Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

まだ見ていないもの

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。......私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。ローマ8章

 

 

主よ、私は何を望みとして生きているのでしょうか。

私の心を探ってください。

そして、虚しいものを追い求めることをやめさせてください。

 

主が私に下さった望みは、まだ目で見ていないものです。

それは、まだ来ていないのです。

だからこそ、私は忍耐を持って、熱心に待ち望めるのです。

 

主が将来現そうとされている栄光は、想像を遥かに超えて余りあるものです。

私たちと被造物はともに、うめきながら、産みの苦しみをしています。

しかし、私たちが贖われ、自由とされ、栄光の中に入れられるときが来ます。

 

それは、私たちの罪のためにほふられてくださった小羊、

イエス・キリストによる和解のゆえです。

 

主よ、私の望みは目で見えているものではなく、まだ見ていないものであることを、

いつも思い出させていてください。

 

主を待ち望みます。

主の栄光を現して下さい。

嘆き

嘆くことは人生の一部。

 

隠さなくて、強がらなくていい。

 

この世界に生きていて、悲しみを感じないなんてあり得ない・

 

だから、嘆くことをためらわないで。

 

嘆くことを奪わないで。

 

嘆く人をさばかないで。

 

むしろ、悲しむ人の隣にそっと寄り添って、

一緒に涙を流してあげて。

 

無理矢理、涙を拭おうとしなくていい。

涙を流し切るまで、待ってあげて。

 

エス様が、必ず涙を拭ってくださるときが来るから。

スローペース

限りある人生において、本当に優先しなければならないものは何だろうか。

1つのことが終われば、すぐに次のことに取りかかり、息つく暇もないまま忙しく過ご

してしまっている。もはや「木を見て、森を見ず」の状態が当然になっている。

  

忙しさをあえて好む人もいる。その1つの理由は、余計なことを考えなくていいから

だ。

 

自分な好きなことをして、能力を生かして、自由な意思を持って、活き活きと働くこと

ができる仕事を見つけることが出来たら幸せだろう。それで、なおかつ十分なお金を稼

ぐことができて、大切な家族と余暇を存分に楽しむことが出来たら最高だ。

けれど、もうそんな望みも抱かなくなった。会社に行きたくない。また地獄の一週間が

始まった。会社で笑えない。やめたいけど、やめられない。だから、人生にもうそんな

希望は持てない、と思っている人も多いだろう。

 

そんな人生に変革をもたらすことを目的とした数ヶ月感のプログラムを提供している会

社がyoutubeで広告を出していた。実際に人生が変わったという受講者たちの声もウェ

ブサイトに載っている。多くの日本の人たちが、新しい展望と可能性を得て、よりポジ

ティブでクリエイティブな人生を始めることができるかもしれない。

 

けれども、人が本当に必要としている変化はもっと大きなものだと、聖書は教えてくれ

ている。

 

自分を中心に考えるならば、別に変化を必要としていない人もいる。

今の状態がもっと続けばいいと思っている人もいる。

 

けれど、人は、まさにそこに根本的な変化を必要とする。

それは、神を認めることである。偽者の神ではなく、聖書と、人となられた御子によっ

て啓示された真実の神である。

 

神を認めることは、神の存在を肯定することのみではない。

それは、自分中心の生き方から神中心の生き方に変わることであり、

自己礼拝の人生から、神礼拝の人生に変わることである。

 

神が求めているのは、神を愛し、神の命令を守る礼拝者である。

神は、そのために、ご自分の御子を世に遣わし、かつては神から離れていた私たちに、

神ご自身が近づいてくださった。そして、御子の死と復活により、信仰による賜物であ

聖霊によって、神に近づける存在としてくださった。

 

                私たちは、このキリストによって、

           両者(ユダヤ人と異邦人)ともに一つの御霊において、

              父のみもとに近づくことができるのです。

                         エペソ人への手紙2章

 

父(神)のみもとに近づくことができるのは、父が私たちの罪を赦し、子として受け入

れて下さったから。聖霊はその証。もう恐れなくていい。神は愛と恵みを持って、罪人

の私を抱きしめてくださる。だから、いつまでも罪責感にしがみついてはいけない。自

分を汚れた人間だと思い続けなくていい。罪を償おうとしたり、汚れを隠そうとした

り、神や人から逃げたりしなくていい。

 

