Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

本当は私が分かっていないこと。それは、「キリストにある」の意味。(続き)

「キリストにある」とはどういうことなのか、教会の多くの人たちが分かっていない。何より、そのみことばを宣べ伝えるために立てられている私自身が、本当はわかっていない。キリストの上に建てられた教会が、「キリストにあって」歩むことができないなら、教会に未来はない。この問題の重大さにようやく気づいた私は、『LOVE INTO LIGHT』(Peter Hubbard)という本を参考にして学び、ブログに書くことにした。

 

「キリストにあって」のみ、私たちの心と人生は新しく変えられ続けていく

 

この変化を、コロサイ人への手紙3章を土台として、

①「求める」②「殺す」③「着る」、という3つのポイントでまとめる。

 

前々回の投稿では、①のみを扱った。

pochipero.hatenadiary.jp

 

 

今回は、その続きで、②と③を扱っていく。

 

 

2、殺す

「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」(コロサイ3:5)

 

行動が私たちのアイデンティティを決定するのではなく、アイデンティティが私たちの行動を決定する。私たちはキリストにあって、キリストとともに死んで、ともによみがえり、ともに栄光のうちに現される。このキリストにあるアイデンティティが、私たちを「戦い」へと突き動かす。なぜ、戦いなのか。二つのポイントをあげる。

 

1)なぜ戦わなければならないのか

①私たちは世にあって、キリストの御国の中に生きているから

「これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。」(3:6-7)

 

新しい国に移されたことは、肉体的なものではないが(今はまだ)、それにも関わらずこの移行は現実である。「世にあって、世とは異なる国に生きる」ということが意味するのは、戦争である。なぜなら、サタンの支配する世と、キリストの支配する御国は敵対しているからである。

 

私たちは外側においても、内側においても敵対勢力と日常的に戦わなければならない。外側とは、世の律法とキリストの律法は異なるので、世の調子(ローマ12:2)が私たちを常に押し流し、キリストの元から引き離そうとするからである。また、内側とは、古い国のものが私たちの内側に残っていて、内側から戦いを挑んでくるからである。

 

そのため、私たちはその内側に残っている古いものを殺さなければならない。パウロは、「地にあるからだの部分(what is earthly in you)......を殺してしまいなさい」と書き送った。この「殺し」は物質的なものではなく、自分の体を傷つけることでもない。これは、罪を殺すことである。神様が私たちに命じている戦いは、罪を弱らせて生かしておく程度のものではなく、罪の息の根をとめることである。

 

②私たちは世にあって、キリストにある新しい人であるから

「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」(3:9-10)

 

私たちは古い人とともにその行いも脱ぎ捨てたのだ。すなわち不従順のゆえに御怒りを受けるべきであった生き方を捨て、代わりに新しい人を着たのだ。新しい人は、造り主である神のかたちにしたがって新しくされ続けていき、真の知識に至るのだ。それは、キリストの満ち満ちた様にまで私たちが変えられるということである(2:3、9)。

 

神様は、私たちをキリストにあって、キリストと同じ生き方へと変えてくださるのだ!

 

それでは、毎日の戦いとは、実際にどのようなものだろうか。

 

2)どのような戦いなのか

ここで個人的な話になるが、今日このブログを書くことができているのは、神様の恵みである。神様が助けてくればければ、私はこのブログを書くことはできなかっただろう。なぜなら、30分前の私は、戦意喪失寸前だったからである。お昼ご飯を食べようと街に繰り出し、ほんの1時間過ごしただけで、私は露出の多い女性の姿に目を奪われて、情欲の誘惑に攻撃され、ブログを書く意欲をほぼ失ってしまった。

 

ブログを読まれている方は、私を自制がなくて、情けない人間だと思われるだろう。まさに、その通りなのだ。私は本当に惨めな人間だ。私は神様の助けにすがるしかなかった。目の前にいる友人に打ち明けて、今すぐにでも祈ってもらわなくては敗北すると思った。けれど、打ち明けることもできなかった。なぜなら、打ち明けるよりも、戦うよりも、家に帰って、一人で情欲とたっぷり時間を過ごしたかったからだ。

 

私はもう戦意喪失寸前であった。しかし、神様は私の心を動かし、友に打ち明けるようにしてくださった。そして、私は自分の悲惨さを分かち合い、その友に祈ってもらった。友は、私がイエス・キリストの福音を信じることができるようにと祈ってくれた。

 

神様は、私が祈るよりも前に私の心を知っておられ、助けてくださるお方。

神様は、祈りを聞かれ、祈りに答えてくださるお方。

このお方が、私たちの父なる神様。

 

今、私はこのお方に守られて、このブログを書いている。

このように、私たちは常に霊的な戦争を戦っている。

 

