葛藤を越えて
からだとこころが真っ二つに引き裂かれるような感覚になることがある。二つの相反する思いが私を引っ張り合って、私はひきちぎられてしまうのではないかと感じるくらいの葛藤を経験する。
もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。
しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、
あなたがたは生きるのです。
ローマ8
御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよ
うなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊
は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあな
たがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
ガラテヤ5
(しかし)キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、
さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
もし私たちが御霊によって生きるのなら、
御霊に導かれて、進もうではありませんか。
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、
虚栄に走ることのないようにしましょう。
ガラテヤ5
キリストを信じた者は、御霊によって新しく生まれ変わる。
生まれ変わる前は、肉の奴隷だった。しかし、今は、御霊によって神の
子とされた。しかし、肉の欲求は今も残存している。そのため、心には
いつも葛藤がある。肉と御霊の対立が起こっている。
しかし、その戦いに御霊が勝利するとき、私は本当の意味で生きる。
信仰と希望と愛が私の心を包み込む。永遠の神の御手に身をゆだね、主
を待ち望むとき、私は新しく力を得て、鷲のように翼をかって上る。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
私は、この戦いの傍観者ではない。生きるか、死ぬかの選択は私の目の
前に置かれている。御霊によって歩むか、肉の欲望を満足させる
か、選ぶのは私自身である。
けれども、この戦いは私の戦いではなく、主の戦いである。
主が私とともに戦い、必ず勝利を与えられる。
主は、暗闇の奴隷であった私たちを、愛する御子の死によって、救い出し、白髪になっても、ボロボロになっても、どれだけ臭くなっても、その大きな翼で私を覆い、天まで導いてくださる。
父よ。キリストの十字架により示された、あなたの愛を信じます。
そして、あなたの恵みを待ち望みます。
私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。
主のあわれみは尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。
「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。
それゆえ、私は主を待ち望む。
哀歌3
New every morning (新しい朝)
Lord, how I need you
大切になればなるほど、別れは名残惜しくなる。
もう会えなくなるかもしれない。
心が焦っている。
このまま別れてしまってもいいのだろうか。
でも、それ以外にどんな選択肢があるんだろう。
寂しいな。ほんとに。
だから、賛美しよう。
僕らは、主のおられるところで必ずまた会えるのだから。
僕らの罪のために死なれ、よみがえられたイエス様が、私たちを迎え
に来て下さるから。イエス様も僕らをずっと待っているから。
でも、心は苦しい。
胸が詰まる。
Lord I need you.
主よ、いま、あなたが必要です。
私を慰めてください。
涙を流しながら、主を賛美することを教えてください。
なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、
永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。
それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。
ヨハネ6
涙を流しながら、永遠に残るもののために働くことを教えてください。
あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。
ヨハネ6
私の名ではなく、イエス様の名を残すために。
なぜなら、この方の名に永遠のいのちがあるのだから。
Lord, I need You.
兄の優しさ
私には、10才以上年上の兄がいる。
兄は、父親が単身赴任で忙しく、母親が一人で家族の世話をしてくれていたとき、兄は私の面倒を良くみてくれた。おしめを代え、散歩に連れて行き、お風呂にも入れてくれたらしい。
幼稚園に私を迎えにきたときは、ほかの奥様方から、「あの若いお父さんは誰かしら」と、噂になっていたこともあったそうだ。
幼稚園の卒園式では、当時大好きだったポケモンの絵を色鉛筆で丁寧に描いて、私にプレゼントしてくれた。そのときの嬉しかった気持ちは、今も忘れていない。
私がまだ小さかった頃、小学生だった姉が地域のプロテスタント教会へ行き始めた。地域の子どもたちを招いて、夏祭りをしてくれたのだ。しばらくして、母親も行くようになり、私も連れて行ってもらった。
そして、教会に集い、聖書を学んでいくなかで、私たちはイエス・キリストを信じて洗礼を受けた。
しかし、兄はこのことをよく思っていなかった。
オウム真理教の事件や、新興宗教の色々な事柄がメディアで流れていた。
兄は、宗教を嫌った。宗教は人を洗脳するものだと考えていた。
だから、兄は教会には来なかった。
けれど、兄の心は変わった。
数年前、私が外国に留学していたとき、兄が私を尋ねに来てくれた。
いっしょに観光した。同じ部屋で布団を横に並べて寝た。こんなこと、子どものとき以来だった。
その夜、兄と普段話したことのない色々なことをを話した。私が生まれる前の家族のことや、兄の人生や思いについて語ってくれた。私たちは、心を開いて語り合った。
そして、信仰についてどう思っているか聞いた。
兄は、【おまえが幸せなら、それでいいよ】
と言ってくれた。
兄は、単に私に反対していたわけではなかった。
ただ、私の幸せを考えてくれていた。
先日、その兄が結婚した。
この年になって、兄から注がれて来た愛情に、気付き始めた。
Good Lie いちばん優しい嘘
1983年、スーダン紛争勃発。
村を襲撃され、生き残った子どもたちは、ケニアの難民キャンプ場に逃れた。
それから17年後、難民ビザがおり、彼らはアメリカに渡った。
予告編
紛争では、女性も子どもも容赦なく殺されていく。
もしくは、洗脳されて、子ども兵士とされる。
メインの家族を演じた俳優は、元スーダン難民であり、中には子ども兵士だった人もいる。
難民はみんな同じではない。
それぞれの祖国があり、家族があり、人生があり、トラウマがある。
日本に逃れてきている難民の一人一人にも、それぞれのエピソードが必ずある。
受けた傷の深さ、背負っているものの重さは、私とは比にならない。
生まれた場所によって、こんなにも生活環境が異なるなんて、不条理に思える。
しかし、悪は必ず終わりを迎える日が来る。
そして主を待ち望む者はみな救われる。
映画のワンシーンで、子どもたちが集まって聖書を朗読していた。そこで読まれていた箇所は、旧約聖書のダニエル書という預言書だった。
ダニエルよ。行け。
このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。
多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。
悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。
しかし、思慮深い人々は悟る。
ダニエル書12章
この苦しみは永遠には続かない。
やがて終わりのときがくる。
「思慮深い人々は悟る」。
南スーダンは2011年にスーダン共和国から10州が独立した新しい国。しかし、政府軍と反政府軍による内戦が続き、160万人以上の人々が隣国のウガンダやケニヤに難民として逃れている。一方比較的安全な上ナイル地方への国内避難民は189万人といわれている。そして、国民の43%が食糧不足である。(http://www.jifh.org/news/2017/04/post-489.htmlから引用)
生きる為に必要な食糧に不足している人たちが沢山います。3000円の募金で、2家族の一ヶ月間の生活を支えることができます。私たちの小さな一歩が、南スーダンの大切な人たちの生きる糧となります。
国際飢餓対策機構というNPO団体が支援をしています。ぜひ、ご支援をお願いします。
【南スーダン】深刻な食料不足がつづく(募金受付開始) | 活動報告・お知らせ | ハンガーゼロ | 1分間に17人飢餓で亡くなっている現実を知ろう。
