Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

召しのもたらす望みは一つ。だから、召しにふさわしい歩みも一つ。

エペソ人への手紙4章には、キリストご自身が牧師たちをお立てになり、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げると書かれていて、その順番に注目する必要がある、と前にブログで書いた。

 

pochipero.hatenadiary.jp

 

そのときは、順番が大事で、牧師が聖徒たちを整えなければ、聖徒たちは奉仕することができず、教会も建て上がることはない(神の御子に対する信仰と知識において一つとなれず、むしろバラバラになってしまう)ため、牧師の務めは重大であると書いた。

 

しかし、それと同じくらい、あるいはそれよりも重大なことに気づいた。それは、4章1節から書かれていることである。

 

「さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」(4:1-3)

 

パウロは、教会のすべての人に共通する勧めをまず与え、その後に、キリストの賜物、すなわち、使徒、牧師、教師の務め、聖徒たちの奉仕について語ったのだ。つまり、キリストの賜物を持って仕え合うことは、最初の「召しにふさわしく歩みなさい」という勧めの上に成り立つものなのだ!

 

そのため、私がまず考なくてはならないことは、牧師としての務めが果たせているかどうかよりも(私は牧師ではないが、メッセージを語る務めを受けている)、召されたその召しにふさわしく歩めているかどうかなのである。

 

召しにふさわしい歩みとは何か。それは、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保」つことだとパウロは言っている。

 

ああ、私はある兄弟に対して、高ぶり、怒り、耐え忍ばず、敵意を抱き、一致を保つ努力を放棄していた。誘惑に抵抗することなく、女性のことを情欲を持って何度も見てしまった。淫らな思いにもふけってしまった。これら全てが示しているのは、私が召しにふさわしく歩まなかったという事実だ。

 

召しとは何なのか。

召しには望みがある。そして、その望みは一つである。なぜなら、パウロは続けてこう書いているからである。「あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように...」。また、エペソの聖徒たちのために、「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか」知ることができるように、とも祈っている(1:18)。

 

神の召しにより私たちには望みが与えられているのだ!そして、その望みは私たちが思っているものよりも遥かに素晴らしいのだ。だから、それを知ることができるようにとパウロは祈ったのだ。

 

そもそも「召し」とは、神様の私たちへの働きかけであり、英語では"call"と訳されている。つまり、召しとは、神様が私たちをお呼びになることなのだ。

 

神様は私たちをお呼びになった。それは、私たちにあるものを得させるためである。しかし、私たちはまだそれを受け取っていない。なぜなら、「望み」とは将来に対する期待だからである。召しのもたらしたものが、「望み」である以上、その望みの「対象」を私たちはまだ得ていないのだ。

 

パウロはこの望みについて、ローマ書でこのように書いている。

「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを誰が望むでしょうか。私たちはまだ目で見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。」

(ローマ8:23-25)

 

パウロがここで書いた望みとは、「子にしていただくこと」である。それを言い換えて、「からだが贖われること」とも言っている。パウロは、ローマ書の中で、「からだ」(の中)には「罪の律法」(7:23)があると言い、「からだ」を死の「からだ」と表現している(7:24)。また、「からだ」の行いは殺されなければならないとも言っている(8:13)。これらのことから、「からだ」は、罪のもとに売られ、罪と死に支配されている奴隷となっていることが分かる。

 

パウロはそのからだが贖われることを待ち望んだ。つまり、からだが罪のもとから完全に買い戻され、からだが罪の支配から完全に解放され、からだがもはや罪の奴隷ではなく、からだも心もともに完全に神の子どもとされることである。

 

これは、目で見えるものでもなく、まだ見ていないものだ。だからこそ、忍耐して待ち望むことができるのである。

 

私もパウロと同じ召しを受けた。そして、パウロと同じ望みをいただいた。そして、この望みはすべてのクリスチャンと一つなのだ。私たちはこの望みのもとで、ともに召しにふさわしく歩むのだ。

 

 

この召しは、神様の恵みによって、キリスト・イエスにあって、キリスト・イエスを信じる信仰を通して与えられた。そして、その保障として神は御霊をくださった。

 

私たちが待ち望むことができるのは、御霊をいただいているからである。

「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」

(ローマ8:23)

 

それに、ただ待ち望むだけではない。 心の中で呻いているのだ。

 

 

まとめると、神様に召された私たちは、

御霊によって、からだが贖われ、子とされることを待ち望みながら、

御霊にあって、からだを支配する罪と戦争を繰り広げ、心の中で呻きながら、

その召しにふさわしく、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保つ」のである。