もう孤児でも奴隷でもなく、神は私たちを養子として受け入れてくださり、「お父さ

ん」と呼んでいいよ、と言ってくださったのだから。しかし、父は、私たちを放任しな

い。「好き勝手していいよ。ぜんぶあなたのものだから。」とは決して言われない。

 

父は私たちをご自分の子として愛しているがゆえに、懲らしめてくださる。それは、私

たちの間違いを教え、正しい道を生きることができるように成長させるため。

 

      肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、

  霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

    すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、

        後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

                               ヘブル人への手紙12章

 

人が本当に優先すべきものは何だろうか。それは、人が”神”を造り出した目的とは逆で

あり、神が人を造られた目的に生きることである。

 

それは、神を礼拝すること。だから、神を礼拝するとき、人の心は喜びに満た

される。その喜びは、他のものが与えることは決してできない。

 

キリストは人間の代表として、神を礼拝して生きられた。そして、十字架の死さえも、

神の御心に従われ、ご自身を神に捧げられた。私たちは、キリストのような礼拝者では

ない。けれど、神はキリストと同じように私たちを見てくださっている。それは、神の

約束と恵みのゆえに、信仰によって、私たちはキリストと一つにされたから。そして、

キリストに似た礼拝者へと、私たちの心を聖霊によって変えてくださる。父が子を懲ら

しめるようにして。

 

 

 

私は、母親と姉がクリスチャンだ。

物心ついたときから、天地を創造された神を信じていた。

しかし、私の人生は自分中心であり、神は人生の附属物にすぎなかった。

 

けれど、神の恵みにより、世界は神を中心にまわっていることを知った。

私の存在は、私のためではなく、神のためにあることを知ったとき、

私のなかですべてのピースが繋がった。

 

                 そういうわけですか、兄弟たち。 

          私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

    あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

               それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 

               この世と調子を合わせてはいけません。

                いや、むしろ、神のみこころは何か、

             すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、

               完全であるのかをわきまえ知るために、

                 心の一新によって自分を変えなさい。

                               ローマ人への手紙12章

 

限りある人生の中で、本当に優先すべきことは何か。

それは、何をするときも神を礼拝すること。

 

人生のすべては、神を礼拝するためにある。自分の存在そのものが、神へのささげもの

である。私は、いつも聖書のことばによって、その真理に立ち帰り、自分の動機・目的

を点検する必要がある。いや、それ以上に新しくされ続ける必要がある。そのために、

神は、真理の導き手、助け手なる聖霊を与えてくださっている。

 

しかし、私は、神を礼拝して生きているのか分からなくなるときがある。

自分が、神への礼拝だと思っていても、実際は自分を礼拝していることが、どれほどあ

るだろうか。私は、いつになっても自己中心と虚栄心によって行動してしまい、自分の

心さえも欺いてしまう罪人だ。

 

だから、ゆっくりと立ち止まる時間が必要だ。最近は、ますます強くそう思わされてい

る。そういう意味で、私はもっとスローペースに人生を歩みたい。

 

人生で最も大切な目的に生きるために。

 

 

ちなみに、

毎週日曜日にもたれる礼拝と、聖餐式は、神の救いをお祝いする祝祭だ。

神の御子の割かれた肉体と、流された血潮によって、私たちはいのちを与えら

れた。週に一度、立ち止まって、キリストのよる救いを思い出しながら、神の御前で休

むとき、続く一週間を神への礼拝のために生きる力を与えられる。

 

神に救われ、神の子とされた私たちは、人生の苦難を共にし、天におられる主に向かっ

て新しい賛美を歌う。キリストが戻ってこられる日を待ち望みつつ。

 

私たちは一人ではなく、キリストにあって一つの家族。神は、私たちのうち誰一人をも

失うことなく、天の御国へと守り導かれる。

 

 

今、この文章を読んで下さっているあなたも、キリストを信じて、神の家族に加えられ

ますようにと、祈りつつ。

 

"Behold The lamb"

