兄の優しさ
私には、10才以上年上の兄がいる。
兄は、父親が単身赴任で忙しく、母親が一人で家族の世話をしてくれていたとき、兄は私の面倒を良くみてくれた。おしめを代え、散歩に連れて行き、お風呂にも入れてくれたらしい。
幼稚園に私を迎えにきたときは、ほかの奥様方から、「あの若いお父さんは誰かしら」と、噂になっていたこともあったそうだ。
幼稚園の卒園式では、当時大好きだったポケモンの絵を色鉛筆で丁寧に描いて、私にプレゼントしてくれた。そのときの嬉しかった気持ちは、今も忘れていない。
私がまだ小さかった頃、小学生だった姉が地域のプロテスタント教会へ行き始めた。地域の子どもたちを招いて、夏祭りをしてくれたのだ。しばらくして、母親も行くようになり、私も連れて行ってもらった。
そして、教会に集い、聖書を学んでいくなかで、私たちはイエス・キリストを信じて洗礼を受けた。
しかし、兄はこのことをよく思っていなかった。
オウム真理教の事件や、新興宗教の色々な事柄がメディアで流れていた。
兄は、宗教を嫌った。宗教は人を洗脳するものだと考えていた。
だから、兄は教会には来なかった。
けれど、兄の心は変わった。
数年前、私が外国に留学していたとき、兄が私を尋ねに来てくれた。
いっしょに観光した。同じ部屋で布団を横に並べて寝た。こんなこと、子どものとき以来だった。
その夜、兄と普段話したことのない色々なことをを話した。私が生まれる前の家族のことや、兄の人生や思いについて語ってくれた。私たちは、心を開いて語り合った。
そして、信仰についてどう思っているか聞いた。
兄は、【おまえが幸せなら、それでいいよ】
と言ってくれた。
兄は、単に私に反対していたわけではなかった。
ただ、私の幸せを考えてくれていた。
先日、その兄が結婚した。
この年になって、兄から注がれて来た愛情に、気付き始めた。
Good Lie いちばん優しい嘘
1983年、スーダン紛争勃発。
村を襲撃され、生き残った子どもたちは、ケニアの難民キャンプ場に逃れた。
それから17年後、難民ビザがおり、彼らはアメリカに渡った。
予告編
紛争では、女性も子どもも容赦なく殺されていく。
もしくは、洗脳されて、子ども兵士とされる。
メインの家族を演じた俳優は、元スーダン難民であり、中には子ども兵士だった人もいる。
難民はみんな同じではない。
それぞれの祖国があり、家族があり、人生があり、トラウマがある。
日本に逃れてきている難民の一人一人にも、それぞれのエピソードが必ずある。
受けた傷の深さ、背負っているものの重さは、私とは比にならない。
生まれた場所によって、こんなにも生活環境が異なるなんて、不条理に思える。
しかし、悪は必ず終わりを迎える日が来る。
そして主を待ち望む者はみな救われる。
映画のワンシーンで、子どもたちが集まって聖書を朗読していた。そこで読まれていた箇所は、旧約聖書のダニエル書という預言書だった。
ダニエルよ。行け。
このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。
多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。
悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。
しかし、思慮深い人々は悟る。
ダニエル書12章
この苦しみは永遠には続かない。
やがて終わりのときがくる。
「思慮深い人々は悟る」。
南スーダンは2011年にスーダン共和国から10州が独立した新しい国。しかし、政府軍と反政府軍による内戦が続き、160万人以上の人々が隣国のウガンダやケニヤに難民として逃れている。一方比較的安全な上ナイル地方への国内避難民は189万人といわれている。そして、国民の43%が食糧不足である。(http://www.jifh.org/news/2017/04/post-489.htmlから引用)
生きる為に必要な食糧に不足している人たちが沢山います。3000円の募金で、2家族の一ヶ月間の生活を支えることができます。私たちの小さな一歩が、南スーダンの大切な人たちの生きる糧となります。
国際飢餓対策機構というNPO団体が支援をしています。ぜひ、ご支援をお願いします。
【南スーダン】深刻な食料不足がつづく(募金受付開始) | 活動報告・お知らせ | ハンガーゼロ | 1分間に17人飢餓で亡くなっている現実を知ろう。
幸福な奴隷
私のある友だちは、人生がうまくいっていない。
