Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

神様がご自分の栄光のためにすべてを成し遂げられる!

「わたしの名のために怒りを遅らせ、わたしの栄誉のためにそれを抑えて、わたしはあなたを断ち滅ぼさなかった。見よ。わたしはあなたを練ったが、銀のようにではない。わたしは苦しみの炉であなたを試した。わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない。」                                                                                        イザヤ書48:9-11

 

「『悪しき者には平安がない。』主はそう言われる。」

                               48:22

 

 

主は、ご自分の栄光が辱められているところに、喜びも、平安も、祝福も与えない。

なぜなら、すべての造られたものが、主に栄光を帰すことによって、主の偉大な御名が

全地であがめられることが、神様のみこころだからである。

 

神ご自身が、ご自身の栄光を誇示し、御名の栄誉を全地に示されることに揺るぎない情熱を抱いておられる。神様ご自身の使命は永遠に変わることがない。たとえ、サタンが妨害し、人が失敗し、神の民が失敗しても、神様は必ずその使命を成し遂げられる。

 

主は、そのために御子イエス・キリストを遣わし、その十字架によって、すべてのご自分の民を罪の支配から贖い、よみがえられ、諸々の天よりも高く上げられた王なるキリストのご支配の中に召してくださった。教会は、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところとなった。

 

神様は、教会を通して、キリスト・イエスにあって、ご自身の栄光を全地に現される。

教会はキリストのからだであり、あらゆる国々、民族、部族から集められ、聖霊による

義と平和と喜びを実らせ、神ご自身の満ち溢れた豊かさにまで満たされる。

 

父なる神ご自身が、キリストにあって、聖霊を通して、私たちを力づけ、造りかえる!

すべてのことを働かせて益とされる!

 

それは、私たちのためではない。神様ご自身の栄光のため!

そして、私たちは父なる神の栄光を喜ぶ礼拝者として、父が栄光をお受けになること

を、キリストと共に喜び楽しむ!

 

 

 

僕らはきっと腹ぺこ状態

私はなんとまあひどい栄養失調に陥っているのか!

 

目の前のうどんを食べながら悟らされた。

 

肉体的な栄養失調のことではない。

 

たましいの栄養失調のことだ。

 

私たちの愛する主イエス・キリストは、食物を買って戻って来た弟子たちにこう言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。・・・わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」

 

 

このときの弟子たちは、まだその食べ物を知らなかった。彼らは、「神のみこころ」をまだ悟っていなかったからだ。けれど、イエス様がご自分のすべての民の罪のために十字架にかかられ、3日目によみがえり、弟子たちの前に現れたとき、彼らはその意味を知った。さらに、イエス様が天に上げられた後、イエス様が約束されていた聖霊を弟子たちの上に注がれたとき、彼らは新しく霊的に生まれ、神の大いなるみわざを人々の前で語った。そうして、エルサレムから地の果てまで彼らは聖霊と共に遣わされていった。

 

彼らはイエス様と同じ食べ物を食べるようになった!

彼らの宣教によって全地に渡って築き上げられた教会を通して、およそ2000年後を生きる日本人の私にも福音が届けられ、イエス様を信じて、聖霊によって新しく生まれた。

私もイエス様と同じ食べ物を食べるようになった!

 

 

だからこそ、「神様のみこころを行う」という食べ物を全然食べていなければ、腹ぺこで何も身動きできなくなって当然なのだ。はあ、お腹すいた。神様は目の前にたくさんの食物をいつも用意してくれているのに、それを拒んで来たのだから仕方がない。それなのに、神様は私を見捨てず、立ち上がらせて、豊かな食物の宝へと導いてくださる。

 

たましいにとって、この食べ物は米のようだ!あったらいいな〜というデザートのようなものではない。絶対に生きていく上で欠かせない主食なのである。

 

それにしても、腹ペコでいるのが日常になっていたら、それが普通になってしまい、自分が栄養失調なのかどうかも分からないし、気にしなくなってしまうものだ。だとしたら、きっと僕だけではなく、多くのクリスチャンが実は腹ペコなのに気づいていないのかも。

 

 

 

