本当は私自身が分かっていないこと。それは、「キリストにある」の意味。
変わりなさいと勧めても、人は変わらない。礼拝での説教の奉仕をするようになってから、しばらく経って、ようやくこの事実を認識するようになった。けれども、さらに重要なことを認識するようになった。それは、わたし自身が変わっていないということだ。
先日、「キリストにあって」喜ぶとはどういうことなの?と聞かれて、答えられなかった。私は、「キリストにあって」の意味が分からなかったからだ。キリストを宣べ伝える務めを受け、それを行いながら、キリストを分かっていなかったとは大問題である。私は一体、何を語って来たのだろうか。
しかし、この気づきをきっかけに、私の心の渇き、誘惑に対する弱さ、敗北、失望、無感情、怒り、無慈悲、怠惰、、、すべての原因は、キリストを知らないことにあることを知った。これは、希望である。なぜなら、「私はキリストを知っている」と思い続けていたのであれば、私はキリストを見限り(なんという愚かなこと。しかし、いつもしてしまう)、これらの問題をキリスト以外によって解決しようとしたことだろう。ところが、神はキリストへと再び目を向けさせてくださった。神は真実である。
「キリストにある」。この意味を正しく理解したい。しなければ未来はない。
私にとっても、教会にとっても。
『LOVE INTO LIGHT, THE GOSPEL, THE HOMOSEXUAL AND THE CHURCH』(Peter Hubbard) という本を参考にして、「キリストにある」の意味を学びつつ、ここにまとめる。
ここでは、「変化」ということを軸に見ていく。
変わらない時と、変わることができるとき。
コロサイ人への手紙を中心として。
1、変化できない場合
パウロはコロサイの教会に書き送った。
「これらの定め(人間の戒めや教えによる定め)は、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」(コロサイ2:23)
この教会には、偽りの教えが入り込んでいた。
「あの空しいだましごとの哲学によって、誰かの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。」(2:8)
コロサイのクリスチャンたちは、イエス・キリストを完全に否定していたのではなかった。ところが、お鍋のように、「人間の言い伝え」、「この世のもろもろの霊」による「だましごとの哲学(それが何かは明確には書かれていない)」をイエス・キリストと混ぜ合わせてしまっていた。そこには、「人間の好き勝手な礼拝(御使い礼拝)、自己卑下、肉体の苦行」などが伴っていた。
その鍋料理のような歩みの結果は、知恵あるように見えても、実際は「何の価値もなく、肉を満足させるだけ」であった。
このように、人間の作り出す宗教は、「癒し」を約束するが、実際は無意味なのだ。
キリストへの信仰+アルファも、純粋な信仰ではなく、人間の作り出す自己救
済の宗教と同じである。真実な教えは、キリスト100%なのである。
今日も、私たちは、キリストと他の何かを混ぜ合わせた「無意味」な宗教に陥ってしまう。実際、私は自覚していなくても、キリストを分からないまま、突っ走っていたのだから、真実から外れていたのだ。
パウロが次のようにコロサイの教会に求めたことは、私にも当然当てはまる。そして、当然今日のすべての教会にも。
「あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。......キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(2:6-7、9)
キリストのうちにこそ、である。
2、変化できる場合
パウロはこのように書き送った。
「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」(3:1-4)
パウロは、単純に、「天国のことをいつも思っていれば、この世での罪のことは気にならなくなる」と言っているのではない。ここで言っていることは、「今、イエス・キリストが私たちを造りかえる」という変化についてである。そのための行動を3つの言葉に要約することができる。
求める、殺す、着る、である。
1)求める
「上にあるものを求めなさい(3:1)」、「上にあるものを思いなさい(3:2)」
求めることは、心に関わることである。これらの動詞は現在形であるため、今実行し続けるものであることが強調されている。人間が作り出した自己救済の宗教からキリストのみに信仰を置くとき、私たちのアイデンティティと指向も自分自身(あるいは罪)からキリストへと変えられる。
また、ここでは天国のアイデンティティを獲得することを「求めよ」と言っているのではなく、私たちの考えや指向をキリストにある本当のアイデンティティと一致させることを「求めよ」と言っている。なぜなら、恵みにより、キリストにあって、私たちはすでに神の子どもとされているからである。
しかし、キリストにある新しいアイデンティティは、過去に経験した傷を一瞬で消し去るものではない。また、今葛藤している心の性質や傾向を一瞬で正すものでもない。しかし、これらの経験や性質を全く違うレンズを通して見ることができるようにする。
言い換えるなら、私たちは、過去、現在、未来をキリストにある神の子どもとしてのアイデンティティを通して見るようにされた。