彼は、社会の違和感を敏感に感じ取り、生きづらさを覚えている。彼は、周りの人たちが、矛盾している人生に何の疑問もなく生きているように感じていた。そして、それに順応しなければ、この社会で生きていけないことにも気付いていた。
彼は、ワーキングホリデイで海外に行った。自分が変わることを求めて。しかし、彼は変わることが出来なかった。彼は苦しんだ。孤独で、毎日死にたがった。
彼は、毎日詩を書いた。その詩を読ませてもらったことがある。自分の表面的な心が見透かされていくようだった。彼と話しているとき、自分は嘘をつけなかった。すぐに見透かされてしまうから。私は、彼を通して、本当の自分を知る道に導かれるようになった。
以前、ブログで、「日本人は、集団で偽りを信じて、現実から逃げているのだと思う」と書いた。経営学の有名な本を書いたドラッカーは、それを「幸福な奴隷」と説明した。
完全な人間はいないゆえに、人は独裁者にはなれない。けれど、自己を放棄し、思考を停止し、責任転嫁をし、独裁者に従うとき、人は幸福感を感じることができる。けれど、事実は自己の自由を奪われた奴隷である。
しかし、人は責任ある自由人として生きるべきである。不完全さを認めつつも、しかし奴隷になるのではなく、神の前に最善を尽くしていかなければならない......これがドラッカーの主張である。
ところが、大多数の人は独裁者に従う。独裁者は独裁政権のみを指しているのではない。人間が造り出した文化そのものが現実に独裁者となっている。
ある人はこう言った。
『日本の文化において、人は「決断放棄による自己証明の追求」をしている。』
自己規定の仕方は文化によって異なる。人類にとって、人間の永遠の成功と繁栄が大きな神話であるならば、その一部となれるかどうかで、人の存在価値は規定される。日本にも、国家、仕事、世間体、様々な”神”が存在する。
その一部となるため、共同体と個人的成果が用いられる。
共同体への帰属。それは永遠に続く聖なる共同体のように考えられる。しかし、それは決して完全でもなく、永遠でもない仮想現実に過ぎない。
人生の成果。それは自己拡張装置のようである。グローバル経済と、個人市場主義と、ネット社会の発展によって、共同体に属さなくても、人類の成功と繁栄という大きな物語に貢献することができる多様性が生まれている。
しかし、共同体にうまく帰属できず、個人の能力と努力により成果を手にすることもできない場合、人は罪責観と劣等感に苛まれ、他の自己証明の手段を必要とする。そのときは、人は文化以外の、他の”宗教”を必要とする。
「宗教は弱い人がするものだ」と考える人も、自己を放棄し、思考を停止し、幸福な奴隷となっているだけかもしれない。
カルトの常套手段は、自己の放棄による、思考停止と責任転嫁である。人は教祖に簡単になり得る。
このように、日本の文化もカルトも、個人の意志の放棄を要求する。自分がなくなっていく。それは本当の幸せなのか。多くの人は、大人になるにつれ、自分が失われていくように思う。自分が消えていき、世間の色に染まっていくことが、大人になっていくかのような風潮がある。
教会も同じような文化構造を生きてしまうなら、他の民族宗教と何ら違いは見られない。それは、”キリスト教”を神話として、奉仕や礼拝のため懸命になるが、自己を失い、劣等感と罪責観の克服に躍起になっているだけの可能性もある。
私は、クリスチャンとして生きてきたつもりだった。しかし、私は”神”を自己実現と自己証明のために利用しているだけだと気付くようになった。
しかし、神はその偽りからも、私を救い出してくださった。
世が造り出す偽りの物語の中を、自分の存在証明のために生きるという、「幸福の奴隷」から解放され、神の物語の中を、神の栄光のために生きるという、「真理による自由人」として生きる人生へと導いてくださった。
それが、聖書の語る福音である。
キリストの十字架によって、私の罪は赦され、神の養子とされた。もはや罪責感の克服のために生きる必要はなくなった。
キリストの十字架によって、私は神の前に義と認められた。もはや劣等感の克服のために生きる必要はなくなった。
キリストの復活により、聖霊を与えられ、私は新しく生まれ変わった。汚れた良心はきよめられ、真理によって聖め別たれ、神のものとされた。
神の恵みによって、私は神を知った。
存在意義、永遠、すべては神にうちに保証されている。
I'm free!!! とある友は言った。私も、声を大にして、宣言する。
私は自由だ!
