Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

霊において語り合う

人の会話について。

人は、最も大切なことは話さず、比較的大切でないことばかりを話している。

そのことは前から思っていたのだが、最近さらに感じるのは、誰かが最も大切なことを

話し出そうとすると、他の誰かがそれを回避しようとすることである。結果、人の会話

は、最も大切な部分を避けながら、その周辺をぐるぐると回り続けてしまう。

 

教会の会話でも全く同じことが起こる。同じ人間である以上、当然ではあるが、私たち

は福音により霊的に新しく生まれた者として、人の最も内奥部であり、あるいは、その

人自身である「霊」においてキリストとともに「生きている」のだから、私たちは

「霊」において互いに真実を語り合うべきである。

 

私たちを新しく生んでくださった神は、ご自身が霊であられるため、私たちが霊によっ

て神を礼拝することを望んでおられる。同時に、私たちが霊において互いに語り合うこ

とによって、霊において成長することを望んでおられる。

 

霊において死んでいる状態の人間が、最も大切なことを語り合えない理由は、それを知

らないからである。心の中心部にぽっかり穴が空いているような感覚があり、空しさが

ある。世の知恵や知識を得るほどに、空しさは増す。どれだけ集めても、満たされない

からである。神が教えてくださった「最も大切なこと」、それは「まことのいのち」で

あり、「神と御子を知る」ことである。

 

ところが、クリスチャンは神のあわれみによって、福音を信じたことにより、まことの

いのちが与えられ、神と神子を知っている。それゆえ、周辺部をぐるぐる回らなくても

よい。「「最も大切なこと」である、まことのいのちを語り合うことができるのだ。心

の奥底から、真の意味で「自分自身」において語り合えることは、なんという喜びだろ

うか。

 

しかし、このような特権をいただいているクリスチャンも、相変わらず周辺部をぐるぐる回ってしまうのは、なぜなのだろうか。

 

周辺部をぐるぐる回るとは、つまりこういうことである。聖書の学びをして、賛美をし

て、近況を報告しあって、互いに祈り合っても、霊における会話がないのである。言い

換えるならば、神と御子イエス・キリストについての「情報」を受け取り、自分の身の

回りの状況に当てはめて考えることはしても、自分自身、つまり自分の霊において神と

御子を深く知っていく交わりには至らないのだ。同時に、クリスチャン同士の交わりも

表面的で周辺的な会話で止まってしまう。神との交わりと、クリスチャン同士の交わり

は切っても切り離すことはできない。神は、この交わりについて、使徒ヨハネを通し

て、次のように教えてくださった。

 

「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」

ヨハネの手紙第一1:3b

 

私たちクリスチャンは、霊における神との交わりにおいて、互いに交わるのである。

 

では、どうしてそれができないのか。それを妨げるものが、私たちのうちにあるからで

ある。それは、だ。具体的に言うならば、高ぶりである。高ぶりを考えるときに、人

に対する高ぶりよりも、神に対する高ぶりについて考える必要がある。聖書は、人は自

分で自分を救うことはできないことを明確に教える。人の自由意志は罪によって堕落し

ているため、人はイエス・キリストの恵みによってのみ、罪を赦され、罪からきよめら

れ、正しい者へと造りかえられていく。この恵みは、神とクリスチャン同士の交わりを

通して、霊において神と御子をますます知ることによって、豊かにされていく。

 

しかし、神に対して高ぶるとき、私たちは神と御子との交わりを拒んでいる。その結

果、私たちの霊は成長するのではなく、逆に弱まり、ついには死んでしまう。どんな高

ぶりがあるだろう。「神様はいらない。自分の生きたいように生きる!」、「私はそん

な罪人ではない!だから、神様の恵みも憐れみも必要ない!」、「私は聖くなりたくな

い。私はこのままでいい!」。このように、私たちは神様に対して高ぶってしまう罪人

である。どんなクリスチャンも同じ罪の葛藤を経験している。誰かが強くて、誰かが弱

いということはない。皆が弱くて、皆が罪人なのだ。だから、誰も人をさばいたり、量

ることは決してできない。

 

