Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

いつまでも残るものを与えてくださる神の恵み

どうして、あなたは答えてくれないのですか?

私は解決を求めているのに。

 

どうして、与えてくれないのですか?

私は慰めを求めているのに。

 

どうして、何も示してくれないのですか?

私は導きを求めているのに。

 

あなたが答えてくれないから、私は他のものに求めます。

あなた以外のものに、解決、慰め、導きを求めます。

だって、私が求めたのに、あなたは与えてくれなかったから。

 

 

 

これは、私がよくしてしまうこと。

けれど、これは間違っている。

 

神様は、私を愛しておられる。だから、私に最善のものを与えようとしておられる。

神様が私に与えようとしておられるのは、神様へのまっすぐな信仰と希望と愛。

なぜなら、世のものはすべて過ぎ去り、いつまでも残るのはこの3つだから。

しかし、私はいずれ無くなってしまうものをむしろ追い求めてしまう。けれど、そんな

愚かさを知りながら、神様はなお私を愛して、いつまでも残る尊いものを与え続けてく

ださっている。御父は、子どもが本当に必要なものが何かをすべて知っておられる。

 

もし、祈りが聞かれないことが、神様の恵みだとしたら。

もし、祈りが聞かれないことが、神様への信仰を与えるための恵みだとしたら。

もし、祈りが聞かれないことが、神様にある希望を与えるための恵みだとしたら。

もし、祈りが聞かれないことが、神様への愛を与えるための恵みだとしたら。

 

神様が与えてくださるものは、私が願うものよりも遥かに尊い

信仰、希望、愛。すべては、永遠なる神様に向かって。

 

 

神が天地を創造した

はじめに、神が天と地を創造した。

 

あの月も、あの太陽も、あの空も、あの雲も、あの海

も、すべて神が造られた。

今日話した人たちも、神が造られた人たち。

この人も、あの人も、みんな「神のかたち」に造られた。

これを書いているぼくも、その一人。

 

神様は人に命じられた。

「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」

 

海の魚

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空の鳥

 

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地の獣(わんこ)

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地を這うもの

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神様は、人にこれらすべての生物を支配するように命じられた。それは、彼らを好き勝

手に扱うことではない。むしろ、神様が造られた良いものとして、大切に世話をするこ

とだった。

 

けれども、人は神様に従わなかった。そして、動物たちを好き勝手に扱うようになっ

た。だから、動物たちは苦しんでいる。

 

私も正しく扱わなかった。飼っていた犬を傷つけてしまったこともあった。私は本当に

悪いことをした。神様は私を怒っていないだろうか。神様の造られた大切な動物を、自

分の悪意で傷つけてしまったのだから、神様に罰せられて当然ではないか。

 

しかし、神様はこんな私を見捨てなかった。神様は私の罪をぜんぶ赦して、新しい人生

を歩み出させてくださった。イエス様が私の罪をすべて背負って、私に新しいいのちを

与えてくださった。

 

 

今、私は神様に立ち返って、神様とともに生きている。

神様の一方的な恵みによって。

 

 

 

二元論的思考の問題

二元論的思考の問題

 

聖書と科学の問題に詳しい牧師さんが教えてくれた。それをもとに、自分自身が陥りやすい二元論的思考について考えてみる。

 

 「聖書」と「自然」は矛盾するものではない。なぜなら、「聖書」も「自然」も、同じ神様に由来するもだからである。矛盾が生じるのは、それぞれの解釈である「神学」と「科学」である。科学が発展し始めた初期には、科学と聖書は完全に重なっていた。

 

ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は、コペルニクスの地動説を正しいと主張したために、宗教裁判でさばかれた。彼自身はカトリック信徒であり、聖書を信じていた。しかし、ローマ・カトリックの聖書解釈(聖書は天動説を教えている、という解釈)と対立したために、異端とされたのだ。よって、この裁判は、聖書と科学の問題ではなく、教会の権威と真理の問題であった。

 

当時の聖職者たちは、自分の神学(聖書解釈)を絶対視してしまっていた。同時に、二元論的思考に陥り、科学を否定する傾向にあった。私はこう思う。科学の発展により、人間にわかることが増えると、当時の聖職者たちは聖書の権威が貶められるように感じたのではないだろうか。それが、聖書を教える自分たちの「権威」をも揺るがす脅威だと感じてしまったのではないか、と。

 

今日、進化論に限らず、心理学や脳科学など様々な分野の科学が発達している。人間の心や脳や体の関係性など、人間に分かることが増えている。このような科学の発展する世の中で、当時の聖職者たちと同じように、二元論的思考に陥り、それらの科学が聖書の権威を否定し、聖書を宣べ伝える私の「権威」をも失墜させるのではないかと恐れている自分がいることに気づかされている。結局は、主イエス・キリストと父なる神様のためではなく、自分自身の立場に固執しているのである。

 

私は、聖書と科学を矛盾するものではなく、両立するものとして捉えながら、神のことばの宣教に励むべきである。その際、最も大切なのは、「自分ではなく、イエス・キリストのため」という愛と信仰による従順である。

 

イエス・キリストの御名のため」に、科学の不確実性や限界を認識しつつも、その発展を感謝を持って受け入れながら、いつまでも変わることのない真理の言葉である聖書の正しい解釈と宣教に励みたい。

 

