Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

フィリピンの人たちと。 May Glak(There is happiness!)

私はフィリピン人の親友がいます。彼はセブ島に住み、社会の汚職やわいろを見て、心を痛めながらも、同僚を愛して、懸命に働いています。

 

彼の母親は出稼ぎのため、外国にいる。家族を何よりも大切にする彼らにとって、母親と一緒にいられない幼少期はどれほど寂しかったでしょうか。成人となって働いている今も、寂しくて悲しくなるときがあるそうです。

 

日本にも出稼ぎに来ている男性や、国際結婚をして日本に住んでいる女性とその子どもたちが多くおられます。

 

彼らが日本で暮らすことは簡単なことでありません。それぞれが様々な苦労や悩みを抱えながら生きておられます。日本で生まれた子どもたちもアイデンティティの葛藤を経験しています。

 

それでも、神は彼らの必要をすべて知っておられ、すべてを満たしてくださっています。どんな困難の中でも、神を信頼し、神を賛美し、神とともに歩んでいく彼らの姿は、喜びと希望で溢れています。

 

フィリピン人の持ち前の明るさがあるのでしょうか。でも、それは人それぞれです。落ち込みやすいフィリピン人だってきっといるでしょう。それでも、日本人の私たちの心の縄を解いてくれる何かを彼らは持っているように思います。

 

タガログ語の賛美です。是非聞いてみてください。英訳を下に載せてあります。

May Galak - YouTube

May galak, may saya

There is Hapiness, there is Fun

May tuwa sa piling ng Diyos

There is Joy in the Presence of the Lord
Sapagkat hirap ng puso ay naglalaho
Therefore the hardship in the heart is vanishing

 

 

May awit, may sayaw

There are songs, there are Dances
At papuri para sa Diyos

And Praise for our Lord

Na hatid ng pusong

From the heart
Pinagpala Nyang lubos
That He has Blessed so much

 

 

Handog Nya ay kapayapaan

He offers Peace

Handog Nya ay kagalakan

 

He offers Joy

Handog Nya ay kalakasan

He offers Strength

Sa bawat pusong napapagal
For every Heart that are Weary


 

Kaya't ang awit ng papuri,

So the Song of praise

Awit ng pasasalamat,

Song of Thanksgiving

At ang awit ng pagsamba

and the song of Worship

Ay para lang sa Kanya
Is only for Him


 

発達障害を抱え、生きづらさを覚え、ひきこもりとなってしまった人達がいました。けれども、尋常ではない情熱と優しさを持った男の人との出会いから、やがてフィリピンへと渡り、そこでの色々な人たちとの生活を通して、その人たちは変えられていきました。

 

ここに、その方々の書いてくださっているブログを載せておきます。同じ悩みを持っている方や、その親御さんに、きっと希望の風が吹いてきます。

 

私はひきこもり経験はありませんが、人として大切なことに気付かされています。感謝です。

smilehousejapan.hatenablog.com

灰の中から out of aches

 

ネパールのバディ族は、カースト制の最下層に位置し、「アンタッチャブル」と言われています。

 

文字通り、触れてはいけません。学校も病院も彼らを受け入れてはいけません。彼らに触れるならば、家に帰って体を洗い清めなくてはなりません。

 

ネパールの全国民の25%は、国際的な貧困ラインを下回っています。その要因に、ヒンドゥー教カースト制が深く関わっています。

 

ヒンドゥー教には、カルマという考え方があります。人は生まれ変わりながら、永遠に死と生を繰り返す、というものです。もし、高い身分に生まれたならば、前世で善い行いをしたと考えられ、低い身分に生まれたならば(女性も含まれる)、前世で悪いことをしたと考えられる。そのようにして、人は出来るだけ良い来世を送るために、善行を心がけます。しかし、最下層のアンタッチャブルに一度入ってしまえば、もう二度とそこから出て来ることはできません。

 

つまり、アンタッチャブルは永遠にアンタッチャブルのまま。

 

バディ族は、生まれながらに定められた貧困の人生を生きのびるために、売春をするしかありません。

 

 

けれど、そのような灰の中から、取り出され、尊厳ある人生を取り戻した女性の話を聞いてきました。

vimeo.com

 

その女性は、2009年に助けられた女性でした。当時は、まだ幼い女の子でした。お母さんからは、男性を喜ばせるダンスを教えられていました。年上の姉が親戚に人身売買されたとき、家族で警察に嘆願しに行ったとき、「バディ族はそのために生まれてきているのだから」と言って取り扱ってくれなかったそうです。

