Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

祭司の使命と失敗

創世記6:11-12(旧約モーセ五書)ーノアの大洪水前

地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。

神が地をご覧になると、見、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。

 

エレミヤ書5:30-31(旧約預言書)ー南ユダ王国バビロン捕囚前

荒廃とおぞましいことが、この地に起こっている。

預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め、わたしの民はそれを愛している。

結局、あなたがたはどうするつもりなのか。

 

マラキ書1:6(旧約預言書)ー捕囚帰還後、神殿再建以降

子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。ー万軍の主は言われるーあなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち......

3:5

わたしは、さばきのためにあなたがたの所に近づく。

わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。ー万軍の主は言われるー

3:114-15

あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。

今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる』と。

 

 

神は、ご自分の栄光を現すために天地を創造され、人を造られた。神は人を「ご自身のかたち」に造られ、この地上に増え、広がり、治めることによって神の栄光を現す使命を与えられた。しかし、最初の人間アダムの失敗によって、罪と死がすべての人間を支配するようになり、人は神に従って「正しく」生きることが出来なくなった。その結果、神様からの使命を果たせなくなってしまった。

 

ノアの時代には、「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた」ため、神はノアとその家族と、神様が命じられた動物たちを除く、すべての肉なるものを地とともに滅ぼされた。その後、神はアダムに与えたのと同じ使命を、ノアとその息子たちに与えられた。人類は再び全地に増え広がっていったが、罪に支配されている人間は神の使命を忠実に行うよりも、自分の栄光を現すことを求めた。

 

神はアブラハムを選び出し、彼に約束を与え、彼を多くの子孫の父とし、イスラエルという神の民族を生み出された。それはイスラエルが、約束の地に永遠に住み、神の律法を忠実に守り行い、神の大いなる祝福を受けて繁栄し、すべての諸国が神の栄光を見て、全地の唯一の王として神をほめたたえるようになるためであった。

 

ところが、イスラエルも失敗してしまった。ノアの時代と同じことが、約束の地でも起こってしまった。栄光に輝く神の御名を全知に告げ知らせるために造られた民が、むしろ御名を蔑み、汚していた。預言者マラキは、特に祭司たちに対して罪を指摘し、悔い改めて神に立ち返るように呼びかけた。祭司とは、先祖代々に渡り、毎日、神殿で神に仕え、いけにえや供え物を捧げることや、民衆に律法を教える務めを、契約によって神から委ねられていた特別な人たちであった。神は祭司についてこう仰せられた。「祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口からみおしえを求める。彼が万軍の主の使いだからだ」。

 

しかし、祭司たちは道から外れ、多くの民をその偽りの教えによってつまずかせ、契約を損なった。彼らは、神に仕えることも、神の戒めを守ることも、悔い改めることも、何の益にもならないと言った。むしろ、神を恐れず、高ぶり、悪を行なって栄えている人たちを羨ましがった。このように、祭司たちは神を全く恐れなくなっていた。民は、このような指導者たちに惑わされ、同じ悪の道を歩んでいた。イスラエルは、神様の名を汚し、神様の栄光を現す使命に失敗した。

 

 

 

 

 

 

バプテスマ

エレミヤ書(旧約預言書)

エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。」(4:14)

 

「実に、わたしの民は鈍く、わたしを知らない。愚かな子らで悟ることがない。悪事を働くことには賢く、善を行うことを知らない。」(4:22)」

 

「彼女(娘シオン、すなわちエレサレム)はあえぎ、手を伸ばして言う。『ああ、私は殺す者たちの前で疲れ果てた。』」(4:31)

 

 

 

テトスへの手紙(新約パウロ書簡)

「私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意と妬みのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。

 

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、

 

神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いを持って、私たちを救ってくださいました。

 

神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。

 

それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ。永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。」(3:3-7

 

 

イスラエルは悪から心をきよめて、悔い改めなかった。なぜなら、預言者を通して語られる神のことばを悟ることができなかったからである。神に背いて、代わりに恋い慕っていた偶像は、実はイスラエルを殺す者たちだった。彼らは、疲れ果てて悲嘆の声を上げることしかできなかった。

 

しかし、神様ご自身が、そのあわれみによって、神の民を罪からきよめてくださった。それは、救い主イエス・キリストを通して、聖霊を私たちの心に豊かに注いでくださることによってであった。

