Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

二元論的思考の問題

二元論的思考の問題

 

聖書と科学の問題に詳しい牧師さんが教えてくれた。それをもとに、自分自身が陥りやすい二元論的思考について考えてみる。

 

 「聖書」と「自然」は矛盾するものではない。なぜなら、「聖書」も「自然」も、同じ神様に由来するもだからである。矛盾が生じるのは、それぞれの解釈である「神学」と「科学」である。科学が発展し始めた初期には、科学と聖書は完全に重なっていた。

 

ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は、コペルニクスの地動説を正しいと主張したために、宗教裁判でさばかれた。彼自身はカトリック信徒であり、聖書を信じていた。しかし、ローマ・カトリックの聖書解釈(聖書は天動説を教えている、という解釈)と対立したために、異端とされたのだ。よって、この裁判は、聖書と科学の問題ではなく、教会の権威と真理の問題であった。

 

当時の聖職者たちは、自分の神学(聖書解釈)を絶対視してしまっていた。同時に、二元論的思考に陥り、科学を否定する傾向にあった。私はこう思う。科学の発展により、人間にわかることが増えると、当時の聖職者たちは聖書の権威が貶められるように感じたのではないだろうか。それが、聖書を教える自分たちの「権威」をも揺るがす脅威だと感じてしまったのではないか、と。

 

今日、進化論に限らず、心理学や脳科学など様々な分野の科学が発達している。人間の心や脳や体の関係性など、人間に分かることが増えている。このような科学の発展する世の中で、当時の聖職者たちと同じように、二元論的思考に陥り、それらの科学が聖書の権威を否定し、聖書を宣べ伝える私の「権威」をも失墜させるのではないかと恐れている自分がいることに気づかされている。結局は、主イエス・キリストと父なる神様のためではなく、自分自身の立場に固執しているのである。

 

私は、聖書と科学を矛盾するものではなく、両立するものとして捉えながら、神のことばの宣教に励むべきである。その際、最も大切なのは、「自分ではなく、イエス・キリストのため」という愛と信仰による従順である。

 

イエス・キリストの御名のため」に、科学の不確実性や限界を認識しつつも、その発展を感謝を持って受け入れながら、いつまでも変わることのない真理の言葉である聖書の正しい解釈と宣教に励みたい。

 

最後に、肝に命じておきたいことは、「真理が人を自由にする」のであり、科学が人を自由にすることはできない」ということである。罪と死の奴隷である人間を救うのは、福音のことばのみであり、その人がイエス・キリストを主と信じることによるのである。

 

「初めに、神が天と地を創造した。」創世記1:1

 

「神は仰せられた。『さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」創世記1:26

 

「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」

創世記1:31