Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

牧師の喜び!私たちの父なる神様が礼拝されること!

(※ 長い文章です)

1、礼拝って?

礼拝とは何か。実は、教会の「礼拝」に集っている殆どの人たちが、礼拝が分からない

でいることに気づいた。礼拝でメッセージを聞いた後、「なるほど」と思っても、礼拝

が終わった直後には、もう神様が頭から消え始めているのだ。当然、一週間の中で、神

様のことを思うことはほとんどない。そうであれば、神様を礼拝することもない。

 

私は牧師ではない。けれども、主イエス・キリストによって、みことばを宣べ伝えるた

めに立てられた者として、私はこの状況を真剣に、重く受け止めなくてはならない。

 

「キリスト・イエスのしもべである」パウロは、ピリピの教会に対してこう書いた。

「たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎささげ物

となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」

(ピリピ人への手紙2:17)

 

パウロの願いは、彼らの信仰の礼拝を見ることだった!そのためなら、自分の命が犠牲

になっても構わなかった。では、「信仰の礼拝」とは何を意味していたのか。直前に、

パウロが書いたことばが説明となる。

 

「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代

のただ中にあって、傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼ら

の間で世の光として輝く」(2:15-16)

 

パウロが言っている礼拝とは、日曜日の「礼拝」ではなく、生き方のことだ。世の光と

して輝くことだ!それ以上でも、以下でもない。礼拝とは、世の光として輝いて生きる

ことである。

 

パウロは、「信仰の礼拝という『いけにえ』」という言葉を用いた。いけにえとは、モ

ーセ律法において、定められた神への生贄を示唆している。その生け贄はなんでも良い

わけではなかった。傷のない動物でなければならなかった。つまり、教会も、神様にさ

さげられるものとして、「非難されるところのない」、「傷のない」状態でなくてはな

らない。

 

しかし、罪人である私たちがどのようにしたら、そうなれるのか。それは、私たちのわ

ざではなく、神のみわざである。しかし、私たちは神のみわざに、自分を従わせていく

ように努めなくてはならない。

 

パウロは言った。「恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい。神は

みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方

です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」(2:12b-13)

 

神様がみこころのままに働かれる。そして、志を立てさせる。そして、事を行わせてく

ださる。動詞の語尾に注目すると、「働かれる」は神様の行動だが、「立てさせる」と

「行わせてくださる」は神様の行動であっても、使役、つまり教会自身がそれをするよ

うにさせるという行動であることが分かる。言い換えると、志を立てるのも、事を行う

のも教会である。けれど、それをできるようにさせてくださるのは神様であり、神様が

働かれるからである。

 

だから、「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい」と命令したのだ。

神様が立てさせてくださる志をすべて、不平なし、疑いなしで行っていくならば、教

会は変えられていく。

 

神様はすでに、みこころのままに、教会のうちに働いておられる。

 

まとめると、

①礼拝とは、信仰の礼拝といういけにえである。

②それは、非難されるところのない、傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをし

っかりと握って、世の光として輝くことである。

③そうなるように、神様がみこころのままに教会のうちに働いている。

④教会がそれに応えて、従っていくとき、造り変えられていく!パウロは、それを「救

いの達成」と言った。

 

気づいたことは、以下である。

救いの達成とは、神様への礼拝者として整えられることである。

神様への礼拝とは、世の光として輝くことだ。

 

さらに大事なこととして気づいたことは、以下である。

世の光として輝くためには、いのちのことばをしっかりと握っていなければならな

い、ということだ。

 

 

 

2、牧師って?

