Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

父、子、御霊の真理

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とに対して、神の怒りが天から啓示されているからです。それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た者と代えてしまいました。それゆえ、神は彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

 

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

ローマ人への手紙1章

 

宗教心ってなんだろう。

宗教ってなんだろう。

信仰ってなんだろう。

 

 

それらすべての議論を越えて、イエス・キリストに目を注ぐ。

 

キリストが真理、いのち、道だから。

キリストを通してでなければ、誰も神を知ることはできないから。

 

真理の他に真理はない。

真理の外にあるのは、すべて偽り。

人が行き着く先は、どんな道を辿っても、偶像礼拝。

 

ある新興宗教の講演会に出た。

信者にインタビューをして、語り合った。

教祖が神だと信じ切っていた。

 

その後、違う場所で色々な人たちとの交流があった。

ある仏教徒の人と話した。

彼は、キリスト教徒たちの信仰に触れるなかで、仏教徒としての信仰を深めていく

ことになった。彼は、信仰の力を信じるようになった。

 

宗教に関心を示さない大学生に出会った。

彼はキリスト教にも、他の宗教にも見切りをつけていた。

しかし、彼の質問に丁寧に答えていったとき、彼の目は好奇心に満ちていった。

 

また、もう1人宗教に関心を示さない大学生と話した。

彼の場合は、頑なに宗教を拒否していた。

話をすると、苦難の経験の末に、神なんて存在しないという結論に至ったそうだ。

彼は、神の存在を認めていたことになる。そして、今も、彼はどこかで神を認めて

いる。しかし、彼の神観は聖書のそれとは同じではなかった。彼は、神を知らな

いだけだ。神の真理を知らないのだ。彼と話をし、彼の疑問に答えていくなかで、

彼は、これまで知らなかった新たな神の事実に触れることができた。

 

 

 

これらの経験を通して、私が今気付かされていることは、

人は、自分が信じていることを間違っているとは普通思わない、ということ。

人は、尊敬する人を信頼し、その人のことばを疑いなく信じるようになること。

人は、それが真理であるかどうかより、感情的な基準に重きを置いていること。

人は、神を知っているが、神を認めようとしないこと。あるいは、自分の神を造り

出すこと。

 

そして、私がなすべきことは、真理をまっすぐに解き明かすこと、だということ。

 

 

人の問題は真理を悟らないこと。

イエス・キリストただお一人が、神の真理を解き明かされた。

 

私がすべきことは、自分を述べ伝えることではなく、

イエス・キリストを宣べ伝えていくこと。

 

神が、その人を愛しておられ、その人を神ご自身の子として定めておられるなら

ば、彼は神のことばを聞き分けることができる。神は、必ずご自分の羊を捜し出し

て救われる御方だ。

 

問題は、真理を語らないこと。

真理の柱、また土台である教会が真理を失っていくこと。

 

私たちは、真理にとどまり、真理に生き続けなくてはならない。

もし真理を失えば、塩気を失った塩のように、何の役にも立たない者となってしま

う。

 

しかし、私たちには、キリストから受けた注ぎの油が私たちのうちにとどまってい

る。それは、真理の御霊である。私たちはすでに世に勝利している。

 

御霊が私たちにすべての真理を教え、キリストのうちにとどまらせてくださる。

 

 

偶像を警戒し、キリストにとどまれ。

キリストを世の果てまで宣べ伝えよ。

恐れるな。雄々しくあれ。

 

私たちのうちには、キリストが住んでおられるから。

 

神によって生まれた者はだれも罪を犯さないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。

ヨハネの手紙第一5章