①キリストは私たちの過去
パウロは言った。「あなたがたはすでに(キリストとともに)死んで」、「あなたがたはキリストとともによみがえらされた」。この事実に対して、私たちは何もしていない。また、この事実を私たちは変えることはできない。イエス様が死んで、よみがられたとき、イエス様を信じた私たちもともに死に、ともによみがえったのだ。
キリストとともに死んだという意味は、罪は私たちの人生をもはや支配できない、ということだ!この世に対してキリストが死んだならば、世もキリストに対して死んだのだ。世は何の力もキリストに対して及ぼせないのだ。キリストとともに死んだ私たちも同じなのだ。
「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れた(クリスチャンはこの世の霊から解放されているということ)のなら、どうして、まだこの世に生きているかのように(クリスチャンはこの世に対して死んでいるということ)、『つかむな、味わうな、さわるな』と言った定めに縛られるのですか(もはや縛られることはあり得ない)。」(2:20-21)
②キリストは私たちの今のいのち
「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです」(3:3)
「あなたがたのいのちであるキリスト」(3:4)
キリストにうちにあるクリスチャンたちは、もはや「いのちを得る」ための努力は必要はない。なぜなら、私たちは「まことのいのち」をすでに得ているからである。しかし、このいのちは今は目に見えるものではない。人からの称賛、受容、成功、宗教的な儀式、自己卑下、苦行などによって得ようとするものはいのちではなく、「無意味」な「肉の満足」である。まことのいのちは、天に上られたキリストご自身である。キリストを信じた者は、キリストとともに死に、キリストとともによみがえらされたのだ。今、私たちはキリストのいのちにあずかっている。そして、そのいのちは、キリストともに神のうちに隠されているため、誰も私たちから奪い去ることはできない!
イエス様は仰せられた。
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしの福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばとを恥じるなら、人の子(キリスト)も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」(マルコ8:34-38)
終わりの日に、イエス様は父なる神様の栄光を帯びて、世に戻ってこられる。そのとき、イエス様はすべての者をさばかれる。この姦淫と罪の時代にあって、キリストを信じる者はいのちを救い、キリストを恥じる者はいのちを失う。人はこのいのちを失ったら、たとい他のすべてのものを持っていても(莫大な富、幸せな家族、友人関係、名誉、成功など世が与えるものすべて)、それらは何の益にもならない。まだキリストは来ないと思って、私たちがこの世のいのちを貪っているときに、イエス様は来られる。ノアの日のように。そのときに後悔しても遅い。なぜなら、自分のいのちを買い戻すことは決してできないからである(セカンドチャンスと呼ばれるものは聖書には認められない)。
しかし、キリストにある者は、永遠のいのちであるキリストを持っている。この世のいのちは福音のために捨てたが、永遠に残るいのちを保証されている。
③キリストは私たちの未来
「あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現されます。」(コロサイ3:4)
私たちのアイデンティティは永遠的(過去、現在、未来)にキリストと結び合わされている。よって、キリストが死んで、よみがえり、栄光をお受けになられたのであれば、私たちも栄光を受ける!キリストが栄光を帯びて現れるときに、私たちもキリストとともに栄光のうちに現されるのだ。
しかし、キリストが過去、現在、未来であるということが、私たちの今の考え方や生き方をどのように変えることができるのか。ある人はこう言った。「イエス様が死んで、よみがえられ、再び来られることは知っています。けれども、そのことが私の今の人生にどう変化をもたらすかが分からないのです。」
この質問に答えるにあたり、まず大切なことは、キリストにあるアイデンティティと、私たちの行動がどのように関連しているかを理解することだ。私たちの文化は、アイデンティティを行動によって定義する。例えば、「あなたは会社に勤めているから、サラリーマン」、「あなたは同性愛的行動と傾向を持っているから、あなたはゲイ」、「あなたはいつも人に迷惑をかけるから、ダメな人間」などである。
しかし、パウロはコロサイ3章で、この順序を逆にしている!「あなたのキリストにあるアイデンティティが、あなたを造りかえ、あなたの行動を生み出す」と。パウロは、犯した罪や、葛藤している欲望を見て、自分自身を定義するのではなく、むしろイエス様を見て、自分自身を定義するようにと言った!「(キリストともに死んで、)キリストとともによみがえらされたのなら」(3:1)
私たちはキリストにあって、罪の圧制から解放された!新しいいのちを受け取った!やがて栄光のうちに現される!だから、今、上にあるものを求めよ!だから、地にあるものを思ってはならない!