幸福な奴隷
私のある友だちは、人生がうまくいっていない。
彼は、社会の違和感を敏感に感じ取り、生きづらさを覚えている。彼は、周りの人たちが、矛盾している人生に何の疑問もなく生きているように感じていた。そして、それに順応しなければ、この社会で生きていけないことにも気付いていた。
彼は、ワーキングホリデイで海外に行った。自分が変わることを求めて。しかし、彼は変わることが出来なかった。彼は苦しんだ。孤独で、毎日死にたがった。
彼は、毎日詩を書いた。その詩を読ませてもらったことがある。自分の表面的な心が見透かされていくようだった。彼と話しているとき、自分は嘘をつけなかった。すぐに見透かされてしまうから。私は、彼を通して、本当の自分を知る道に導かれるようになった。
以前、ブログで、「日本人は、集団で偽りを信じて、現実から逃げているのだと思う」と書いた。経営学の有名な本を書いたドラッカーは、それを「幸福な奴隷」と説明した。
完全な人間はいないゆえに、人は独裁者にはなれない。けれど、自己を放棄し、思考を停止し、責任転嫁をし、独裁者に従うとき、人は幸福感を感じることができる。けれど、事実は自己の自由を奪われた奴隷である。
しかし、人は責任ある自由人として生きるべきである。不完全さを認めつつも、しかし奴隷になるのではなく、神の前に最善を尽くしていかなければならない......これがドラッカーの主張である。
ところが、大多数の人は独裁者に従う。独裁者は独裁政権のみを指しているのではない。人間が造り出した文化そのものが現実に独裁者となっている。
ある人はこう言った。
『日本の文化において、人は「決断放棄による自己証明の追求」をしている。』
自己規定の仕方は文化によって異なる。人類にとって、人間の永遠の成功と繁栄が大きな神話であるならば、その一部となれるかどうかで、人の存在価値は規定される。日本にも、国家、仕事、世間体、様々な”神”が存在する。
その一部となるため、共同体と個人的成果が用いられる。
共同体への帰属。それは永遠に続く聖なる共同体のように考えられる。しかし、それは決して完全でもなく、永遠でもない仮想現実に過ぎない。
人生の成果。それは自己拡張装置のようである。グローバル経済と、個人市場主義と、ネット社会の発展によって、共同体に属さなくても、人類の成功と繁栄という大きな物語に貢献することができる多様性が生まれている。
しかし、共同体にうまく帰属できず、個人の能力と努力により成果を手にすることもできない場合、人は罪責観と劣等感に苛まれ、他の自己証明の手段を必要とする。そのときは、人は文化以外の、他の”宗教”を必要とする。
「宗教は弱い人がするものだ」と考える人も、自己を放棄し、思考を停止し、幸福な奴隷となっているだけかもしれない。
カルトの常套手段は、自己の放棄による、思考停止と責任転嫁である。人は教祖に簡単になり得る。
このように、日本の文化もカルトも、個人の意志の放棄を要求する。自分がなくなっていく。それは本当の幸せなのか。多くの人は、大人になるにつれ、自分が失われていくように思う。自分が消えていき、世間の色に染まっていくことが、大人になっていくかのような風潮がある。
教会も同じような文化構造を生きてしまうなら、他の民族宗教と何ら違いは見られない。それは、”キリスト教”を神話として、奉仕や礼拝のため懸命になるが、自己を失い、劣等感と罪責観の克服に躍起になっているだけの可能性もある。
私は、クリスチャンとして生きてきたつもりだった。しかし、私は”神”を自己実現と自己証明のために利用しているだけだと気付くようになった。
しかし、神はその偽りからも、私を救い出してくださった。
世が造り出す偽りの物語の中を、自分の存在証明のために生きるという、「幸福の奴隷」から解放され、神の物語の中を、神の栄光のために生きるという、「真理による自由人」として生きる人生へと導いてくださった。
それが、聖書の語る福音である。
キリストの十字架によって、私の罪は赦され、神の養子とされた。もはや罪責感の克服のために生きる必要はなくなった。
キリストの十字架によって、私は神の前に義と認められた。もはや劣等感の克服のために生きる必要はなくなった。
キリストの復活により、聖霊を与えられ、私は新しく生まれ変わった。汚れた良心はきよめられ、真理によって聖め別たれ、神のものとされた。
神の恵みによって、私は神を知った。
存在意義、永遠、すべては神にうちに保証されている。
I'm free!!! とある友は言った。私も、声を大にして、宣言する。
私は自由だ!