けれども、私たちの罪よりも大きな神様の愛が私たちを包んでいる。私たちを罪の奴隷

としていたサタンの力を打ち砕き、私たちを解放してくださった神様が私たちの味方で

ある。神様に滅ぼされるべきだった孤児を、神様はキリストの血によって贖い、子ども

としてくださった。私たちは、神に愛され、キリストのうち傷によって癒された。そし

て、魂の牧者であり、監督者である神のもとに帰った。だから、神が私たちを牧してく

ださる。神様が私たちに本当の会話を、本当の交わりを、本当の成長を与えてくださ

る。

 

どうか、主よ、助けてください。私たちが、霊において互いに語り合えるように。霊に

おいて、神と御子をともに知っていくことができるように。霊において、罪深い傷だら

けの心が癒され、成長させられ、救われることを一緒に慕い求めていけるように。

心の平和は、ただイエス様によってのみ与えられるのですから。

救い主、イエス・キリストの御名によって。アーメン。

 

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」

コロサイ人への手紙3:15-16

 

永遠のいのちー霊的なよみがえりー

日本は、霊的に病んでいる社会だと言われる。それはつまり、日本社会を造り出してい

る日本人が霊的に病んでいるということだろう。

 

けれども、日本人だけが特別そうなのだろうか。神のみことばである聖書には、そうは

書かれていない。むしろ、「すべての人が」そうだと書かれている。しかも、「病んで

いる」というレベルではない。「すべての人」が、霊的に「死んでいる」と書かれてい

るのだ。

 

人通りの多い交差点の横断歩道で、不自然な動きをしている男性を見かけた。自転

車に乗っている女性を横目でじっと見ているのだと、すぐに分かった。歩行者信号が青

になった。その女性が自転車で走り出すと、彼は早歩きで彼女の後を追い始めた。自転

車の方が速かったため、彼女と彼の間は少しずつ離れていったが、ある程度の距離が開

くまで、彼は彼女の後を追い続けたのではないかと思う。おそらく彼は、ある特定の人

待ち伏せしていたのではなく、不特定多数の女性の後を追跡することを繰り返してい

た。彼の行為は、女性に危害を加えるものであり、許されるものではない。法律によっ

て罰せられるべき犯罪である。何よりも、神の目に不義であり、神がさばかれる行いで

ある。

 

なぜ、彼はこのようなことをしているのだろうか。それは、彼が「霊的に死んでいる」

からに他ならない。彼は、神を知らない。いのちを知らない。神に対する

恐れがない。正しさがない。性欲が彼を支配し、彼からすべてのものを奪おうとしてい

る。しかし、本人は自分が蝕まれていることに気づくことができない。哀れである。

 

けれども、彼だけが哀れなのではない。すべての人間が同じほどに哀れなのだ。

私自身も全く同じく哀れであって、あらゆる欲望に支配され、蝕まれていた。私も「霊

的な死」を身に帯びていた人間の一人だった。しかし、今の私は以前とは全く違う。私

は、福音によって新しく生まれたからだ。これは母親の胎内からもう一度生まれたとい

う意味ではなく、霊的ないのちを新しく得たということである。

 

私は神を知り、イエス・キリストを知った。すべての罪を赦され、神の御前に義とさ

れた。神の霊を与えられ、罪から解放され、聖潔に至る人生へと召された。あわれみ深

い神の大きな愛によって、私は救われた。それは、私のような罪人をさばくためではな

く、救うために来てくださったイエス・キリストの福音を宣べ伝えるためだと知った。

 

エス様だったら、あの男性に対して何かを語りかけたのだろうか。もちろん語りかけ

ただろう。なぜなら、全く同じ罪の中に死んでいた私に、イエス様は優しく語りかけて

下さったからだ。そうであるならば、私も同じようにするべきである。あの男性に対し

てだけではない。彼のように目立たなくても、すべての人が「霊的に死んでいる」のだ

から、すべての人に福音を伝えなければらない。

 