主に栄光がいつまでもありますように。
"Amazing Grace(驚くべき恵み)"
羊、吠える
大学生のとき、図書館でMr. childrenの「羊、吠える」を初めて聴いた。
自分の心を代弁しているように感じた。そのときから、音楽の歌詞に興味を持ち始めた。
あまりに多くの期待を、もう自分に寄せていない。
ときどき、誉めてくれる人に出会う、それで十分。
服を来た犬は、鏡の前、何を思うのだろうか。
ここ2、3、日はそんな事考えてる。
狼の血筋じゃないから、いっそ羊の声で吠える。
ばかみたいと笑う君に、気付かないふりしながら。
自分に失望していた。自分は狼ではなく、羊だと思っていた。
自分は取るに足りない敗者のように感じていた。
その頃の気持ちを思い出すと、心が重くなる。
この曲は当時の記憶を少し呼び覚ます。
狼は食い尽くす存在であり、羊は食われる存在。
楽しそうに、幸せそうにしている人々を横目で見ながら、私の足が向かうのはいつも図
書館だった。勉強をするためではなく、押しつぶされそうな心を守るために。
家に帰ってもよかった。けれど、孤独の見えない世界に入れば、私がすることは決まっていた。ポルノを見て、一時的な快楽に現実を忘れることだった。何かに圧迫されている心を解放するためにポルノを見た。それは、私に慰めを与える薬のようだった。しかし、心は荒んでいくことを知っていた。
大学に行っても、何をするでもなく、ただ時間を過ごし、家に帰って、寝る。
私の逃げ場は図書館。もしくは、インターネットのポルノの中。そんな生活が長く続い
た。
ポルノの依存性は強かった。中学校の頃から見始めたポルノは、いつかは自然とやめれるときが来ると信じていたが、実際は依存は強まっていく一方だった。次第に脳は麻痺していき、普通のものじゃ満足出来なくなり、さらに刺激的なものを求めるようになっていった。人間関係がどうでもよくなっていった。勉強などどうでもよくなった。けど卒業単位はちゃんと取得したい。親を悲しませたくはない。結婚はしたい。しかし、それでも、今気持ちよくなれれば、何だっていいという心がすべてを凌駕し、私の人格や人生は崩壊へと進んでいった。
いつ、私はもとに戻れたのか・・・あまり覚えていない。今でも、強い葛藤を覚え、誘惑に負けてしまうことがある。敗北が続いて、自分のすべてが汚れていると感じ、生きる気力さえ失ってしまうことがある。ポルノが与えるのは偽りの慰めであり、私の心、人間関係、社会性すべてを奪い去っていくことを知った。
神は、私を憐れみ、暗闇から救い出してくださった。
本当の慰めが与えられた。ポルノはもう要らない。
神は、この期間を通して、私と出会ってくださった。
心の所在すら分からない
学生の頃、椎名林檎を熱狂的に好きになった。
東京事変の「アダルト(大人)」というアルバムを聞いてから、その格好よいメロディとともに、彼女の独特な声と世界観にたちまち魅了された。
「群青日和」というシングルのPVを見たとき、あまりの可愛さに心は奪われてしまった。それから、CDやライブのDVDも買うようになって、集めるようになった。それだけでなく、彼女の出演した番組や雑誌も見るようになり、彼女の人生の経歴や、彼女がどういった女性なのかも気になり始めた。
彼女のことを考えると心が高鳴った。あれは恋だったのだろうか。それとは、また違うように思う。なぜなら、私は彼女を個人的に知ることは決してなかったからだ。私にとって、彼女は雲の上の存在で、アイドルのようだった。会いに行けるアイドルのように身近な存在ではなく、遠くて高い”神”のようになっていた。
あの時期、私に最も生きる喜びや楽しみを与えてくれたのは、椎名林檎だった。私は、彼女のようになろうともした。彼女の外見、性格、考え方を無意識のうちに真似るようになっていた。彼女のショートヘアー時代の髪型に似せたり、口調や表情を似せてみたりした。自分が彼女ようになっていくことが、彼女に近づくことであり、それが幸せだと思った。それほどに、彼女の存在は私に欠かせないものとなっていた。
今は、彼女の音楽は聴かなくなった。テレビやお店で彼女の音楽が流れてきたときに、恰好いいとは思うが、彼女自身への関心は殆どなくなった。
けれども、椎名林檎の曲をもう一度聞き始めて、そして彼女を見ていくなら、私は彼女をもう一度好きになってしまうのではないか、と思うときがある。彼女の存在が、再び自分のうちで大きくなっていくなら、やがて、昔のように、彼女を必要とする人生になってしまうかもしれない。