最後に、肝に命じておきたいことは、「真理が人を自由にする」のであり、科学が人を自由にすることはできない」ということである。罪と死の奴隷である人間を救うのは、福音のことばのみであり、その人がイエス・キリストを主と信じることによるのである。

 

「初めに、神が天と地を創造した。」創世記1:1

 

「神は仰せられた。『さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」創世記1:26

 

「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」

創世記1:31

 

 

 

霊において語り合う

人の会話について。

人は、最も大切なことは話さず、比較的大切でないことばかりを話している。

そのことは前から思っていたのだが、最近さらに感じるのは、誰かが最も大切なことを

話し出そうとすると、他の誰かがそれを回避しようとすることである。結果、人の会話

は、最も大切な部分を避けながら、その周辺をぐるぐると回り続けてしまう。

 

教会の会話でも全く同じことが起こる。同じ人間である以上、当然ではあるが、私たち

は福音により霊的に新しく生まれた者として、人の最も内奥部であり、あるいは、その

人自身である「霊」においてキリストとともに「生きている」のだから、私たちは

「霊」において互いに真実を語り合うべきである。

 

私たちを新しく生んでくださった神は、ご自身が霊であられるため、私たちが霊によっ

て神を礼拝することを望んでおられる。同時に、私たちが霊において互いに語り合うこ

とによって、霊において成長することを望んでおられる。

 

霊において死んでいる状態の人間が、最も大切なことを語り合えない理由は、それを知

らないからである。心の中心部にぽっかり穴が空いているような感覚があり、空しさが

ある。世の知恵や知識を得るほどに、空しさは増す。どれだけ集めても、満たされない

からである。神が教えてくださった「最も大切なこと」、それは「まことのいのち」で

あり、「神と御子を知る」ことである。

 

ところが、クリスチャンは神のあわれみによって、福音を信じたことにより、まことの

いのちが与えられ、神と神子を知っている。それゆえ、周辺部をぐるぐる回らなくても

よい。「「最も大切なこと」である、まことのいのちを語り合うことができるのだ。心

の奥底から、真の意味で「自分自身」において語り合えることは、なんという喜びだろ

うか。

 

しかし、このような特権をいただいているクリスチャンも、相変わらず周辺部をぐるぐる回ってしまうのは、なぜなのだろうか。

 

周辺部をぐるぐる回るとは、つまりこういうことである。聖書の学びをして、賛美をし

て、近況を報告しあって、互いに祈り合っても、霊における会話がないのである。言い

換えるならば、神と御子イエス・キリストについての「情報」を受け取り、自分の身の

回りの状況に当てはめて考えることはしても、自分自身、つまり自分の霊において神と

御子を深く知っていく交わりには至らないのだ。同時に、クリスチャン同士の交わりも

表面的で周辺的な会話で止まってしまう。神との交わりと、クリスチャン同士の交わり

は切っても切り離すことはできない。神は、この交わりについて、使徒ヨハネを通し

て、次のように教えてくださった。

 

「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」

ヨハネの手紙第一1:3b

 

私たちクリスチャンは、霊における神との交わりにおいて、互いに交わるのである。

 

では、どうしてそれができないのか。それを妨げるものが、私たちのうちにあるからで

ある。それは、だ。具体的に言うならば、高ぶりである。高ぶりを考えるときに、人

に対する高ぶりよりも、神に対する高ぶりについて考える必要がある。聖書は、人は自

分で自分を救うことはできないことを明確に教える。人の自由意志は罪によって堕落し

ているため、人はイエス・キリストの恵みによってのみ、罪を赦され、罪からきよめら

れ、正しい者へと造りかえられていく。この恵みは、神とクリスチャン同士の交わりを

通して、霊において神と御子をますます知ることによって、豊かにされていく。

 

しかし、神に対して高ぶるとき、私たちは神と御子との交わりを拒んでいる。その結

果、私たちの霊は成長するのではなく、逆に弱まり、ついには死んでしまう。どんな高

ぶりがあるだろう。「神様はいらない。自分の生きたいように生きる!」、「私はそん

な罪人ではない!だから、神様の恵みも憐れみも必要ない!」、「私は聖くなりたくな

い。私はこのままでいい!」。このように、私たちは神様に対して高ぶってしまう罪人

である。どんなクリスチャンも同じ罪の葛藤を経験している。誰かが強くて、誰かが弱

いということはない。皆が弱くて、皆が罪人なのだ。だから、誰も人をさばいたり、量

ることは決してできない。

 

けれども、私たちの罪よりも大きな神様の愛が私たちを包んでいる。私たちを罪の奴隷

としていたサタンの力を打ち砕き、私たちを解放してくださった神様が私たちの味方で

ある。神様に滅ぼされるべきだった孤児を、神様はキリストの血によって贖い、子ども

としてくださった。私たちは、神に愛され、キリストのうち傷によって癒された。そし

て、魂の牧者であり、監督者である神のもとに帰った。だから、神が私たちを牧してく

ださる。神様が私たちに本当の会話を、本当の交わりを、本当の成長を与えてくださ

る。

 

どうか、主よ、助けてください。私たちが、霊において互いに語り合えるように。霊に

おいて、神と御子をともに知っていくことができるように。霊において、罪深い傷だら

けの心が癒され、成長させられ、救われることを一緒に慕い求めていけるように。

心の平和は、ただイエス様によってのみ与えられるのですから。

救い主、イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」

コロサイ人への手紙3:15-16