福音とは、神が私たちを愛し、私たちが永遠のいのちを得るために、神が御子を与えて

下さったということだ。神の御子イエス・キリストを信じる者は誰でも救われる。赦さ

れない罪はない。きよめられない罪はない。福音は全てを救うイエス・キリストの恵み

である。

 

 

今、霊的に死んでいる人たちの中で、私たちは霊的に生きている。それは、私たちが高

ぶって見下すためではなく、むしろへりくだり、感謝を持って神に仕え、この大いなる

福音を「すべての人に」告げ知らせていくためである。

 

「神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」

                                                    ヨハネ福音書3章16節

 

 

 

 

 

 

 

 

お姉ちゃん

教会の礼拝後、ある家族がぼくを夕食に招待してくれました。

 

そこの長男は、ぼくからすると「熱心だけど、よく空回ってしまう人」でした。

 

今夜、彼は家にはいませんでしたが、彼の話題になりました。いつものように、彼の

 

「おもしろエピソード」で盛り上がりましたが、彼のお姉ちゃんがふと口にした言葉が

 

心に留まりました。「〇〇(弟の名前)は、不器用だけど、まっすぐだからいいんだ

 

よ」。

 

このお姉ちゃんのことばは、ぼくの口からは絶対に出てこなかったことばだなと

 

思いました。優しくて、包容力のあることばでした。

 

 

さすがお姉ちゃん。

 

 

 

お姉ちゃんのことばに、深くウンウンと頷く両親と妹。

 

こんな家族いいな。

キリストのため

 

For the cause

of Christ the King

We give our lives, an offering

Til all the earth resounds

with ceaseless praise to the Son

 

王であるキリストのために

私たちは私たちのいのちを 供え物として捧げる

全地が御子に向かって 止まない賛美を鳴り響かせるまで

 

 

 

これが私たちの生きる理由

 

教会、それはキリストのために、自分を捨て、自分の十字架を負うことを

喜ぶ人々

 

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私たちは「聖なる祭司」

出エジプト記28:1、41、29:44-46

「あなたは、イスラエルの子らの中から、あなたの兄弟アロンと、彼とともにいる彼の息子たちのナダブとアビブ、エルアザルとイタマルをあなたの近くに来させ、祭司としてわたしに仕えさせよ。・・・彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。・・・わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる。わたしはイスラエルのただ中に住み、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。」

 

神は、エジプトからイスラエルを贖い出され、イスラエルのただ中に住まれた。その中心は幕屋であり、その中心は「契約の箱」が置かれた至聖所であった。その場所で、神は彼らと会って、語られた。つまり、至聖所は神が臨在される場所である。

 

祭司たちはその至聖所の手前、すなわち会見の天幕の前で、祭儀を厳密に守り、神に仕えた。それは要するに、神の御前で神に仕えることであった。

 

神は聖なる方であり、聖なる神の臨在には、祭司はきよめられなければならなかった。

 

 

 

私たちが「聖なる祭司」となったということは、

①私たちは、神に仕えるために任命された

②私たちは、神の御前(神様が住まわれるところ)で神に仕える

③私たちは、聖別されたから神に近づける

 

これはすべて、イエス・キリストの福音によること。私たちは、聖なる神に仕える聖なる祭司とされたし、ますますそのように成長させられていく。

 

私たちが捧げる生贄は、自分自身。自分を神様に受け入れられる、きよい、生きた供物として捧げること。聖霊が私たちをきよめてくださる。イエス・キリストを通して、私自身を神に捧げる。

 

神に喜ばれる。神に受け入られる。

こんな罪人を赦して、愛して、きよめて、喜んで受け入れてくださる。

 

神様は永久にほめたたえられるべきお方!