教会のほとんどの人たちが、礼拝をしていないと冒頭に言った。つまり、世の光として

輝いて生きていないということだ。でも、その理由は、いのちのことばをしっかりと握

ることができていないからだ。いのちのことばを蓄えていない人に、また正しく理解で

きていない人に、「世の光としてもっと輝きなさい。神様を持って礼拝しなさい」と言

ってはならない。なぜなら、それは不可能だからだ。

 

教会のある人たちは正直に分かち合ってくださった。「みことばが本当はよく分からな

いんです」、「喜びがないんです」、「神様との交わりもさっぱりないんです」。思い

返すと、ずっと前から繰り返しSOSを発信してくださっていた。ある方が、「みことば

を学ぶ機会がほしいです」と言っておられのを、私は何度も聞いていた。

 

週一度の礼拝でメッセージを聞いていても、疑問や分からないところがたくさんあった

のだ。もっと知りたい、探求したいという渇きを持っておられたのに、私はいのちのみ

ことばを積極的に分かち合ってこなかったのだ。

 

教会が、「一人の成熟した大人となる」という意味は、「神の御子に対する信仰と知

において一つとなる」ということである。(エペソ4:13)

 

そのために、キリストご自身が、ある人たちを使徒、預言者、伝道者、牧師、教師とし

てお立てになった。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを

建て上げるためなのだ。(4:11-12)

 

すべてのものを満たす方でおられるキリストが、教会のために贖いのみわざを成し遂げ

てくださった。そればかりでなく、今も教会を建て上げるために、キリストがすでに働

いておられる。

 

そうであるならば、教会が建て上がっていかない原因は、私たち一人一人がなすべきこ

とをしていないからである。しかし、順番がある。「聖徒たちを整えて、奉仕の働きを

させ」、という順番である。牧師たちが聖徒たちを整える前に、聖徒たちは奉仕の働き

をすることは出来ないのだ。キリストによって立てられた牧師たちが、与えられた務め

を果たさなければ、聖徒たちの奉仕は始まらない。聖徒たちの奉仕がなければ、教会は

建て上がらない。教会が建て上げられないということは、神の御子に対する信仰と知識

においてバラバラであり、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風

にも、吹き回されたり、もてあそばれたりしてしまうのだ。その教会は、いのちのこと

ばをしっかり握っていないため、この曲がった邪悪な世代のただ中にあって、世の光と

して輝くことはできない。つまり、神様を礼拝できないのだ

 

牧師の務めは、本当に重いのだ。それは他の聖徒たちの奉仕に取って代えることは決し

てできない。

 

ピリピ人への手紙を読むとき、他の手紙と同様に、パウロがどれほど教会を愛して、教

会に仕え、教会のために祈り、教会に模範を示し、教会に教えてきたのかが分かる。

 

「あなた方のことを思うたびに、私の神に感謝しています」(1:3)

 

「私がキリスト・イエスの愛の心を持って、どんなにあなたがたすべてを慕っている

か、その証をしてくださるのは神です。」(1:8)

 

「あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてと

ともにいるようになることを知っています。そうなれば、私は再びあなたがたのもとに

行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるで

しょう。」(1:25-26)

 

「愛する者たち、あなたがたいつも従順であったように、私がともにいるときだけでな

く、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いの達成を達成する

ように努めなさい」(2:12)

 

「・・・いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そう

すれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったこと

を、キリストの日に誇ることができます。たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝という

いけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべて

とともに喜びます。同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでくだ

さい。」(2:16b-18)

 

 

「早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。あ

なたがたのことを知って、励ましを受けるためです。テモテのように私と同じ心になっ

て、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。」(2:19-20)

 

「兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手

本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(3:17-18)

 

「ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立っ

てください。愛する者たち。」(4:1)

 

「あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。

そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(4:9)

 

 

 

そして、そのように愛されたピリピの教会も、パウロを愛した。

 

ピリピの教会は、福音のために牢屋に入れられているパウロに贈り物を届けて、また側

で仕えさせるために、エパフロディトを送った。このことは、パウロを大いに喜ばせ、

たましいを満ち溢れさせた。

 

「私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあ

って大いに喜んでいます。」(4:10)

 

「私はすべてのものを受けて、満ち溢れています。」(4:18)

 

しかし、パウロが喜び、満ち溢れたのは、自分の必要が満たされたからではなかった。

ピリピの教会がくれた贈り物が、神様に喜ばれる礼拝だったからだ。

 

「私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的

な口座に加えられていく実なのです。」(4:17)

 

「エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳

ばしい香りであって、神が喜んで受け取ってくださるささげ物です。」(4:18)

 

 

 

パウロの心の中心は、いつも父なる神様が礼拝されることなのだ。

 

「私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」