カメラもなければビデオもなかった。

まして、インターネットなど存在していなかったため、現代のようなポルノはな

かった。

 

そのため、当時「姦淫」という言葉が持っていた意味は、主に結婚外での肉体関係

を持つことだった。今日の世界では、フリーセックスが当然のようになっている

が、神様の律法では、それは固く禁じられていることだ。その目的は、人の喜びを

奪い、縛り付けるためではなく、むしろその逆だ。本来、神様が意図された結婚と

家庭には、夫婦間の誠実さと貞潔さが不可欠であるからだ。そのため、結婚した男

女が不倫をしないのは勿論のこと、結婚する前の男女が結婚に備えて、誘惑に耐

え、自らの貞潔を守ることが神様の御心なのだ。

 

肉体関係こそが、愛の最大の結晶であるかのように考えられがちだが、決してそ

うではない。愛とは、相手の益のために、自分を捨てることである。肉体関係が男

女間の愛の頂点だとするなら、愛は虚しいものである。愛は快楽以上の、満ち溢れ

た喜びを与えるものであり、相手の品性を高めるものである。愛は、肉体よりむし

ろ、豊かな人格的触れ合いである。人格的触れ合いには、摩擦や軋轢が伴う。しか

し、そこを愛によって乗り越えていくときに、愛の絆は成長していく。

 

このように、神は、人が真実の愛に生きていくために、「姦淫してはならない」と

いう律法を与えてくださった。しかし、キリストはその律法のさらに本質的な理解

を示してくださった。それは、「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦

淫の罪を犯した」ということだ。

 

「すでに」心の中で姦淫の罪を犯しているのだ。

 

私は、生身の人間であろうと、ネットで見るポルノであろうと、そこにいる女性、

あるいは同性であっても、情欲を抱いてみるならば、その人と肉体関係を持ってし

まった罪と同じ罪を犯しているのである。

 

なぜなら、すでに、心の中で、神様と妻への誠実さと貞潔を捨ててしまっているか

らである。行動は、すべて心の中から始まる。

 

よって、ポルノではなく、ライトポルノと言われるような、刺激の弱めのものを見

たからといって、罪が軽いというわけではない。さらに言うならば、テレビに登場

するアイドルや女性タレントを見て、現実を逃避し、自分の情欲を少しでも満たし

ているのならば、私の心はすでに信仰と愛を捨てて、姦淫の罪を犯しているのだ。

 

その罪の報酬は、死なのだ。罪は、からだ全体をゲヘナ(永遠の苦しみ)に投げ込

まれるなくてはならないほどに、神の聖さと全く相容れないものなのだ。

 

しかし、その罪をイエス・キリストが代わりに背負ってさばきを受けてくださっ

た。そして、ただ一人、神のすべての律法を完全に成就してくださった。

 

神は、このキリストによって、キリストを信じる信仰によって、私を義と認め、

私を罪と死の定めから救い出してくださり、永遠のいのちを与えてくださった。

ハレルヤ、主よ。感謝します。

 

ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、

アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとその捧げものには目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである。

創世記4章

 

カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。......私たちは、自分が死からいのちに映ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです......神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

ヨハネの手紙第一3章

 

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

ローマ13章

 

 

あるショートフィルムを見た。父親と娘の2人暮らしの家族を描いた作品で、父親はポルノの依存症であり、娘に隠れてインターネットサイトの更新を続けていた。あるとき、そのサイトに自分の娘の盗撮写真が投稿されているのに気付いた。そのことから、彼は自分のしていることの愚かさに気付くようになり、収拾していた画像をすべて消去した。そして、娘を盗撮している犯人を捜し出す、彼のSDカードを没収し、彼のカメラをぶちこわした。その後、話は続くのだが、その後の父娘の歩みについては語られていない。

 

ポルノは、家族関係を崩壊させる。ポルノは妻、娘、息子、親、まわりの大切な人たちの心をえぐり、傷つける。

 

その実例をこれまでに沢山聞いて来た。

そして、その経験を赤裸々に分かち合ってくれて、妻のためにポルノを絶対にやめ

るようにと愛をもって励まし、祈ってくれた人がいた。

 

 

どうか、神様。私を守ってください。妻を愛せるように。

隣人に害を与えるのではなく、喜びを与える者と変えてください。

隣人を殺すのではなく、隣人のためにいのちを捨てる者となしてください。

 

神様の前に正しく、自分のすべてを神様への生きた供え物としてささげさせてくだ

さい。

 

日々、私のあなたへの誠実さを養い、従順なしもべとしてください。

 

私は、キリストによって、すでに罪から解放されています。

その真理に歩ませてください。

 

父、子、御霊なる主の愛と恵みに感謝します。