イエス様はこの世にあっては誘惑や試練、患難を続けて経験すると約束された。
「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)
しかし、罪や苦難が私たちのアイデンティティを決定づけることはもはや出来ない。なぜなら、キリストはすでに世に勝利されたから!私たちの人生はもう、世によって色付けされるのではなく、キリストにあって色付けられていく!そして、やがてはキリストとともに栄光のうちに現される!だから、どんな苦難があっても、勇気を持てる!
神様は私たちをキリストにある者へと召してくださった!「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(コロサイ3:1)
では、「上にあるもの」とは何か?それは、この地にあるものとは全く異なる。上とは、神がおられ、その右の座にキリストが着いておられるところだ。また、言い換えるならば天であり、キリストが王として治めておられるところだ。では、そこにあるものとは、何か?
・・・ん〜なんだろう?
一つ言えることは、私たちは天を見たことがないから、そこにあるものが何かを完全に知ることは出来ないということだ。しかし、そこから世に来られたキリストが、天の御国はどのようなところかを現してくださった。私たちはキリストのみわざとことばを通して、天を知ることができる。「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です」(ヨハネ3:13)。まさに、キリストご自身が、天の体現であられる。
「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」(2:3)。神様は、キリストにあって、この知恵と知識のすべての宝を私たちにも与えてくださったのだ。私たちは、キリストご自身が持っておられるすべての知恵と知識、すなわち私たちの「いのちであるキリスト」(3:4)を与えると約束してくださり、それだけでなく今求めるようにと召しておられるのだ。
私たちはそれが何かを完全に分からない。けれど、それをだれが完全に持っておられるかを知っている。そして、それを完全に受け取るようにと神が祝福してくださったことも知っている。そして、それを今、求めるように召しておられることも知っている。
私たちは、「変えてください!用いてください!」と神様に祈る。そして、私たちはその答えがどのようなものであるかを思い描く。しかし、私たが必要だと思っているものと、神様が与えようと願っておられるものは違うのだ。神様は、キリストご自身の栄光を私たちに与えられるのだ!それ以下のものを与えることは決してないのだ!
たとえ私たちがそう思わなくても、私たちが最も必要なものはキリストご自身である。それ以外のものはすべて、キリストの代わりにはなり得ない。たとえ「変化」や「成長」と呼ばれるものであっても、キリストご自身を求めていないのであれば、それは偶像礼拝である。
私たちは、「キリストにある(in Christ)」者として、すなわち、キリストとともに死んで、ともによみがえり、ともに栄光にあずかる者として、上にあるもの、すなわちキリストご自身を求めるのだ。
「求める」(思う)は、心に関わることだ。
変化の最初のステップは、心から始まる。
しかし、その心の変化は、キリストにある自分を知ることから始まる。
次のステップである、「殺す」と「着る」については後日まとめる。