でも、もう支配はされたくない。私は自由とされたから。そして、私の存在は、本当の”神”のためにあり、誰もその神の代わりになることはできないから。
だから、もう一度彼女の音楽を聞き始めるなら、
自由な心を持って、彼女と、彼女の曲を好きになりたい。
「心」 東京事変
心という、毎日聞いているものの所在だって、
分からないまま、大人になってしまったんだ。
仮面舞踏会
仮面を被って生きることにあまりにも慣れてしまっていた。
真実の愛がないことを認めたくない。だから、偽りの愛を用いる。
見たくないものを見たくないように、人は認めたくないものを認めたくない。
心に覆いをかぶせて、愛の欠如を隠してしまう。
真実の愛に気付かせてくれる、神の愛。
それは、私たちが普段口にしている愛とは違う。
自分を憎むものを、敵対するものを、蔑むものを、悪口を言うものを、逆らうものを、それでも見捨てないこと。
それでも、相手を赦して、受け入れること。
それでも、相手を信じて、耐え忍ぶこと。
それでも、自分の利益のためではなく、相手の利益を求めること。
それでも、相手のために、自分のいのちを捨てること。
- 愛を知っているものは、神を知っています。
愛のないものに、神は分かりません。
文化
"Moolaade"(母たちの村)
アフリカのある村では、4-9歳の女性に割礼を施す慣習がある。
それを「お浄め」と呼び、村人の通過儀礼となっている。割礼を受けた女性でなければ、子どもを産むことはできないと教えられる。
しかし、割礼により、命を落としてしまう子どもたちもいる。後遺症により、中絶や流産の可能性も高くなってしまう。
この映画は、そのような慣習、儀式によって成り立つ文化で、男尊女卑の社会構造の下、割礼という悪しき慣習に立ち向かい、女性の尊厳と自由を取り戻すために立ち上がった母親たちの姿を描いている。
文化とは、「人間の存在意義を構築する象徴のシステム」だと言われる。
つまり、人間が造り出す聖と俗、善と悪の区別が、主に神話(言い伝え)と儀礼を通して、文化として表現される。そして、文化と世界観は密接に結びついているため、その文化を共有している人々は、無意識のうちに、同じ世界観を共有することになる。
この村では、長老や家父長に従うことが善であり、従わないことは悪だった。
男は女を支配し、女は男の言うことを聞くことが善だった。
割礼を受けた少女は聖で、祝福を受けるべき者であり、割礼を拒んだ少女は俗で、呪われるべき存在だった。
悪霊の呪い、精霊の怒りといった、人を恐怖で支配するための言い伝えがあった。
一夫多妻、家父長制、割礼等の儀式が慣習となり、人の生活を縛り付けていた。
映画の終わりの方に、こんなシーンがあった。
女子割礼を信奉していた母親が、村の呪術師のような者たちのいる場所に、嫌がる娘を無理矢理連れていった。カミソリで強制的に割礼を施された娘は、そのあまりの痛みにより死んでしまった。母親は、娘の死を嘆き悲しんだ。そして、長老たちに立ち向かい、割礼を撲滅する声を上げる者となった。
母親の泣き崩れる姿に、胸が締め付けられる思いだった。
また、こんなシーンもあった。
兄は弟に対して権威をもっていた。ある男性は、兄から脅されて、娘の割礼を拒む妻をむち打ちにして、娘に割礼を受けさせるまで拷問するように命じられた。男性は、その文化の支配する価値観に従って、兄と自分の面目を守るために、涙を流しながら、妻をむち打ち続けた。しかし、後日、その男性は、割礼撲滅のために立ち上がった女性たちに鼓舞され、彼女たちに蔑みのことばを放つ兄に対して、「妻は勇敢だ」と語り、怒る兄に対して、「私にも誇りがある」と言って、妻の側についた。
弟の誇りに、同じ人間として親しみを覚えた。
文化は人を支配する。けれど、人の心は正直であり、文化に抗う心も持っている。
文化がいくら善だと言っても、人は悲しみ、傷つき、疑い、怒る。
文化と心は切り離せない一方で、文化と心は全く等しいものではない。
文化を受け入れる人もいれば、受け入れない人もいる。
益を受ける者と、益を受けない者が存在する。
強者と弱者に分かれる。
文化を分析していくと、結局どの文化も同じ結論に行き着くような気がする。
文化の成り立ちの初めには、人間の持っている善悪、聖俗の基準がある。
