神の選びとあわれみ
ペテロの手紙第一2:7-10
したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。
しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。
イエス・キリストを信じるか、信じないか。
キリストについてのみことばが告げ知らされたのは同じ。しかし、聞いたみことばが信仰によって結びつけられるかどうか。異邦人たちは信じた。イスラエル人の一部は信じなかった。
その信仰は、人間の願いや努力によるのではなかった。それは、神の定めと選びによるものだった。信じている私たちは、神に選ばれて、あわれみを受けて、神の民とされた。信じていない者たちは、神に定められて、あわれみを受けることができず、神の民から追放された。
しかし、それは、神の大いなる知恵とさばきによるものだった。神は、すべてのイスラエルと異邦人を救われるご計画を持っておられた。
以下、上のみことばを理解するための参照箇所
ローマ人への手紙9:15-16、24
神はモーセに言われました。「わたしは憐れもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。・・・このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。
9:30-32
義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
10:17
信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのみことばを通して実現するのです。
11:1、5-6
それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。・・・今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。
11:11-12
それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らが満ちることは、どんなに素晴らしいものをもたらすことでしょう。
11:25-26
兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。
11:30-33
あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。
それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。
神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。
11:33-36
ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。
「だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」
すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。