Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

スローペース

限りある人生において、本当に優先しなければならないものは何だろうか。

1つのことが終われば、すぐに次のことに取りかかり、息つく暇もないまま忙しく過ご

してしまっている。もはや「木を見て、森を見ず」の状態が当然になっている。

  

忙しさをあえて好む人もいる。その1つの理由は、余計なことを考えなくていいから

だ。

 

自分な好きなことをして、能力を生かして、自由な意思を持って、活き活きと働くこと

ができる仕事を見つけることが出来たら幸せだろう。それで、なおかつ十分なお金を稼

ぐことができて、大切な家族と余暇を存分に楽しむことが出来たら最高だ。

けれど、もうそんな望みも抱かなくなった。会社に行きたくない。また地獄の一週間が

始まった。会社で笑えない。やめたいけど、やめられない。だから、人生にもうそんな

希望は持てない、と思っている人も多いだろう。

 

そんな人生に変革をもたらすことを目的とした数ヶ月感のプログラムを提供している会

社がyoutubeで広告を出していた。実際に人生が変わったという受講者たちの声もウェ

ブサイトに載っている。多くの日本の人たちが、新しい展望と可能性を得て、よりポジ

ティブでクリエイティブな人生を始めることができるかもしれない。

 

けれども、人が本当に必要としている変化はもっと大きなものだと、聖書は教えてくれ

ている。

 

自分を中心に考えるならば、別に変化を必要としていない人もいる。

今の状態がもっと続けばいいと思っている人もいる。

 

けれど、人は、まさにそこに根本的な変化を必要とする。

それは、神を認めることである。偽者の神ではなく、聖書と、人となられた御子によっ

て啓示された真実の神である。

 

神を認めることは、神の存在を肯定することのみではない。

それは、自分中心の生き方から神中心の生き方に変わることであり、

自己礼拝の人生から、神礼拝の人生に変わることである。

 

神が求めているのは、神を愛し、神の命令を守る礼拝者である。

神は、そのために、ご自分の御子を世に遣わし、かつては神から離れていた私たちに、

神ご自身が近づいてくださった。そして、御子の死と復活により、信仰による賜物であ

聖霊によって、神に近づける存在としてくださった。

 

                私たちは、このキリストによって、

           両者(ユダヤ人と異邦人)ともに一つの御霊において、

              父のみもとに近づくことができるのです。

                         エペソ人への手紙2章

 

父(神)のみもとに近づくことができるのは、父が私たちの罪を赦し、子として受け入

れて下さったから。聖霊はその証。もう恐れなくていい。神は愛と恵みを持って、罪人

の私を抱きしめてくださる。だから、いつまでも罪責感にしがみついてはいけない。自

分を汚れた人間だと思い続けなくていい。罪を償おうとしたり、汚れを隠そうとした

り、神や人から逃げたりしなくていい。

 

もう孤児でも奴隷でもなく、神は私たちを養子として受け入れてくださり、「お父さ

ん」と呼んでいいよ、と言ってくださったのだから。しかし、父は、私たちを放任しな

い。「好き勝手していいよ。ぜんぶあなたのものだから。」とは決して言われない。

 

父は私たちをご自分の子として愛しているがゆえに、懲らしめてくださる。それは、私

たちの間違いを教え、正しい道を生きることができるように成長させるため。

 

      肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、

  霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

    すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、

        後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

                               ヘブル人への手紙12章

 

人が本当に優先すべきものは何だろうか。それは、人が”神”を造り出した目的とは逆で

あり、神が人を造られた目的に生きることである。

 

それは、神を礼拝すること。だから、神を礼拝するとき、人の心は喜びに満た

される。その喜びは、他のものが与えることは決してできない。

 

キリストは人間の代表として、神を礼拝して生きられた。そして、十字架の死さえも、

神の御心に従われ、ご自身を神に捧げられた。私たちは、キリストのような礼拝者では

ない。けれど、神はキリストと同じように私たちを見てくださっている。それは、神の

約束と恵みのゆえに、信仰によって、私たちはキリストと一つにされたから。そして、

キリストに似た礼拝者へと、私たちの心を聖霊によって変えてくださる。父が子を懲ら

しめるようにして。

 

 

 

私は、母親と姉がクリスチャンだ。

物心ついたときから、天地を創造された神を信じていた。

しかし、私の人生は自分中心であり、神は人生の附属物にすぎなかった。

 

けれど、神の恵みにより、世界は神を中心にまわっていることを知った。

私の存在は、私のためではなく、神のためにあることを知ったとき、

私のなかですべてのピースが繋がった。

 

                 そういうわけですか、兄弟たち。 

          私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

    あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

               それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 

               この世と調子を合わせてはいけません。

                いや、むしろ、神のみこころは何か、

             すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、

               完全であるのかをわきまえ知るために、

                 心の一新によって自分を変えなさい。

                               ローマ人への手紙12章

 

限りある人生の中で、本当に優先すべきことは何か。

それは、何をするときも神を礼拝すること。

 

人生のすべては、神を礼拝するためにある。自分の存在そのものが、神へのささげもの

である。私は、いつも聖書のことばによって、その真理に立ち帰り、自分の動機・目的

を点検する必要がある。いや、それ以上に新しくされ続ける必要がある。そのために、

神は、真理の導き手、助け手なる聖霊を与えてくださっている。

 

しかし、私は、神を礼拝して生きているのか分からなくなるときがある。

自分が、神への礼拝だと思っていても、実際は自分を礼拝していることが、どれほどあ

るだろうか。私は、いつになっても自己中心と虚栄心によって行動してしまい、自分の

心さえも欺いてしまう罪人だ。

 

だから、ゆっくりと立ち止まる時間が必要だ。最近は、ますます強くそう思わされてい

る。そういう意味で、私はもっとスローペースに人生を歩みたい。

 

人生で最も大切な目的に生きるために。

 

 

ちなみに、

毎週日曜日にもたれる礼拝と、聖餐式は、神の救いをお祝いする祝祭だ。

神の御子の割かれた肉体と、流された血潮によって、私たちはいのちを与えら

れた。週に一度、立ち止まって、キリストのよる救いを思い出しながら、神の御前で休

むとき、続く一週間を神への礼拝のために生きる力を与えられる。

 

神に救われ、神の子とされた私たちは、人生の苦難を共にし、天におられる主に向かっ

て新しい賛美を歌う。キリストが戻ってこられる日を待ち望みつつ。

 

私たちは一人ではなく、キリストにあって一つの家族。神は、私たちのうち誰一人をも

失うことなく、天の御国へと守り導かれる。

 

 

今、この文章を読んで下さっているあなたも、キリストを信じて、神の家族に加えられ

ますようにと、祈りつつ。

 

"Behold The lamb"

聖餐式の際に、よく用いられる賛美。

www.youtube.com