その基準を人はどのように造り出すのだろうか。最初の人間に、その答えがあるのでは
ないか。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出し、
地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、
その住まいとの境界とをお定めになりました。
使徒の働き17章
最初に造られた人アダムは、神が食べてはならないと命じておいた「善悪の知識の木」から取って食べてしまった。そのことにより、アダムは神のように善悪を知るようになった。それが人類にとっても、さらに全被造物にとっても不幸の始まりであった。
神である主は仰せられた。
「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。
今、彼が手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
創世記2章
人は神に従い、神の造られた世界を治めるために造られたが、神のように善悪を知るようになることは望まれていなかった。なぜなら、人は神の栄光のためにのみ創造されたからだ。そのためには、人が神に従うことで十分だった。
ところが、人は自分の栄光を求め、神のようになり、善悪を知るようになることを選んでしまった。そのとき、人は死んだ。自分が裸であることを知り、神に見られることを恐れ、神から身を隠す者となってしまったのだ。神も、人が永遠に生きることのないようにされた。
アダムにつながるすべての人間が、死んでしまった。
思いは虚しくなり、無知な心は暗くなり、神の栄光を、滅ぶべき人間や、その他の被造
物へと代えてしまった。
そのため、神は、人をその心の欲望のままに汚れに引き渡し、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになった。
それは、人が神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに造られた物を礼拝し、それに仕えたからだ。
彼らが神を知ろうとしたがらないので、
神は彼らを良くない思いに引き渡され、
そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、
ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、
陰口を言う者、そしる者、大言壮語する者、
悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、
約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
彼らは、そのようなことを行えば、
死罪に当たるという神の定めを知っていながら、
それを行っているだけでなく、
それを行う者に心から同意しているのです。
ローマ人への手紙1章
神はご自分の栄光のために行動される。神の栄光を汚す者に対して、神はそのわざに応じて報いられる御方だ。神に対する人の不遜な態度はすべて、神の栄光を奪い去っている。神は罪を正しくさばかれる正しい御方。人は自分自身の罪のうちを歩み、人生の終わりには、神のさばきに服し、死罪を宣告される。
混沌が、海のようにこの世界を覆っている。本当に悲しくてたまらない。
罪の堕落の影響を受けていない文化は1つも存在しない。
文化は、1人の罪人により始まり、すべての罪人によって継承され続けているものだか
ら。世は文化の集合体であり、世を支配する者は、アダムを惑わし罪を犯させたサタン
である。
しかし、神はこの世界をお見捨てにならなかった。神は、サタンの策略を打ち砕き、人
間に救いを与える約束を下さった。
わたしは、おまえ(サタン)と女(エバ)との間に、
また、おまえの子孫とおんなの子孫との間に、敵意を置く。
彼はおまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
創世記3
神は、一人の御方によって、新しい人類を創造された。第二のアダム、イエス・キリス
トである。アダムが失敗したことを、キリストは完全に成し遂げられた。キリストは、
堕落した世を生きながらも、世と調子を合わせることなく、神の御心に完全に従い通さ
