Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

本当は自分が分かっていないこと。それは、「キリストにある」ということ(③)

だんだんと暑くなってきた。暑いと、体がだるくなってきて、イライラしやすくなる。特に、お昼は一番頭がぼーっとしていて、誘惑に陥りやすくなると。私は大丈夫、と思っていても、大丈夫でなかったことが、これまでに幾度もあった。

 

その敗北の経験から、確信を持って言えることは、ポルノを見たり、自慰行為に耽ることによって犠牲にしているものは数知れないということだ。

 

時間、人間関係、人間性。しかし、最も犠牲にしているのは、神様との関係である。

 

神様との関係は別に重大ではない、と思うかもしれない(実際、罪を犯しているときは、神様との関係はどうでもいいと思ってしまっている)。けれども、実際は、神様との関係が時間の用い方(人生の生き方)、人間関係、人間性、すべてを決定づける。

 

なぜなら、一言で表すと、神様がすべてだからである。神様に善があり、義があり、愛がある。神様が初めであり終わりである。すべての者は神様によって造られ、神様のために存在している。神様がすべてを支配しておられる主権者であられる。その神様は、私たちがすべてを尽くして神様を愛するように人を造られた。人は神様に愛され、人は神様を愛するという愛の交わりの中に生きるように造られた。その神様との交わりにおいて、人は人を愛し、他の被造物を愛するのだ。それが神様の祝福であった。

 

しかし聖書は、すべての人間が神様をあがめず、神様に感謝もせず、神様に背き、その結果、欲望のままに、悪と不義と憎しみを行う悲惨な罪人であることを、包み隠すことなく示している。しかし、同時に、そんな背きの民を見捨てない、神様の憐れみと恵みが繰り返し現されている。そして、今は、その限りない豊かな恵みと憐れみが、神のひとり子イエス・キリストを通して、キリストを信じるすべての者に無償で与えられている!

 

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。」(ローマ3:24)

 

贖いとは、奴隷をその主人から、代価を払って買い取り、自由にすることである。罪と死の奴隷であった私のような罪人を、神様はひとり子のいのちという代価を払って買い取ってくださり、解放してくださった。そして、キリストは死者の中からよみがえられ、天に上げられ、天と地のすべての権威を与えられ、私たちの主となって、私たちをご自分のしもべとしてくださった。私たちは、このキリストにあって、値なしに義と認められ、御怒りに代えて、栄光を授かった。

 

どうして、キリストの死と復活が、私たちに罪と死からの解放と、神様からの義認と、神様からの栄光を与えることになるのか。その答えが、「キリストにあって」である。

 

これまで、この「キリストにあって」という意味について、『LIGHT INTO  LOVE』という本を通して学び、それをブログにまとめてきた。今回は、その最後である。

 

キリストを信じた者は誰でも、キリストと一つにされるのである。キリストとともに死んで、ともによみがえらされ、ともに栄光のうちに現されるのである。

 

この新しいアイデンティティのゆえに、パウロはコロサイの教会に、

「求めよ」、「殺せ」、「着よ」という概念を通して、変化について語った。

 

それでは、「着よ」についてまとめていく。

 

1、着よ

「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」(コロサイ3:12)

「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」

 (3:14)

 

 

1)キリストを着る

私たちは、キリストの衣を着るように言われている。キリストはなんとも「深い慈愛の心」を持っておられた。「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実を持ってさばきを執り行う。」(イザヤ書42:3)

 

これはやがて来られるメシヤ、すなわちイエス様についての旧約の預言である。葦が傷んでいたら、それを折って捨てて、他のものを使うのが当然であり、灯芯がくすぶったら消して他のものを使うのが当然である。しかし、イエス様は、そんな状態の私たちを見捨てることなく、慈しみ、用いて、この地に真実な裁きを確立される。

 

また、なんとも柔和でへりくだった心を持っておられた。「すべて疲れた人、重荷を追っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28-30)

 

エス様は、当時のパリサイ人や律法学者たちによって重い重荷を負わせられて、苦しんでいる人たちに語られた。パリサイ人たちは高ぶって、民衆を見下し、彼らを自分自身の利得のために乱暴に扱っていた。しかし、イエス様は彼らを見放さず、彼らの主となって、ともに歩もうとしてくださった。イエス様は、柔和でへりくだったお方であり、ついてくる者に対して、たましいの休息、平安を約束してくださった。

 

エス様は、人間の理解をはるかに越えて、慈愛に溢れ、親切で、謙遜で柔和で、寛容なお方なのだ。イエス様は「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)であられる。神様は、私たちをキリスト同じ神のかたちに似せて新しく造りかえ続けてくださるのだ。

 

これは「キリストのようになりなさい!」と言い換えることができる。この召しは圧倒的な命令であり、特権である。パウロは、この命令を語るにあたり、「キリストにある」アイデンティティを思い起こさせている。

 

 

 

2)キリストにあるアイデンティティのゆえに

「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として」(3:12)

 

