父なる神様の訓練、キリストの完全な従順、
「あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。そして、
あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れ
ています。
『わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならな
い。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだ
から。』
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓
練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受け
ていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。さらに、私たちには肉
の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それ
なら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。
肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことに従って私たちを訓練しましたが、霊の父
は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるので
す。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるもの
ですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせま
す。」
ヘブル人への手紙12:4-11
私の父は、私を訓練することはなかった。むしろ、母が教育に熱心だった。小学生だった時のある出来事を覚えている。当時、私はピアノを習っていたが、ピアノを弾くのがあまり好きではなかった。そのため、練習はサボりがちであった。母は、私がピアノを弾けるようになってほしいと強く願っていたから、私が練習をしていないと厳しく叱った。私は不満を漏らし、側にいた父に助けを求めた。父は私をかばって、母を非難した。すると、母は怒り、その場から去ってしまった。
この後、母は私に謝ってきて、私がしたいようにすればいいよ、と言ってくれた。そのおかげで、私はピアノをやめることができた。けれども、月日が経つにつれて、ピアノをちゃんと続けておけば良かったなあ、と後悔することが何度もあった。私は、母に従わない反抗的な息子だった。母親が良いと思って教えてくれていることに、従順に従い続けていたなら、そんな後悔はなかっただろう。
一方、父は単身赴任をしていたので、家に帰ってくるのは週末だけだった。しかし、私は週末には友達と遊びに出かけたり、部活をしたりしていたため、父と過ごす時間は短かった。父から勉強やスポーツを教えてもらったことは覚えているが、父から何か道徳的なことを教えられた記憶は殆どない。
私は父親を尊敬している。多くを語ることはないが、私たちの家族のために一生懸命働いてくれている。口下手だが、優しい。そんな父親に感謝している。
けれども、道徳的・精神的な訓練を父から受けることなく、ひたすら甘やかされて育ってきたことが、自分の生活力の乏しさや精神の薄弱さに影響していると思う。
父親を責めるつもりはさらさらない。むしろ、感謝と尊敬を表したい。しかし、今になって、子どもが父からふさわしく訓練を受けることが、子にとってどれほど大切なことなのか痛感している。え
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けれども、母であれ、父であれ、人間の親に完全な人はいない。完全なお方はすべての人間を造られた神様ただお一人である。
「肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことに従って私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」
神様が私の父となって、私を愛して、私を子として訓練してくださる。
神様は訓練を妥協されない。必ず、私をご自分に似た者へと成長させてくださる。
義という平安の実が結ぶのを楽しみにしながら、今日も神様は訓練していてくださる。
霊の父である神様に服従して生きよう。訓練として耐え忍ぼう。
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イエス様は御子であられるのに、様々な苦しみを通して従順を学ばれ、完全な者となられた。イエス様は私たちの弱さに同情し、私を助け出してくださる大祭司となられた。イエス様は信仰の創始者であり完成者となられた。
「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。」
ヘブル人への手紙2:10
「キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。」
5:8-10
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」
12:2-3
私たちが試練を通して父なる神からの訓練を受けているとき、私たちが目を離してはならないのはイエス様である。イエス様は、罪人たちの反抗により、様々な苦難を受けられた。しかし、イエス様はそれらすべてを忍耐し、従順を学ばれ、完全な者となられた。そして、辱めをものともせずに最後は十字架の死にまで従われた。
死んで葬られた3日目に、イエス様は死者の中からよみがえられ、神様の御座の右に着座された。そして、キリストに従うすべての人にとっての永遠の救いの源となられた。つまり、信仰を与え、信仰を完成し、ご自身の栄光に導いてくださる永遠の大祭司となられた。
私たちにはこの完全な大祭司であられるイエス様が天におられるから、約束を信じて殉教していった信仰の証人たちのように、「一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を走り続ける」ことができる!信仰と希望と愛を持って!
父なる神様が、すべての試練を通して、私たちを子どもとして訓練してくださり、苦しみの後には「義という平安の実」を結ばせてくださるのだから、そのことを確信するとき、私たちは「弱った手と衰えた膝をまっすぐにし」、「自分の足のために、まっすぐな道」を作ることができる。それは、足の不自由な私たちが踏み外すことなく、むしろ癒され、まっすぐに歩けるようになるためである!
さあ、進んでいこう。キリストから目を離さないで。父なる神様の訓練として、試練を耐え忍んで。癒されるために、弱った手足をまっすぐにして、まっすぐな道を作って。