 

エス様は聖霊によって新しく生まれなければ、人はいのちを持つことができないことを教えてくださった。肉(生まれながらの堕落した性質)の思いは死であり、御霊の思いはいのちと平安。これが、アダムの罪によって、全人類に罪が入り、死がすべての人を支配するようになった堕落の現実である。

 

神様は、エレミヤ3:17において、ご自分を「いのちの水の泉」と呼ばれた。イスラエルは「いのちの水の泉」を捨てた。

 

エス様は、ご聖霊を「いのちの水の泉」と説明された。イエス様を信じるすべての者に、ご聖霊を与えると約束してくださった。

 

パウロがテトスの手紙で書いたとおり、神は、イエス様を通して、聖霊を注がれた。その聖霊は、神様ご自身であった。

 

いのちの水の泉を捨て、水のない井戸を掘り起こす愚かな私たちのため、

いのちの水の泉である神様ご自身から、私たちを引き離して殺そうとする悪魔に支配され、偶像を恋い慕ってしまっていた私たちのため、

 

神様ご自身が私たちのうちに住んでくださった。そして、私たちにいのちを与えてくださった。いのちが湧いて来る。神様の恵みによって、いのちが与えられた。

 

 

 

神様は、イエス様の血によって、罪から私たちを清めてくださった。

 

私たちは、それを信じて、罪を悔い改めて、神様に従うことを神様と教会の前で誓った。それがバプテスマ。それは始まり。新しいいのちの始まり。聖霊とともに、新しいいのちに生きる始まり。

 

 

 

 

 

 

神の国

申命記4:5-8

見なさい。私は、私の神、主が私に命じられた通りに掟と定めをあなたがたに教えた。あなた方が入って行き、所有しようとしているその地の真ん中で、その通りに行うためである。

 

これを守り行いなさい。そうすれば、それは諸国の民にあなた方の知恵を悟りを示すことになり、彼らはこれらすべての掟を聞いて、『この偉大な国民は確かに知恵と悟りのある民だ』と言うであろう。

 

まことに、私たちの神、主は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。

 

また、今日私があなた方の前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように正しい掟と定めを持つ偉大な国民が、いったいどこにあるだろうか。  

 

 

 

エレミヤ31:31-34

見よ、その時代が来る〜ー主のことば〜ー。そのとき、わたしはイスラエルの家及びユダの家と、新しい契約を結ぶ。

 

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ったーー主のことば〜ー。

 

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである〜ー主のことば〜ー。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 

彼らはもはや、それぞれ隣人に、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らが皆、身分の低い者から高いものまで、わたしを知るようになるからだーー主のことば〜ー。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。

 

 

 

ルカの福音書17:20-21

パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。

 

「見よ、ここだ」とか、「あそこだ」とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです

 

 

イスラエルの民は神の国を実現することに失敗した。そして、イエス様ご自身が、真の真のイスラエルとして、神の律法に完全に従われ、この地上で神の国を実現された。

 

そして、イエス様の血による新しい契約のゆえに、ユダヤ人と異邦人からなる教会にご聖霊を送ってくださった。もはや石に書かれた文字ではなく、私たちの心に神の律法が書き記された。私たちは、神の律法に従い、神の栄誉を告げ知らせる、神の民とされた。もはや罪に定められることはなく、私たちは神を知り、神を恐れ、神の律法を喜ぶ。

 

私たちが神の国とされた。

 

障がいとは何だろうか

映画「はたらく」を見ました。ある自閉症の男性(しょうへいさん)が、映画の主役として「はたらく」姿を追ったドキュメンタリーでした。

 

監督さんの狙いは、しょうへいさんの姿を通して、”働く”とはどういうことなのかを考えてもらうことにあったように記憶しています。けれども、映画を見させていただいた側からすると、「しょうへいさん」というよりも、監督さんや共演者さんたち、いわゆる「しょうへいさんの周りの人」の姿に目が留まることが多かったです。

 

周りの人たちは健常者の方々で、彼らだけならばスムーズに進むであろう練習も、しょうへいさんとであれば、壁にぶつかっては、立ち止まり、もう一度壁にぶつかっては、立ち止まりの連続でした。

 