れた。世は世の基準に従って、キリストを拒んだ。なぜなら、キリストが語ったのは神
の真理についてだからである。
光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。
その行いが悪かったからである。
悪いことをする者は光を憎み、
その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
ヨハネ3章
キリストは、彼を憎む者たちの手に捕らえられ、訴えられ、むち打たれ、そして人々の前で十字架にかけられ、恥ずかしめを受けて、死なれた。しかし、キリストは敗北したのではない。キリストは勝利されたのだ。キリストは、神の御心に従い、自らいのちをお捨てになられ、そして、再びいのちを得られたのだ。キリストは、私たちの罪のために身代わりとなって死なれ、そして、その完全な従順のゆえに、神はキリストを死からよみがえらせ、天に上らせ、栄光の冠を授けられた。そして、キリストを従うすべての人々に、とこしえの救いを与える者とされた。
神は、私たちが受けるべき罰を、罪のないキリストに負わせてくださった。私たちが果たせなかった従順をキリストが代わりに全うしてくださった。そのキリストを信じることにより、罪はすべて赦され、義と認められ、神の子とされた。やがて、神のみもとに上げられ、栄光が与えられる。これはすべて、神の恵み。夫が、姦淫する妻をそれでも愛し続けるように、神は私たちのことを愛してくださった。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、
世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
永遠のいのちが、私たちを世の支配から自由にする。永遠のいのちが、たましいに救
いを与え、真理へと導くからだ。無知、虚無、そして死への恐れから、キリストにある
者は解放された。古い自分は死に、聖霊によって、新しく生まれ変わった。私たちは日
毎にキリストの似姿に変えられ、真理は日毎に私を自由にしていく。そして、地上の旅
路の先には、天の王座に着かれたキリストが待って下さっている。そこが、私たちの
永遠の住まい。新しい天と地。神が私たちのうちに住まわれ、昼も夜も私たちを栄光で
照らしてくださる。すべての国々から集められた神の家族とともに、神の祝宴に招か
れ、神の救いと恵みを喜び歌い、賛美を捧げる日。すべての戦いは終わり、勝利の角笛
が鳴り響き、私たちは安息のうちに憩う。古いものは過ぎ去り、すべてのものが新しく
される。
生きていても、死んでいても、主はいつまでも私とともにおられる。
主に栄光が、とこしえにありますように。
彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、
その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。
そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、
太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
なぜなら、御座の正面におられる小羊が、
彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。
また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。
黙示録7章
"The power of the cross"
イエス・キリストの十字架。それが私たちの必要のすべて。
イエスは失敗した。イエスは救い主ではなかった。イエスは単なる預言者の一人だ。イエスはただの人間だ。イエスはよみがえらなかった。イエスはただ死んだだけだ。私がキリストだ。私が救い主だ。私が再臨したキリストだ。など、様々な宗教の指導者たちが言っている。けれど、それらの偽りに耳を傾けないでください。
イエスは、神の御子、キリスト。
キリストは私たちすべてのために死なれ、よみがえられた主。
主の御名だけが永遠に称えられますように。
罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
ローマ8:34