Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

バプテスマ

エレミヤ書(旧約預言書)

エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。」(4:14)

 

「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。愚かな子らで悟ることがない。悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らない。」(4:22)」

 

「彼女(娘シオン、すなわちエレサレム)はあえぎ、手を伸ばして言う。『ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。』」(4:31)

 

 

 

テトスへの手紙(新約パウロ書簡)

「私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。

 

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、

 

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いを持って、私たちを救ってくださいました。

 

神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

 

それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ。永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。」(3:3-7

 

 

イスラエルは悪から心をきよめて、悔い改めなかった。なぜなら、預言者を通して語られる神のことばを悟ることができなかったからである。神に背いて、代わりに恋い慕っていた偶像は、実はイスラエルを殺す者たちだった。彼らは、疲れ果てて悲嘆の声を上げることしかできなかった。

 

しかし、神様ご自身が、そのあわれみによって、神の民を罪からきよめてくださった。それは、救い主イエス・キリストを通して、聖霊を私たちの心に豊かに注いでくださることによってであった。

 

エス様は聖霊によって新しく生まれなければ、人はいのちを持つことができないことを教えてくださった。肉(生まれながらの堕落した性質)の思いは死であり、御霊の思いはいのちと平安。これが、アダムの罪によって、全人類に罪が入り、死がすべての人を支配するようになった堕落の現実である。

 

神様は、エレミヤ3:17において、ご自分を「いのちの水の泉」と呼ばれた。イスラエルは「いのちの水の泉」を捨てた。

 

エス様は、ご聖霊を「いのちの水の泉」と説明された。イエス様を信じるすべての者に、ご聖霊を与えると約束してくださった。

 

パウロがテトスの手紙で書いたとおり、神は、イエス様を通して、聖霊を注がれた。その聖霊は、神様ご自身であった。

 

いのちの水の泉を捨て、水のない井戸を掘り起こす愚かな私たちのため、

いのちの水の泉である神様ご自身から、私たちを引き離して殺そうとする悪魔に支配され、偶像を恋い慕ってしまっていた私たちのため、

 

神様ご自身が私たちのうちに住んでくださった。そして、私たちにいのちを与えてくださった。いのちが湧いて来る。神様の恵みによって、いのちが与えられた。

 

 

 

神様は、イエス様の血によって、罪から私たちを清めてくださった。

 

私たちは、それを信じて、罪を悔い改めて、神様に従うことを神様と教会の前で誓った。それがバプテスマ。それは始まり。新しいいのちの始まり。聖霊とともに、新しいいのちに生きる始まり。