その度に、周りの人たちは試行錯誤を繰り返していました。作品中に、彼らの頭には何度も「?」が浮かんでいました。もうお手上げ、となってもおかしくないような場面でも、彼らは諦めることなく、しょうへいさんに真正面から向き合い続けていました。

 

私も、初めのうちは、思うように事が進んでいかない様子を見ているだけで、もどかしく感じたり、「周りの人たち」のやり方や考え方に同調できず、「え、それはどうなの」と思ったりしました。エンタメ映画を見ている時のドキドキ感や興奮とは真逆で、「非凡な日常をただ眺めている」ようなつまらなさと、「私が普段見ている日常のようにも進まない」じれったさや苛立ちを感じていました。

 

けれども、時間の経過とともに、彼らの表情が柔らかくなっていくのも見えました。そして、しょうへいさんとの壁(?や不満、苛立ちなど)が低くなっているようにも思えました。

 

障がいを乗り越えるのは簡単なことではないと思います。障がいを持っている本人も、その周りにいる人たちにとっても。でも、それは決して乗り越えられないものではなく、むしろ乗り越えていくべきものだと思います。でも、繰り返しですが、それは簡単なことではありません。時間や労力のかかることです。疑問や不満との戦いもあると思います。利益の追求が目的で、そのための「速さ、便利さ、効率の良さ」などに価値を置くならば、障がいを持つ人たちと「働く」ことは喜んでできないと思います。

 

しかし、愛が人間にとって最も価値のあるものならば、彼らと「働く」ことは、どれほどの愛の訓練をもたらし、私たちの人生を豊かなものとするでしょうか。

 

そもそも、「障がい者」と「健常者」の2種類の人間が存在するわけではありません。聖書によれば、すべての人間は、神のかたちに造られた尊い存在です。そして、神様の御心は、人が互いを自分自身のように愛し合うことです。

 

障がいを持っている方は可哀想な人ではありません。その方が障がいを持っているのは、その人を通して神様の栄光を現されるためです。

 

罪の世から私たちを救い出し、愛し合える者へと造り変えてくださる唯一のお方、神の御子、私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめ称えられますように。

 

4月1日はイースターでした。イエス様が死者の中からよみがえられたことをお祝いする記念日です。この方を信じる人は誰でも罪を赦されて、新しいいのちに歩むようになります。これが、神様から私たちへの福音です。

 

もし、このブログを読んで下さった方で、イエス様のことをさらに知りたい方がおられましたら、メッセージをください。もしくは、以下のサイトを御覧ください。

デイリーブレッド公式サイト ODBミニストリーズ

 

 

*私はプロテスタント教会に所属するクリスチャンです。聖書を通して、イエス様を私の主であり、救い主であると信じて従っている者です。そして、皆様にも福音を分かち合うことができたら、それに勝る喜びはありません。

 

 

 

山登り

コミック「岳」の一巻を読みました。

 

「山にもっとみんなが上ればいいのに」。

主人公のその気持ちは、一度山に登ったことのある人だけが分かるのかもしれません。

 

私も数年程前に、初めて山登りをしました。初心者のコースでしたが、頂上に登ったときの、透き通った空気は素晴らしかったです。

 

その後、とあるきっかけでルーマニアの山にも登りました。崖をロープで登ったり、下ったりしたことは初めでした。羊飼いと牧羊犬と羊の群れに出会ったり、牛の群れにも遭遇しました。そのとき、知り合いからもらったマウンテンシューズを履いていたのですが、足に合わなくて、すぐに足の皮がはがれてしまって、痛みのために登山をすることが難しくなってしまいました。

 

そのとき、ルーマニアの友だちが、彼の靴と私の靴を交換してくれました。彼は、「慣れているから大丈夫」と言って、私の靴ですいすいと山を登っていきました。本人は何も言いませんでしたが、実は私と同じように足の皮が剥がれたそうです。けれど、彼は私のことを気遣ってくれて、私には何も言ってきませんでした。

 

そのときのことを思い出すたびに、彼の愛の深さを感じます。

 