この戦争とはどのような戦いなのか。

 

①私たちは戦場にいる

朝起きて最初の任務は、罪を殺すことである。ダビデはこう言った。「朝ごとに、私は国の中の悪しき者をことごとく滅ぼし、主の都から、不法を行う者を、ことごとく断ち切ります」(詩篇101:8)。ダビデは、イスラエル王国と都エルサレムを、神の前に聖なるものとするため、朝ごとに悪しき者や不法を行う者を滅ぼすと宣言した。

 

神は私たちに対して同様に求めておられることは、朝ごとに「地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺」すことである。しかし、具体的な罪と戦う前に、私たちがまず格闘するのは、自分自身のアイデンティティである。

 

「私は何者なのか」。私たちはキリストにあるアイデンティティから簡単にさまよい出て、他に答えを追い求めてしまう。もし受け身でいるならば、私たちの欲望や経験がその空欄を埋めることになるだろう。なぜなら、私たちの周りには様々な答えを提示してくる敵たちに囲まれているからである。

 

 

②欲望の時点における戦い

パウロが殺すようにと命令した、「淫らな行い、汚れ、情欲...」などの欲望は、多くの場合、敵としてではなく、友人あるいは親友のようにして私たちの前に現れる。それらは私たちに、自由や快楽、そして幸福を約束してくる。私たちは、これらの不道徳な欲望が人間に元来備わっている自然なものだと感じる。それゆえ、これらに抵抗することは、まるで自分自身を否定しているかのようにさえ感じてしまう。だから、私たちはこれらの欲望を「殺す」という発想には至らない。むしろ、友人のように迎え入れて一緒に人生を歩んでしまうのだ。

 

また、これらの欲望は単独ではやってこない。他の友人に引き連れられてやってくる。例えば、孤独自体は無害かもしれない。しかし、それが怒りに変質した時、すぐに情欲もやってくる。創世記4章で、カインが怒った時、神様はカインに対して、戸口を開けたたまにしないように警告された。戸口で罪が待ち伏せていて、彼を恋い慕っていたからである(創世記4:7)。私たちは怒りや失望、苦々しさ、妬みは、その物事に対する当然の応答だと考える。しかし、それらはカインの場合と同様に、本人の不義が原因である。ところが、たとえそうではなくて、正当な応答であったとしても、それらは罪を心に招き入れるきっかけとなり得る

 

他の例として、不安は若者を虚構の世界へと向かわせる。それは安心できる場所を求めるからだ。「安心がほしい」という無害な欲望が、虚構の世界で、若者を非人間化させていくことがある。本当のアイデンティティは虚構の世界で失われていき、深みに入るほどに、自分が何者であるかの感触を失っていく。

 

また、友情に関しても、「友達になりたい」という正常な欲求が、「自分だけのものにしたい」という悪質な渇望へと変質してしまう。箴言にはこうある。「よみと滅びの地は飽くことがなく、人の目も飽くことがない」(箴言27:20)。不満足は、濫用をもたらし、濫用はその対象を自分にとって必要不可欠な存在として錯覚させる。

 

このように、正当な欲望も簡単に「淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲」へと変質し、罪(「怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことば」(コロサイ3:8))を迎え入れる入り口となる。だから、私たちは、欲望・欲求のレベルで戦わなければならない

 

しかし、私たちの欲望を理解し、そのレベルで戦うことは易しいことではない。その人のうちにある欲望は、互いに複雑に絡み合っているため、解明するには、神が与えてくださる忍耐と洞察力を必要とする。

 

ただ言えるのは、キリストにあるアイデンティティを信じ続けることが、欲望のレベルにおける戦いには必要不可欠であるということだ。キリストにあるアイデンティティを見失いかけたとき、私たちはすぐさま、キリストに向き直らなければならない。なぜなら、キリストにあるアイデンティティが、私たちの欲求、思考、行動を決定するからである。

 

つまり、「キリストにあって」、私たちは戦争へと突き動かされ、「キリストにあって」、戦争を戦うのである。

 

まとめると、

Ⅰ 私たちは「キリストにある」者、すなわちキリストともに死んで、ともによみがえり、ともに栄光のうちに現される者である。

 

Ⅱ それゆえ、私たちは世にあってキリストの御国の中に生き、世に属する古い人ではなくキリストにある新しい人とされているため、内側においても外側においても戦争がある。

 

Ⅲ この戦争は、欲望の時点において戦わなければならず、勝利のためにはキリストにあるアイデンティティを信じ続けることが必要不可欠である。

 

Ⅳ この戦争において、神様が求めておられることは、悪い欲望を殺し、罪を捨て去ることである。