 

また、売春によって妊娠した子が男の子だった場合は中絶をさせられるそうです。女の子だった場合は、「金儲けをする方法」が生まれたとみなされて、お祝いされるそうです。

 

生まれることすら赦されない男の子たちと、生まれたときから売春婦となる運命にある女の子たち。

 

 

 

2人の男がきたとき、彼女もまた女性を買いに来た男が来たのだと思ってそうです。そして、お金持ちそうだから、行って来いと母親から言われました。けれど、その2人の男は、少女を抱きしめて、「もう踊らなくていい」と言いました。

 

 

 

34人の少女たちが、そのとき、救出されました。村から出て、外の世界を見たとき、魔法のように感じたそうです。トイレも初めて見ました。スリッパの履き方も分かりませんでした。下着の着方さえ分からなかったそうです。

 

けれど、初めて安全な場所を見つけました。愛されていると感じれるところ。自分は動物ではなく、他の人たちと同じ人間なんだと気付けるところ。

 

誇りを持って語る彼女の姿は、その部屋で一際輝いていました。自分の価値に確信を持っていました。強くてたくましく、思いやりと情熱に満ちた美しい女性でした。

 

世は混沌としています。しかし、闇は光に打ち勝てませんでした。灰の中にたたずむ女性を、救い出す御手があります。

 

もっと詳しく知りたい方は以下のサイトへ。ホーム – Out of Ashes

主は私の救い The LORD is my salvation

"The Lord is my salvation"

アイルランド人の夫婦が、聖書に書かれていることばを基にして作った賛美です。主は、暗闇に輝く光です。

 

 

         私の負債は支払われた。

            勝利を勝ち取った。

              主は救い。

 

www.youtube.com

 

歌詞

The grace of God has reached for me

神の恵みが私に届いた

And pulled me from the raging sea

そして荒れる海から私を引き上げた

And I am safe on this solid ground 

そして私は堅い地面の上で安らいでいる

The LORD is my salvation

 主は私の救い

 

I will not fear when darkness falls 

闇が来ても、私は恐れない

His strength will help me scale these walls

彼の力は私にこれらの壁を登らせる

I'll see the dawn of the rising sun

朝日は上り、夜明けを見る

The LORD is my salvation

 主は私の救い

 

*

Who is like the LORD  Our GOD

だれが、主、私たちの神のようだろうか

Strong to save faithful in LOVE 

愛のうちに真実を守る強い御方

My debt is paid

私の負債は支払われた

and the vivtory won

そして勝利を勝ち取った

The LORD is my salvation

 主は私の救い

 

My hope is hidden in the LORD 

私の望みは主のうちに隠されている

He flow'rs each promise of HIS WORD

彼は彼のことばのすべての約束を花咲かせる

When winte fades I know spring will come

冬が過ぎれば、春が来ると私は知っている

The LORD is my salvation

主は私の救い

 

In times of waiting times of need

必要を待ち望むとき

When I know loss when I am weak

失うとき、弱いとき

I know HIS grace will renew these days

彼の恵みはこれらの日々を新しくすることを知っている

The LORD is my salvation

 主は私の救い

 

*

 

And when I reach final day

そして、終わりの日が訪れるとき

HE will not leave me in the grave

彼は私を墓に置き去りにはしない

But I will rise HE will call me home

むしろ、私はよみがえり、彼は私を家に呼ばれる

The LORD is my salvation

主は私の救い

 

*

 

Glory be to God the Father

父なる神に栄光があるように

Glory be to God the Son 

御子なる神に栄光があるように

Glory be to God the Spirit

聖霊なる神に栄光があるように

The LORD is our salvation

主は私たちの救い

The LORD is our salvation

主は私たちの救い

The LORD is our salvation

 主は私たちの救い

 

日本の先祖崇拝 Japanese ancestor worships

世界の先祖崇拝について研究している方が、日本の先祖崇拝についても知りたいそうなので、私も調べてみました。

 

実家では、先祖崇拝をする習慣はなかったので、私はあまり詳しくありません。

なので、まず頭に思い浮かんだ「沖縄のエイサー」と、「京都の祇園祭」についてネットで簡単に調べてみました。

 

 

1、エイサー

2016年

沖縄うるま市エイサー祭りの映像。

綺麗に編集されていて、とても分かりやすい。

www.youtube.com

www.jtrip.co.jp

 