聖餐式の際に、よく用いられる賛美。

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心にタンポポ

自分を誉めることは、私にとって一番苦手なことの1つだと思う。

 

友だちに、「たまには自分のことも誉めてあげないとだめだよ。はい、誉めてみてっ」

と言われて、沈黙してしまった。

 

そういえば、就職活動のときも、自分の長所が思いつかなくて困った。

その頃から、自分に対する見方はあまり変わっていないのかもしれない。

 

髪の毛が大分長くなっているのに、なかなか髪を切りにいくことが出来なかったのも、私のコンプレックスが関係している。

 

少しでも格好よく見られたかったから。

髪の毛が短くなれば、貧弱な姿が目立ってしまう気がした。

だから、カットに行く踏ん切りがつくまで、結構な時間がかかってしまった。

 

「美しさ」は私の偶像だ。

自分が美しくあれば、大切な人たちはもっと私を求めてくれると期待してしまう。

 

でも、それは根本の偶像ではないと気付いた。

私が取り去らなくてはならない偶像は、「人」そのものだ。

 

人からの承認欲求が私を縛り付けている。

美しさを用いて、良い行いを用いて、笑顔を用いて、一緒に過ごすことを通して、

私は人に受け入れられようとしている。

 

そうして、いつの間にか自分も疲れて、相手も疲れさせてしまう。お互いにどこかで無理をしているのだと思う。少しのきっかけで、不安が大きくなって、距離を取るようになっていく。

 

ずっと悩んで、諦めかけていた。

 でも、神は私を諦めさせなかった。

 

答えはいつも、イエス・キリストへの信仰に立ち帰らされて、与えられる。

イエス・キリストの十字架と復活が私に与えてくれたものは、「すべて」だった。

神を知ることが、私にすべてを与えた。神を知ることが、すべてを変えた。

 

いくら強調しても足りない。神を知ることの大きさ。

神が愛する独り子を、死に明け渡されたのは、私たちが永遠のいのちを持ち、

神を知るためだった。それは、神との交わりに迎えられることだった。

 

私は神を知っている。神に愛されていることを知っている。神の尽きない恵みと憐れみを知っている。イエス・キリストを信じる者はみな、救われる。

 

自由だ!もう罪に定められることは決してない。死を宣告されることもない。さばきと呪いはすでに取り去られた。何も恐れるものはない!!!

 

神が味方であるなら、一体誰を恐れる必要があるのか。恐れるな、雄々しくあれ、勇敢

であれ。ただひたすらに、愛の賜物を熱心に求めよ。

 

 

                      兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。

                    ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

                                                                                               ガラテヤ人への手紙5

 

 

自由に生きていい。何にも縛られなくていい。私たちは自由を生きるために召されたの

だから。しかし、それは肉の欲望のままに生きるためではなく、互いに愛し合うため

だ。

 

 

             キリスト・イエスにあっては、割礼を受けるか受けないは大事なことではなく、

                                            愛によって働く信仰だけが大事なのです。

                                                                                            ガラテヤ5

 

 

愛し合うことを求めていいんだ。自分なんかって思わなくていい。

キリストにある兄弟と姉妹ともっと愛し合っていいんだ。

この「愛」はセクシュアルなものでも、いやらしいものでもない。

真に混じり気のない、関係に基づいた誠実な愛だ。

 

映画で、アフリカのある家族の兄弟たちが、妹を本当に愛して、抱きしめていた。

私も、主にある家族を、家族として抱きしめていいんだ。

 

                              あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、

               偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。

             

                あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、

                            生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

                                                                                                            Ⅰペテロ1

 

 

自分を誉めることはやっぱり苦手で、それは変わらないかもしれない。

 

けれど、私を認め、評価してくれる兄や姉、弟と妹たちがいる。

彼らの評価によって、私の存在価値が左右されるわけでは決してない。

だれが何を言おうと、私がどれだけ失敗したとしても、私が神様に愛されている子ど

もであることは絶対に変わらない。

 

 

しかし、彼らの優しいことばは、私に深い励ましと慰めを与えてくれた。

エス様は確かに私のうちに住んでおられることに、目を向けさせてくれた。

こんな家族を与えてくれて、神様、本当にありがとう。

 