エターニティ 結婚

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法学者ジョン・ウィッテ・ジュニアによると、

(以前の)「結婚の理想ー相互の愛、生殖、および保護のために造り上げられた永続的な契約的結合ーは、徐々に、配偶者それぞれの満足感のために造り上げられた『一時的なセックスの契約』という、新たな結婚の現実に道を譲っていった」のです。......それまでの文化は、割り当てられた社会的な役割に喜んで従い、忠実に果たすことによって、その義務に意味を見出すよう教えました。しかし啓蒙主義がそれを一変させました。人生の意味とは、自分にとって最も満足できるものを選べる、という個人の自由が実現してはじめて見出されるものだとされました。自己否定を通して、個人の自由をあきらめることを通して、夫婦や家族に対する義務を自分に課すことによって人生の意味を見出すかわりに、感情やセックスにおける自分の満足と自己実現を見出すものとして、結婚が再定義されたのです。

 

......自己実現のための結婚、という新しい概念によって、私たちは、結婚に過剰な期待をよせながらも、常に何か物足りないという立場に身を置くことになりました。......だからこそ多くの人が結婚を躊躇し、あるいは結婚直前まで行きながら、『でも百点とは言えない』相手だというだけで、あきらめてしまうのです。

 

......(しかし、問題なのは、)完璧な相性の『運命の人』を探すことはそもそも不可能なのだ、(という点です)。デューク大学倫理学教授のスタンレー。ハワーワスがこの点をまとめた文章は有名です。『結婚にとって破壊的なのは、自己実現の倫理だ。それは、結婚も家族も、主に自己実現のための制度であり、私たちが「完全」で幸福になるために必要だ、と想定する。そこでは、自分にはふさわしい結婚相手がいるはずで、目を皿のようにして探せば当然見つけられると思い込まれている。この道徳的思い込みは、結婚の決定的な一面を見落としている。私たちは間違った相手と結婚するものだ、という事実を十分理解していないのである。私たちは自分が誰と結婚するか、決して分からない。それなのに自分には分かると思っているだけなのだ。また、最初は正しい相手と結婚したと思っても、どのみち相手は変わるのだ。結婚したことだけでおも、私たちがそれ以前とはもう同じ人間ではない、ということなのだ。肝心なのは、自分が結婚した相手が、実はほとんど見知らぬ相手であって、今後どのように愛し、気遣っていくかを学んでいくことだ。』」

          (引用:『結婚の意味〜分かり合えない二人のために〜

               ティモシー・ケラー、キャシー・ケラー共著』)

 

 

 

映画エターニティには、19世紀末のフランスの上流階級に生きる女性の、三世代にわたるいのちの物語が綴られている。ここに見られる結婚観は、現代の西洋諸国のものとは異なる。実際、私はこの映画を見ながら、「こんな結婚ありえないでしょ」と思ってしまった。あまりにも美化されているように感じた。しかし、そのような反応をすることこそが、私の結婚観の悲惨さを表している。

 

監督は、「人生の永続性」と「夫婦間の愛」を結びつけて、その素晴らしさを映画を通して表現している。親同士が決めた相手と結婚をしたガブリエルは、最初不安であったが、夫のシャルルは、「まだ君を愛していないが、愛は学ぶものであり、君を愛し続けると約束する」と率直に語りかける場面がある。ここに真の男らしさを見る。

 

「男の愛は、神の愛よりも信頼できる」という台詞は、この時代の形骸化したカトリックの背景を物語っている。男との結婚か、神との結婚かという対比が描かれているようにも感じたが、それは神を抜きにした人生讃歌へと至る人間の罪を浮き彫りにしている。

 

神が男と女に人を形づくられ、結婚を創造し、そして秩序を定められた。それがあまりにも素晴らしいゆえに、罪が結婚にもたらした影があまりにも残酷である。

 

しかし、人が、神が定められた秩序から、ますます離れていく傾向にあるのはなぜだろうか。時代の波に流されずに、聖書の真理に堅く立ち、結婚と向き合いたい。

 

 

 

東京事変のドラムの人

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柔らかくて綺麗なドラミング。

 

リズム楽器でありながら、単調でなく、少しも飽きない。

 時を忘れて、聞き入ってしまう。

 

うるさいとも感じない。物足りないとも感じない。

そう、違和感を少しも感じない。

 

そよ風の音や川のせせらぎに耳を澄ましているときのような心地よさ。

 

 椎名林檎さんの声との相性が良いからかな。

他の楽器とのバランスが良いからかも。

 

きっと、よく練習したんだろな。

迷いがなくなるまで。

 

自分の太鼓をよく知ってるんだろな。

名前とかも付けてたりして。

 

「好きこそものの上手なれ」という言葉を思う。