私たちは、神の恵みによって選ばれ(エペソ1:4)、キリストの血による贖いによって聖なる者と宣言され(エペソ1:7)、キリストを与えてくださったほどに神様に愛されている(ヨハネ3:16)。私たちは神様に背き、敵対していた罪人であったのに、神様は私たちを愛された(ローマ5:8)。その後も、私たちは神様に愛されるにふさわしい者となったことは一度たりともないのに、神様は絶えず真実な愛を注いでいてくださっている(ローマ5:5)。愛するひとり子イエス様を愛されたように(ヨハネ17:23)。

 

私たちは、キリストとともに死に、ともによみがえり、ともに栄光のうちに現されるのであるが、それは、神様が私たちを選び、聖なる者とし、愛してくださっているからなのである。

 

 

3)愛をすべての上に着ける

「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」

(コロサイ3:14)

 

結びの帯がなければ、衣ははだけて、落ちてしまう。ゆえに、結びの帯は必要なのである。そして、パウロは、愛こそが結びの帯として完全なものだと言った。

 

しかし、私たちは愛ではないものを、結びの帯としてしまうことがよくある。慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容の裏に、強欲や情欲が潜んでいることがある。それは愛のように見えても、実際は偽りや欺瞞の愛であり、そのような結びの帯は不完全であり、簡単に解けてしまう。

 

ところが、キリストの真実な愛の帯ならば、解けることはない。私たちがキリストを着ていることをはっきりと自覚させ、平安を与える(第一ヨハネ3:18-19)。キリストを着て、愛の帯をしっかりと結ぶならば、すべての行動にはキリストが現れるようになる。まさしく、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」(コロサイ3:11)。キリストが赦してくださったように赦し合い(3:13)、キリストの平和が心を支配し(3:15)、キリストのことばが心のうちに豊かに住む(3:16)。すべてを主イエスの名において行う(3:17)。

 

では、愛とは何なのか。キリストはわたしたちに愛を教えてくださった。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

(第一ヨハネ3:16)

 

この記事の最初に、ポルノや自慰行為に耽ることは神様への愛を犠牲にしていることだと書いた。そして、神様との関係がすべての人間性や人間関係に影響を与えることを説明した。

 

第一ヨハネには、このような構図が示されている。神は人を愛された→人は神を愛するべき→神を愛する者は神の命令を守る→神の命令とはキリストを信じて、互いに愛し合うことなので、互いに愛し合いましょう

 

つまり、神を愛する者はお互いを愛するのである。もし、教会の兄弟姉妹を愛せないで悩んでいるならば、私たちは神様との関係を省みなくてはならない。そして、こんな罪人に対して、神様が与えてくださった犠牲と愛に目を向け、罪を心から悲しみ、悔い改めて、神様を愛する者へと再び立ち帰らさせていただくのである。そうすることでは、私たちは兄弟を愛する者と変えられる。

 

キリストは私たちのためにいのちを捨ててくださったのだ。それが愛なのだ。私たちは、自分のいのち(この世のあらゆる欲望、富、快楽、名声、自分の利益)を握り締めながら、キリストのように人を愛することはあり得ない

 

私たちは、愛するために、相手のために自分のいのちを捨てなければらない。いのちを捨てることが愛である。捨てることを惜しんで、他のもので補おうとする行為は、すべて偽りの愛である。

 

ああ、私はなんて愛がないのだろう。「愛」と言いながら、自分のいのちを固く握り締めていたではないか。誰が何と言おうと私は偽善者であった。友人を助けた。友人に時間を割いた。けれども、それらは自分の利益のためだった。どうか神様、愛を教えてください。そして、愛を行わせてください。愛することは、重荷とはならず、いのちと平安(すべての人間が渇き求めているもの)を私たちに与えてくださるのですから。

(マタイ11:28-、第一ヨハネ2:10、3:19、5:3)

 

 

 

4)感謝せよ

「感謝の心を持つ人になりなさい」(3:15)

「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい」(3:16)

「ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、」(3:17)

 

感謝は現実逃避でもなく、何もないところに無理やり作る感情でもない。むしろ、現実の本質を理解した者にとって、感謝は必然である。光が照らし、私たちは見える者とされた。神に感謝をしなかった盲目な私たちが。

 

「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。......そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。」(ローマ1:21、24)

 

「彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行なっているのです。」(1:28)

 

汚れた欲望、無価値な思いは、神を神としてあがめず、感謝もしない暗い心の中に生じる。あれが必要だ→欲しい→手に入れた→握り締めた→自分で手放せない→奴隷、という抑え難い欲望のサイクルを(自分では抑えることはできない)、「感謝」は止めることができる。

 

神様を認めて、神様を神様としてあがめて、神様に感謝をするとき、私たちは汚れた欲望や無価値な思いに引き渡されることなく、神様からのすべての良い賜物を楽しむことができる。そのとき、造り主であり、祝福に満ちた唯一の主権者であり、すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神様ご自身が栄光を受けられる(第一テモテ6:16-17)。被造物はさらに恵みを受け、神の栄光を喜び楽しむ。そしてさらに、神が栄光を受けられる。神様の栄光が周囲に示されていく。

 

これが「変化」である。