献身ー信仰と苦しみという二つの賜物ー
献身とは何か、を考えさせられる。
前の記事で、「教会は神に献身する者たちのコミュニティ」だと書いた。そうであるな
らば、献身していない者たちの集いが教会だと言えるのだろうか?
聖書には「ふさわしく」という言葉が何度も登場する。例えば、パウロは手紙の中で、
「召しにふさわしく歩みなさい」、「福音にふさわしく生活しなさい」と勧めている。
これらの勧めの中に、「召される」ことと、「召された者としてふさわしく生きる」こ
との間に隔たりが存在してしまうことを感じ取ることができる。つまり、召された者
が、召しにふさわしくなく生きることがあり得るのだ。
どうしてそのようなことが起こるのだろうか。パウロは「召しのもたらす望みがどのよ
うなものか・・・知ることができるように」と教会のために祈っていた。彼は、神の召
しのもたらす望みの性質そのものが、教会が召しにふさわしく生きる力と動機を与える
ことに期待していたのだと思う。
イエス・キリストご自身がこう言われた。「誰でもわたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。」「自分の十字架を担って、わたしに従わない者はわたしに相応しくない。」
聖書が書かれた当時、十字架は極刑の一つでした。十字架刑の囚人は、刑場まで自分で
十字架を背負って運ばなくてはならなかった。それは、辱めに満ちた仕打ちだった。
私たちが「自分の十字架を担う」とは、主イエス・キリストを信じる信仰ゆえの、辱め
や苦痛を担うことだ。
世は真の神を受け入れず、神が救い主として遣わされた御子イエス・キリストをも受け
入れることができない。よって、世はキリストを憎み、迫害した。同じように今日で
も、世はキリストに従う者を迫害する。
私たちは、この真実を受け入れなくてはならない。
パウロも言った。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでな
く、キリストのための苦しみをも賜ったのです」(ピリピ)
「信仰のみ」はあり得ない。「苦しみのみ」もあり得ない。私たちは世にあって召され
たときから、「信仰と苦しみ」の両方を、キリストのために賜ったのである。
つまり献身とは、神の憐れみに対する応答であり、キリストのために、「信仰と苦しみ」の両方を賜りながら、神に喜んでいただくために、自分自身を献げることである。
異邦人の間で、私たちは「苦しみ」を担って生きていく。