神の選びとあわれみ

ペテロの手紙第一2:7-10

したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、

それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています

 

イエス・キリストを信じるか、信じないか。

キリストについてのみことばが告げ知らされたのは同じ。しかし、聞いたみことばが信仰によって結びつけられるかどうか。異邦人たちは信じた。イスラエル人の一部は信じなかった。

 

その信仰は、人間の願いや努力によるのではなかった。それは、神の定めと選びによるものだった。信じている私たちは、神に選ばれて、あわれみを受けて、神の民とされた。信じていない者たちは、神に定められて、あわれみを受けることができず、神の民から追放された。

 

しかし、それは、神の大いなる知恵とさばきによるものだった。神は、すべてのイスラエルと異邦人を救われるご計画を持っておられた。

 

 

 

 

 

以下、上のみことばを理解するための参照箇所

ローマ人への手紙9:15-16、24

神はモーセに言われました。「わたしは憐れもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。・・・このあわれみの器として、神は私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。

 

 

9:30-32

義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。

なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

 

10:17

信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのみことばを通して実現するのです。

 

11:1、5-6

それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。・・・今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。そうでなければ、恵みが恵みでなくなります。

 

11:11-12

それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らが満ちることは、どんなに素晴らしいものをもたらすことでしょう。

 

11:25-26

兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。

 

11:30-33

あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けています。

それと同じように、彼らも今は、あなたがたの受けたあわれみのゆえに不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今あわれみを受けるためです。

神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。

 

11:33-36

ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。

「だれが主の心を知っているのですか。だれが主の助言者になったのですか。だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

祭司の使命と回復

マラキ書1:11

日の昇るところから日の沈むところまで、わたしの名は国々の間で偉大であり、すべての場所で、わたしの名のためにきよいささげ物が捧げられ、香がたかれる。まことに、国々の間で偉大なのは、わたしの名。ー万軍の主は言われるー

 

3:1

見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。ー万軍の主は言われる。

だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるときに立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。

この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀にするように、彼らを純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。ユダとエルサレムのささげ者は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。

 

3:16-18

そのとき、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。

「彼らは、わたしのものとなるー万軍の主は言われるーわたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」

 

マタイの福音書3:11

「私(バプテスマのヨハネ)はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その肩の履物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。」

 

 

神の御名が全地であがめられ、賛美されるようになる。それは、神の御名こそが偉大だからである。しかし、アダムも、イスラエルも神の栄光を現す使命に失敗してしまった。では、だれが、どうやって、その使命を果たすことができるのだろうか。

 

人間にはできない。しかし、神に不可能はない。神は一人の使いを遣わされる。その人は、神の前に道を備える。「見よ、彼が来る」と神が仰せられるその方は同時に、「神」ご自身であり、イスラエルが尋ね求める「主」であり、イスラエルが望んでいる「契約の使者」であられる。この方は、突然、神殿にやって来られ、金銀を精錬する日のように、また布をさらす灰汁のように、「レビの子ら」すなわち祭司たちをきよめて、純粋にする。彼らは「義」によるささげ物を献げ、主を喜ばせる。

 

この預言のことば信じて、神を恐れ、神の御名を尊ぶ者たちを、神は覚えられ、神が「事を行う日に」、あわれみ、ご自分のもの、ご自分の宝とされる。彼らは再び、神に仕える正しい者と、神に仕えない悪者の違いを「見る」ようになる。

 

まとめると、神様が「事を行われる日」がやって来る。「一人の使い」によって、まず道備えがなされる。「主」が神殿に来られ、レビ人たちをきよめる。神を恐れる民たちをあわれみ、ご自分の宝とされる。彼らは、神に喜ばれるささげ物を献げるようになり、神に仕える者とそうでない者の違いを再び見る。

 

この預言のとおりに、バプテスマのヨハネ(一人の使い)が現れた。そして、イエス・キリスト(神、主、契約の使者)が神殿に来られた。そして、バプテスマのヨハネはイエスについてこう預言した。「この方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられる」。ここで、「聖霊」と「火」が並列して書かれているが、これは聖霊=火と解釈することができる。実際、「使徒の働き」(新約聖書)では、ペンテコステの日における聖霊の到来が「炎のような分かれた舌が現れて、一人ひとりの上にとどまった」と表現されている。「火」は、火が金を精錬するのと同様に、人をあらゆる不義からきよめる。聖霊が、人をきよめて純粋にしてくださる。

 

イエス・キリストこそが、この新しい契約の使者として、聖霊によるバプテスマを授けてくださるお方であった。