エイサーは旧盆の最終日(旧暦7月15日)に、戻って来た祖先の霊を送り出す念仏踊りをしたことが発祥とされています。先祖を大切に思う沖縄の人たちにとって大切な行事として各地域の青年会を主体に、本番何ヶ月も前から練習を重ねているそうです。

 

*旧盆とは、旧暦7月13日から15日の三日間、各家にあの世から祖先が帰って来て、子孫や家族と共に過ごすという祖先供養の行事のことです。

 

13日:ウンケー(精霊迎え)の日。祖先をあの世から迎える。

14日:ナカビ。祖先の霊は仏壇のある家で過ごす。

15日:ウークイ(精霊送り)。祖先をあの世に送る。

 

その旧盆に行われる祖先送りの踊りがエイサーです。

 

 

しかし、エイサーと言っても地域毎に様々な種類があります。娯楽行事として行われた所もあれば、祖先供養として特別な扱いを受けてきた所もあります。それが、1950年代に県内各地でエイサーコンクールが行われるようになり、エイサー祭りが各地で行われるようになりました。

 

現在では、学校の運動会やイベントにも取り入れたりされ、芸能としてのエイサーは県外のみならず、海外にまで広がっています。

 

www.jtrip.co.jp

 

 

2. 祇園祭

 

京都市、八坂神社の祭りで、7月の1日から一ヶ月間続きます。千年以上の歴史があります。

www.youtube.com

 

平安時代、869年、京都で疫病が流行した時、それは怨霊の祟りであるという信仰のもと、怨霊の怒りを神に鎮めてもらうために、神泉苑にスサノヲノミコトなどの神を迎えた神輿3基と66本の矛を立てて御霊会を行ったことが始まりです。

 

*スサノヲノミコトは、日本神話において、天照大神の弟とされている神です。

*当時は、災いや疫病は不慮の死を遂げた人の魂が怨霊になると考えられていました。

 

室町時代になると、商工業者が自治組織をつくるようになり、各町ごとに山鉾を作って、街中を巡回するようになりました。

 

 

 現在では、祇園祭は、単に神社や氏子たちだけのものではなく、京都市全体の祭りとして行われています。

 

1000年以上の伝統を誇る祇園祭は、再三中断、再興を繰り返しながら、京都の歴史とともに歩んできました。

 

 

*さらに詳しく知りたい方は、以下のサイトに分かりやすくまとめられているので、ご覧になられたら良いかと思います。

ii-nippon.net

 

祇園祭とは | 祇園祭2017 GION-MATSURI by京都で遊ぼう

 

祇園祭 祇園祭について | 京都市観光協会

 

 

3. 神道による死後の世界

 

神道では、人間は死後、魂は死後の世界に行き、そこで神となって子孫を見守るという考え方をしているそうです。

 

そして、現世の子孫が熱心に祀ることで先祖は死後の世界で楽しく暮らすことが出来、また神としての力を増し、現世の子孫をさらに護ることになります。これは、日本の仏式の先祖供養と同じ考え方です。

 

日本人の思想は、「不幸な死に方をした御霊は通常より手厚く祀らなくてはならない」というものです。これは、そのような御霊が祀られないと怨霊となって現世に災いを及ぼすという信仰と、あの世では幸せに暮らしてほしいという人間の素直な気持ちの表れでもあります。

 

特に、靖国神社には、明治維新の殉教者と明治以降に戦死した御霊が祀られていて(その数は約246万6千柱です)、戦没者については、より手厚い祀りが必要だと考えられています。そのため、亡くなられた方を「追悼」し、国のために健闘したことを「顕彰」し、御霊が安らかに鎮まるように「慰霊」をしなくてはなりません。(靖国神社問題を分かりやすく整理してみるから抜粋しました)

 

 

私も、昔は、死んだ人が私とともにいて守ってくれてると考えているときがありました。

 

また、死んだ人が霊となって、人に災いをもたらすのだと考え、夜遅くに終わる塾の帰り道、後ろを振り向かずに、ひたすら走って、家に帰っていた時期もありました。

 

先祖崇拝や日本神話が土台にある某アニメ映画を見るときも、心はその世界観に絶えず魅了され続けました。

 

あらゆるものを通じて、日本の文化・思想・信仰に少しずつ染まってきた結果、すっかり”日本人”の私が出来上がったのだな、と思います。そして、これが偽りだと分かったとしても、私はこれを信じ続けるのではないか、とも思います。

