私たちは「聖なる祭司」
出エジプト記28:1、41、29:44-46
「あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たちのナダブとアビブ、エルアザルとイタマルをあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。・・・彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。・・・わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる。わたしはイスラエルのただ中に住み、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。」
神は、エジプトからイスラエルを贖い出され、イスラエルのただ中に住まれた。その中心は幕屋であり、その中心は「契約の箱」が置かれた至聖所であった。その場所で、神は彼らと会って、語られた。つまり、至聖所は神が臨在される場所である。
祭司たちはその至聖所の手前、すなわち会見の天幕の前で、祭儀を厳密に守り、神に仕えた。それは要するに、神の御前で神に仕えることであった。
神は聖なる方であり、聖なる神の臨在には、祭司はきよめられなければならなかった。
私たちが「聖なる祭司」となったということは、
①私たちは、神に仕えるために任命された
②私たちは、神の御前(神様が住まわれるところ)で神に仕える
③私たちは、聖別されたから神に近づける
これはすべて、イエス・キリストの福音によること。私たちは、聖なる神に仕える聖なる祭司とされたし、ますますそのように成長させられていく。
私たちが捧げる生贄は、自分自身。自分を神様に受け入れられる、きよい、生きた供物として捧げること。聖霊が私たちをきよめてくださる。イエス・キリストを通して、私自身を神に捧げる。
神に喜ばれる。神に受け入られる。
こんな罪人を赦して、愛して、きよめて、喜んで受け入れてくださる。
神様は永久にほめたたえられるべきお方!