 

すべての人が救いを必要としています。どうか、あの大切な友だちを救ってください。

彼は、人生の意味、目的の答えを求めています。世を支配する偽りに気付き始めてしま

す。けれど、偽りから脱却して、価値観を変革することの難しさも知っています。そし

て、実際、人は自分で真理を悟ることはできないのです。

 

真理はイエス様にあります。彼にはあなたが必要です。どうか、イエス様を通して、神

を知ることができるように、主がみわざをなしてください。

 

私たちは、友だちの前で、ただあなただけに感謝と賛美を捧げます。主の救いを。

 

                                          私は、この口をもって、大いに主に感謝します。

                                             私は多くの人々の真ん中で、賛美します。

                       主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです。

                                                                                                                       詩篇109

 

 

 

Go tell it on the mountain 

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           語り継げよ。山を越え、谷越え、

           伝え広めよ。主は来られた。

葛藤を越えて

からだとこころが真っ二つに引き裂かれるような感覚になることがある。二つの相反する思いが私を引っ張り合って、私はひきちぎられてしまうのではないかと感じるくらいの葛藤を経験する。

 

     もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。

     しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、

     あなたがたは生きるのです。

                                                               ローマ8

 

     御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるよ

     うなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊

     は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあな

     たがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

                                                                             ガラテヤ5

 

    (しかし)キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、

      さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

      もし私たちが御霊によって生きるのなら、

      御霊に導かれて、進もうではありませんか。

      互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、

      虚栄に走ることのないようにしましょう。

                                                                              ガラテヤ5

 

 

キリストを信じた者は、御霊によって新しく生まれ変わる。

生まれ変わる前は、肉の奴隷だった。しかし、今は、御霊によって神の

子とされた。しかし、肉の欲求は今も残存している。そのため、心には

いつも葛藤がある。肉と御霊の対立が起こっている。

 

しかし、その戦いに御霊が勝利するとき、私は本当の意味で生きる。

信仰と希望と愛が私の心を包み込む。永遠の神の御手に身をゆだね、主

を待ち望むとき、私は新しく力を得て、鷲のように翼をかって上る。

走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 

私は、この戦いの傍観者ではない。生きるか、死ぬかの選択は私の目の

前に置かれている。御霊によって歩むか、肉の欲望を満足させる

か、選ぶのは私自身である。

 

けれども、この戦いは私の戦いではなく、主の戦いである。

主が私とともに戦い、必ず勝利を与えられる。

 

主は、暗闇の奴隷であった私たちを、愛する御子の死によって、救い出し、白髪になっても、ボロボロになっても、どれだけ臭くなっても、その大きな翼で私を覆い、天まで導いてくださる。

 

父よ。キリストの十字架により示された、あなたの愛を信じます。

そして、あなたの恵みを待ち望みます。

 

         

     私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。

         主のあわれみは尽きないからだ。

         それは朝ごとに新しい。

        「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。

     それゆえ、私は主を待ち望む。

                                 哀歌3

 

 

New every morning (新しい朝)

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Lord, how I need you

大切になればなるほど、別れは名残惜しくなる。

もう会えなくなるかもしれない。

心が焦っている。

 

このまま別れてしまってもいいのだろうか。

でも、それ以外にどんな選択肢があるんだろう。

 

寂しいな。ほんとに。

 

だから、賛美しよう。

僕らは、主のおられるところで必ずまた会えるのだから。

僕らの罪のために死なれ、よみがえられたイエス様が、私たちを迎え

に来て下さるから。イエス様も僕らをずっと待っているから。

 

でも、心は苦しい。

胸が詰まる。

 

Lord I need you. 

主よ、いま、あなたが必要です。

私を慰めてください。

 

涙を流しながら、主を賛美することを教えてください。

 

         なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、

         永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。 

         それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。

                                           ヨハネ6

 

涙を流しながら、永遠に残るもののために働くことを教えてください。

 

 

               あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。

                                                                                   ヨハネ6

 

私の名ではなく、イエス様の名を残すために。

なぜなら、この方の名に永遠のいのちがあるのだから。

 

Lord, I need You.

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