 

 

なぜなら、他に「これだ」と思えるものがない限り、心に最もすっとはまるのはこの世界観だからです。そして、それが真実かどうかはもはやどうでも良いのです。

 

 

        

 

  「みんなでやれば恐くない」

 

"死"という未知の世界から”日本人”みんなで逃げているような気がしたりもします。

 

 

 

虜 TORIKO

何を恐れているのだろう。何を欲しているんだろう。

一体、私は何を失うことを、こんなにも恐れているのか。

 

トリコ 公式サイト 東映アニメーション

 

人間の衝動はきっと愛なんかではない。人を突き動かしているのは恐れだ。

そして、人を恐れで縛り付けるのは、私が欲している”それ”だ。

私の口は上手にごまかすだろう。自分でさえも、気付けない。

 

 

 

けれど、私はいつも何かの虜。人はみな何かに依存しなければ生きていけないのだから。

 

しかし、私は虜となるものによって、日に日に蝕まれていくことを知らない。

 

 

 

 

 

 

私の人生は"それ"を中心に形成されていく。それをいかに守るか、いかに得るか。

だから、それを脅かす者には容赦しない。

 

 

 

親友が敵に変わる。

最愛の妻が敵に変わる。

家族が敵に変わる。

世界が皆敵となる。

 

 

 

 

 

手放した方がいい。でも、それができないことは分かってる。けど、虜のままでいたらだめになってしまう。人は本当は自由なはずだけど、もはやがんじがらめで、解くことは簡単ではない。人は助けが必要なんだ、と思う。

 

 

      世は「グルメ時代」......未知なる味を求めて探求する時代。

        貴重な食材が国際経済すら揺るがすこの時代に......

         未知の食材を探し調達するプロフェッショナルたち「美食屋」たちがいた!

              (トリコあらすじ)

 

「美食屋」のようにチヤホヤされなくていい。

むしろ時代に逆行して、「まずくても食べれれば十分」と言える人の方が本当は必要なんだ。

 

 

正社員じゃなくてもいい。人に見下されたっていい。底辺から初めて見える、本当の人生の豊かさがあることを知ってほしい。

 

 

 

 

 

 

 

人が人の生きる意味を探っていくことの尊さと限界

      人生の価値観を変えることは簡単ではない。

       それは、積み重なった人格のようなものだから。

 

東田さんが語られた上のことばに心が捕らえられた。

 

自閉症の僕が跳びはねる理由

 

本当にそうだよな、って思った。

スッと心に入ってくる言葉を持っている人が正直羨ましい。

 

私は、自分の言葉に確信が持てないでいる。なぜなら、次の瞬間には心が移り変わっていることが多いから。

 

自分の価値観が変わって、世界に光が灯ったような経験がある。

けれど、また闇の中にいつも戻されていく。鉄に出来た錆のように、いくら拭き取っても、時間とともにまた錆びていく。また、無数の価値観に翻弄されて自分が保てなくなっていくのも感じる。

 

考えることを放棄して、漂って来る波に身を任せるのが一番楽なんだろう。けれど、本物の幸せとは逆方向に流されていることを知るのは、いつも遠くに流されていってから。

 

 

人は一日では変わらない。日々の積み重ねがその人を作っていく。

だけど、もはやどこに向かって漕ぎ出せばいいのか分からないでいるのも事実だ。

 

 

ポストモダン。絶対的真理などない時代。すべての価値は相対的に決められていく。一人一人が"人生の価値"を見つけなくてはならない。流されるか、求め続けるか。

 

でも、価値ってなんだろう。そもそも人の人生に価値なんてあるのだろうか。でも、人は価値を見出さないと生きていくことができないことを知っているから、自分の価値を見失っていく社会の中で、多くの人が価値を示してくれているのだろうか。

 

人として生きたい。ただそれだけなのに、それが見えない。 

 

 

 

 

海街diary

あるアメリカ人が最も好きな映画はこれだと言って勧めてくれたのが、これ。

 

海街diary

 

 

色とりどりな人生。あらゆる経験を通して、紡がれていく。

 

しかし、どれだけ美しく咲いた花もやがては散ってしまう。

 

人生は美しく、同時に儚い。

美しく感じるのは、終わりがあるからなのかもしれない。

儚く感じるのは、人生が美しいからなのかもしれない。

 

www.youtube.com

 

      人生の終わりに私は何を残すことができるだろう。

                          What can I remain at the end of my life?