だから、思い切って、みことば求めて、みことばに示されるままに、神様のみこころを大胆に行ってみよう!栄養に溢れているたましいがどれだけ健やかで元気なのか、一度経験したら、ずっとその状態でいたいと思うだろう!もう元の腹ぺこ状態では満足できないはずだ。

 

さあ、朽ちていく肉体の糧やからだのためではなく(神様は、私たちが御心を行うために、その全ての必要を必ず満たしてくださる。しかし、働かないでいいということではない。これは、人生の目的はもっと偉大なことのためにあるということである)、神様の御国とその義のために生きよう!全地にわたり、キリストの教会が築き上げれ(「教会」とは建物ではなく私たち自身)、神様の栄光があがめられるために!

 

 

 

「あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。」

                         ヨハネ福音書4:35-36

 

 

エス様が来られる前のクリスチャンたちも、イエス様も、イエス様が来られた後のクリスチャンたちも、みなでともに神のわざを成し遂げる!私たちは一人で神のわざを行なっているんじゃない。私たちはすべてのクリスチャンとともに、イエス・キリストに従って、イエス・キリストの恵みと力と賜物によって、神のわざを行なっている。私たちは最後の役目が任せられている。それは、刈り取り、すなわち永遠のいのちに至る実を集めること。

 

エス様を信じるものはみな、永遠のいのちが与えられる。イエス様が救いを成し遂げてくださった。私たちは、このイエス様を宣べ伝え、人々をイエス様への信仰へと導くことが使命。ここに、キリストの喜びが私たちすべてのうちに満ち溢れる。

 

ああ、この喜びのために!

ああ、この喜びのために!

私たちは召されて、遣わされているのだ!

 

 

本当の朝

朝起きて、まず考えるのは、「ああ、今日も1日が始まってしまった。疲れた。めんどくさい。はあ・・・」。

 

朝起きた瞬間には、イエス・キリストのため、誰々さんのため、今日も生きるんだって思えない。

 

私には、利己心しかない。常に、自分のことだけ考えている。

 

 

だから、起床後の時間は私の1日を決定づける大切な瞬間となる。

神の恵みを求めて呻くか、それとも神に背いたままその日を始めるのか。

 

神の大能の力の働きによって、私たち信じる者のうちに働く、神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを知ることができますように」エペソ人への手紙

 

神は、私の心を造りかえることができるただ一人のお方。

毎朝、試されているのは神への信仰だ。

 

「あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。」ヤコブの手紙

 

忍耐とは、信仰にとどまり続けることだと思う。一瞬ではなくて、神を信じ続けること。忍耐が私たちをキリストの栄光の似姿へと成長させ、完全な者とする。

 

「完全」とは、罪が全くない人間のことではない。そのような人間は誰一人として存在しない。「完全」の意味は、たましいに戦いを挑んでくる欲望に対して、どんな時でも、信仰により、神の力において勝利を治めることではないだろうか。

 

しかし、私たちはやがて「罪のないからだ」によみがえらされ、あるいは造りかえられ、「罪の存在しない世界」を相続する特権がキリストにあって与えられていることを知っている。私たちが、この約束にあずかるために必要なのは忍耐である。

 

 

忍耐を、忍耐を、忍耐を。

 

 

 

献身ー信仰と苦しみという二つの賜物ー

献身とは何か、を考えさせられる。

 

前の記事で、「教会は神に献身する者たちのコミュニティ」だと書いた。そうであるな

らば、献身していない者たちの集いが教会だと言えるのだろうか?

 

聖書には「ふさわしく」という言葉が何度も登場する。例えば、パウロは手紙の中で、

「召しにふさわしく歩みなさい」、「福音にふさわしく生活しなさい」と勧めている。

これらの勧めの中に、「召される」ことと、「召された者としてふさわしく生きる」こ

との間に隔たりが存在してしまうことを感じ取ることができる。つまり、召された者

が、召しにふさわしくなく生きることがあり得るのだ。

 

どうしてそのようなことが起こるのだろうか。パウロは「召しのもたらす望みがどのよ

うなものか・・・知ることができるように」と教会のために祈っていた。彼は、神の召

しのもたらす望みの性質そのものが、教会が召しにふさわしく生きる力と動機を与える

ことに期待していたのだと思う。

 

