Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

行動や生活を決めるのは心である。

「教会の人たちは、礼拝でみことばを聞いても、礼拝が終わったら、教会の外にいる人たちと全く変わらない生活をしている。これでいいのだろうか?こんなものなのだろうか?」

 

先日、ある方が上に書いたような正直な思いを分かち合ってくださった。

 

「クリスチャンの生活が、クリスチャンでない人たちの生活と何も変わらない」とこの方は実感しておられた。私も同感であった。おそらく、多くの人たちも同意するだろう。

 

このままでいいのだろうか?

神様は聖書のことばを通して、そんな私たちに何を語ってくださっているのだろうか。

 

 

1、神の民イスラエル

1)約束の地を占領しようとしているとき

神の民イスラエルは、約束の地を占領しているとき、王がいなかった。王がいないために、民はそれぞれ自分の目に良いと見えることを行なっていた、と士師記に何度も書かれている。彼らは、神が与えた律法に従わず、周りの国々と全く同じように歩んでしまっていた。

 

2)約束の地を占領したとき

イスラエルは、王を求めた。神様を王として認めず、周りの国々ような王を求めたのだ。その王は、神を恐れて、律法に従う王ではなかった。神様は、彼らの願いに答えて、彼らが望むような王を与えた。それは、サウロであった。美男子で体格がよく、まさに「王」にふさわしい姿であった。

 

しかし、サウロ王は高慢になり、神の律法に従うことに失敗してしまった。それゆえ、神様はサウロ王を殺し、神様の御心にかなう新たな王を与えられた。それが、ダビデだった。ダビデは、完全に律法に従うことができた王ではなかった。晩年には、姦淫の罪や、殺人の罪を犯した。また、神様に信頼せずに、自分の知恵と軍事力に頼ってしまうこともあった。しかし、ダビデ王は、罪を指摘されたとき、心を砕かれて、神様に心から悔い改めた。そのようなダビデを、神様は主のみこころにかなった王として祝福した。民も律法に従い、神を礼拝し、ともに祝福を受けた。

 

ところが、ダビデの王位を継承したソロモン王は、異邦人の女たちを迎え入れ、彼女たちにより偶像礼拝に陥り、律法に背いてしまった。ソロモン王の後、王国は分裂し、北イスラエルと南ユダに分かれてしまった。両国の王たちは、ダビデのように神様の心と一つになっていなかった。王たちは、偶像礼拝を行い、律法に従わず、民たちを正しく治めなかった。その結果、民たちも偶像礼拝を行い、罪を犯し、イスラエルは周りの異邦人たちと何も変わらない生活をするようになった。いや、むしろ、周りの国々の中でも見られないほどの悪を行なったのだ。

 

神様は、律法の契約に従い、また預言者たちを通して警告した通りに、彼らを呪われた。北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、次に南ユダはバビロンの捕囚とされてしまった。

 

3)捕囚帰還後のイスラエル

神様はアブラハム、イサク、ヤコブ、すなわちイスラエルの父祖たちと結ばれた契約にどこまでも誠実なお方である。また、ダビデと結ばれた契約も決して破ることはなさらない。神様はこれらの契約に基づいて、ご自分の民イスラエルを滅ぼし尽くすことはなさらなかった。そして、彼らを救い出し、再び約束の土地に住まわせてくださった。

 

約束の地に帰還した民たちは、神殿と城壁の再建を行った。また、律法も民全体に教えられ、民全体は悔い改め、民全体は再び律法の全てを守り行うことを神様の前に誓った。祭司も立てられ、祭儀も律法に従って行われるようになり、神様が臨在される神殿と礼拝を中心に、イスラエルは神の民として再び栄えていくはずであった。

 

ところが、祭司が異国の女性たちを迎え入れ、祭司の職務は守られず、礼拝は形骸化していった。周りの国々のように、呪術が行われ、姦淫があり、偽りがあり、不正があり、虐げがあり、貧しい者たち、特にやもめや孤児が苦しめられ、寄留者たちものけもにされていた。このように民の心は再び神様から離れていき、律神からも完全に離れてしまった。

 

旧約聖書は、このようなイスラエルの状態を記したマラキ書という預言書によって、閉じられている。旧約聖書が見せているものは、神の民イスラエルが、いつでも、いつになっても、神の民ではない異邦人たちと全く同じような生活に戻ってしまう姿である。

 

 

ならば、新約聖書の時代の神の民であるクリスチャンたちも、旧約時代の神の民と同様に、異邦人たちと全く同じ生活をしてしまうのはしょうがないことなのだろうか。

 

それは違う!なぜなら、神様はご自分の御名が聖であることを示すために、神様ご自身が大いなるみわざを成し遂げられたからである。神様は、イエス・キリストを通して、私たちを贖い、イエス・キリストにあって私たちを聖なる者としてきよめることにより、私たちをのうちで、つまり教会において、ご自身の栄光を現されるからである!

 

神様は、私たちクリスチャンを、クリスチャンでない人たちと全く異なった存在とされ、全く異なった生活をさせる。それは、私たちのためではなく、イスラエルが汚してしまった、神様の聖なる御名のためである!

 

エゼキエル36:16~23

次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの家が自分の土地に住んでいたとき、彼らはその生き方と行いによって、その地を汚した。その生き方は、わたしの前では、月のさわりのある女の汚れのようであった。それでわたしは、彼らがその地に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのゆえに、わたしの憤りを彼らに注いだ。わたしは彼らを諸国の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの生き方と行いに従って彼らをさばいた。彼らはどの国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民なのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう言われる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行なった国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る。ー神である主のことばー」

 

ここに書かれていることを簡潔にまとめると以下である。

・神様の名は聖であられる(他のものと全く区別されるお方。それゆえ、唯一あがめられるべきお方)

イスラエルの行いと生き方(不正、暴虐、偶像礼拝など)により聖なる約束の地を汚したことにより、神様の憤りによるさばきを受けたゆえに、神様の名は汚された。

・しかし、神様はイスラエルによって、再びご自身の名が聖であることを国々示されると約束された。

 

ここで出てくる質問はこうである。

イスラエルは罪を犯して地を汚してしまう民なのに、どのようにして、そんな民を用いて神様は聖なる御名を示されるのか?

 

そのためには、民の不従順な行動と生き方が変えられなければならない。民は神様の大いなるみわざを経験しても、神様の大いなる憐れみを何度も経験しても、行動と生き方は変わることがなかった。そうであるならば、彼らの「心」に根本的な変化が必要である。

 

神様は、私たちのそのものを変えられる。

それは、イエス・キリストの福音を通してである。