主に栄光がいつまでもありますように。
"Amazing Grace(驚くべき恵み)"
羊、吠える
大学生のとき、図書館でMr. childrenの「羊、吠える」を初めて聴いた。
自分の心を代弁しているように感じた。そのときから、音楽の歌詞に興味を持ち始めた。
あまりに多くの期待を、もう自分に寄せていない。
ときどき、誉めてくれる人に出会う、それで十分。
服を来た犬は、鏡の前、何を思うのだろうか。
ここ2、3、日はそんな事考えてる。
狼の血筋じゃないから、いっそ羊の声で吠える。
ばかみたいと笑う君に、気付かないふりしながら。
自分に失望していた。自分は狼ではなく、羊だと思っていた。
自分は取るに足りない敗者のように感じていた。
その頃の気持ちを思い出すと、心が重くなる。
この曲は当時の記憶を少し呼び覚ます。
狼は食い尽くす存在であり、羊は食われる存在。
楽しそうに、幸せそうにしている人々を横目で見ながら、私の足が向かうのはいつも図
書館だった。勉強をするためではなく、押しつぶされそうな心を守るために。
家に帰ってもよかった。けれど、孤独の見えない世界に入れば、私がすることは決まっていた。ポルノを見て、一時的な快楽に現実を忘れることだった。何かに圧迫されている心を解放するためにポルノを見た。それは、私に慰めを与える薬のようだった。しかし、心は荒んでいくことを知っていた。
大学に行っても、何をするでもなく、ただ時間を過ごし、家に帰って、寝る。
私の逃げ場は図書館。もしくは、インターネットのポルノの中。そんな生活が長く続い
た。
ポルノの依存性は強かった。中学校の頃から見始めたポルノは、いつかは自然とやめれるときが来ると信じていたが、実際は依存は強まっていく一方だった。次第に脳は麻痺していき、普通のものじゃ満足出来なくなり、さらに刺激的なものを求めるようになっていった。人間関係がどうでもよくなっていった。勉強などどうでもよくなった。けど卒業単位はちゃんと取得したい。親を悲しませたくはない。結婚はしたい。しかし、それでも、今気持ちよくなれれば、何だっていいという心がすべてを凌駕し、私の人格や人生は崩壊へと進んでいった。
いつ、私はもとに戻れたのか・・・あまり覚えていない。今でも、強い葛藤を覚え、誘惑に負けてしまうことがある。敗北が続いて、自分のすべてが汚れていると感じ、生きる気力さえ失ってしまうことがある。ポルノが与えるのは偽りの慰めであり、私の心、人間関係、社会性すべてを奪い去っていくことを知った。
神は、私を憐れみ、暗闇から救い出してくださった。
本当の慰めが与えられた。ポルノはもう要らない。
神は、この期間を通して、私と出会ってくださった。
心の所在すら分からない
学生の頃、椎名林檎を熱狂的に好きになった。
東京事変の「アダルト(大人)」というアルバムを聞いてから、その格好よいメロディとともに、彼女の独特な声と世界観にたちまち魅了された。
「群青日和」というシングルのPVを見たとき、あまりの可愛さに心は奪われてしまった。それから、CDやライブのDVDも買うようになって、集めるようになった。それだけでなく、彼女の出演した番組や雑誌も見るようになり、彼女の人生の経歴や、彼女がどういった女性なのかも気になり始めた。
彼女のことを考えると心が高鳴った。あれは恋だったのだろうか。それとは、また違うように思う。なぜなら、私は彼女を個人的に知ることは決してなかったからだ。私にとって、彼女は雲の上の存在で、アイドルのようだった。会いに行けるアイドルのように身近な存在ではなく、遠くて高い”神”のようになっていた。
あの時期、私に最も生きる喜びや楽しみを与えてくれたのは、椎名林檎だった。私は、彼女のようになろうともした。彼女の外見、性格、考え方を無意識のうちに真似るようになっていた。彼女のショートヘアー時代の髪型に似せたり、口調や表情を似せてみたりした。自分が彼女ようになっていくことが、彼女に近づくことであり、それが幸せだと思った。それほどに、彼女の存在は私に欠かせないものとなっていた。
今は、彼女の音楽は聴かなくなった。テレビやお店で彼女の音楽が流れてきたときに、恰好いいとは思うが、彼女自身への関心は殆どなくなった。
けれども、椎名林檎の曲をもう一度聞き始めて、そして彼女を見ていくなら、私は彼女をもう一度好きになってしまうのではないか、と思うときがある。彼女の存在が、再び自分のうちで大きくなっていくなら、やがて、昔のように、彼女を必要とする人生になってしまうかもしれない。
でも、もう支配はされたくない。私は自由とされたから。そして、私の存在は、本当の”神”のためにあり、誰もその神の代わりになることはできないから。
だから、もう一度彼女の音楽を聞き始めるなら、
自由な心を持って、彼女と、彼女の曲を好きになりたい。
「心」 東京事変
心という、毎日聞いているものの所在だって、
分からないまま、大人になってしまったんだ。