 

 

イエス・キリストご自身がこう言われた。「誰でもわたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。」「自分の十字架を担って、わたしに従わない者はわたしに相応しくない。」

 

聖書が書かれた当時、十字架は極刑の一つでした。十字架刑の囚人は、刑場まで自分で

十字架を背負って運ばなくてはならなかった。それは、辱めに満ちた仕打ちだった。

私たちが「自分の十字架を担う」とは、主イエス・キリストを信じる信仰ゆえの、辱め

や苦痛を担うことだ。

 

世は真の神を受け入れず、神が救い主として遣わされた御子イエス・キリストをも受け

入れることができない。よって、世はキリストを憎み、迫害した。同じように今日で

も、世はキリストに従う者を迫害する。

 

私たちは、この真実を受け入れなくてはならない。

パウロも言った。「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでな

く、キリストのための苦しみをも賜ったのです」(ピリピ)

 

「信仰のみ」はあり得ない。「苦しみのみ」もあり得ない。私たちは世にあって召され

たときから、「信仰と苦しみ」の両方を、キリストのために賜ったのである。

 

つまり献身とは、神の憐れみに対する応答であり、キリストのために、「信仰と苦しみ」の両方を賜りながら、神に喜んでいただくために、自分自身を献げることである。

 

異邦人の間で、私たちは「苦しみ」を担って生きていく。

 

教会と異邦人

主のもとに来なさい。ー主は人には捨てられたが、神には選ばれた、生ける、尊い石です。ーあなたがたも、生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。

なぜなら、聖書にこう書いてあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた、尊い要石を据える。この方に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

                          ペテロの手紙第一 2章

 

 

イエス・キリストは十字架で処刑された。しかし、よみがえられた生ける石。

私たちも、キリストを信じることによって、新しく生まれた生ける石。

 

エス様もクリスチャンも「生ける石」。違うのは、イエス様は「要石」であること。

クリスチャンは、その要石の上に築き上げられた石の集合体。だから、イエス様がどれ

だけ頑丈かどうかに、クリスチャン達の命運はかかっている。イエス様が倒れてしまえ

ば、クリスチャン達も倒れる。しかし、イエス様が倒れなければ、クリスチャン達も倒

れない。

 

神様はこう約束された。「この方に信頼する者は、決して失望させられることがない」

と。イエス様はよみがえり、栄光をお受けになられた。つまり、イエス様はもう決して

死ぬことがない。加えて、イエス様の栄光を脅かす存在は何もない。噛み砕いて言うな

らば、イエス様は永遠不滅で無敵の主となられた、ということ。私たちも主のもとに来

るならば、イエス・キリストのご支配のうちにあって、永遠不滅で無敵な存在となる。

 

「霊の家に築き上げられ」とあるが、家とは誰かの住まう場所である。では、この家は

誰が住むのか?私たちは住人ではなく、それぞれが家を構成する石の一つである。この

家に住まう方は、神様だ。

 

神様は、この天地とその中にあるすべてのものを造られたお方であるため、この世のど

んなものも神様を納めることは出来ない。しかし、神様ご自身が、私たちのうちに住ま

うことを良しとされたのだ。神様がそうなさる目的は、私たち(教会)を通して、神様

ご自身の栄光を地の果てまで現すためである。

 

神の民である教会と、そうではない異邦人の決定的な違いは、神がともにおられる

か、そうでないかである。神がともにおられる私たちは、イエス・キリストを通し

て、いつでもどこでも神に近づき、神に喜んでいただくために、自分自身を神に献げ

る。この献身は、神のあわれみに対する、人間の相応しい応答である。

 

 

まとめると、教会は、

・キリスト・イエスにあって永遠不滅で無敵

・神がともにおられる

・神の憐れみに対する応答として、自分自身を神に献身して生きる者たちの集まり。

 

 

学校に来た本当の理由

本当の私

 

この学校に入ったのは、イエス様を愛しているからではなかった。

 

            本当は、 心がしんどくて、癒されたかったから。

 

私は「献身者」として勇敢にこの道を歩みだしたのではなかった。

 

         本当は、 社会で押しつぶされるのを恐れて、逃げたかったから。