Facing a task unfinished ーまだ終わっていない1つの使命に向かってー

語り伝えよう 山を越え 谷越え。 伝え続けよう 主は救いのために来られた!

行動や生活を決めるのは心である。

「教会の人たちは、礼拝でみことばを聞いても、礼拝が終わったら、教会の外にいる人たちと全く変わらない生活をしている。これでいいのだろうか?こんなものなのだろうか?」

 

先日、ある方が上に書いたような正直な思いを分かち合ってくださった。

 

「クリスチャンの生活が、クリスチャンでない人たちの生活と何も変わらない」とこの方は実感しておられた。私も同感であった。おそらく、多くの人たちも同意するだろう。

 

このままでいいのだろうか?

神様は聖書のことばを通して、そんな私たちに何を語ってくださっているのだろうか。

 

 

1、神の民イスラエル

1)約束の地を占領しようとしているとき

神の民イスラエルは、約束の地を占領しているとき、王がいなかった。王がいないために、民はそれぞれ自分の目に良いと見えることを行なっていた、と士師記に何度も書かれている。彼らは、神が与えた律法に従わず、周りの国々と全く同じように歩んでしまっていた。

 

2)約束の地を占領したとき

イスラエルは、王を求めた。神様を王として認めず、周りの国々ような王を求めたのだ。その王は、神を恐れて、律法に従う王ではなかった。神様は、彼らの願いに答えて、彼らが望むような王を与えた。それは、サウロであった。美男子で体格がよく、まさに「王」にふさわしい姿であった。

 

しかし、サウロ王は高慢になり、神の律法に従うことに失敗してしまった。それゆえ、神様はサウロ王を殺し、神様の御心にかなう新たな王を与えられた。それが、ダビデだった。ダビデは、完全に律法に従うことができた王ではなかった。晩年には、姦淫の罪や、殺人の罪を犯した。また、神様に信頼せずに、自分の知恵と軍事力に頼ってしまうこともあった。しかし、ダビデ王は、罪を指摘されたとき、心を砕かれて、神様に心から悔い改めた。そのようなダビデを、神様は主のみこころにかなった王として祝福した。民も律法に従い、神を礼拝し、ともに祝福を受けた。

 

ところが、ダビデの王位を継承したソロモン王は、異邦人の女たちを迎え入れ、彼女たちにより偶像礼拝に陥り、律法に背いてしまった。ソロモン王の後、王国は分裂し、北イスラエルと南ユダに分かれてしまった。両国の王たちは、ダビデのように神様の心と一つになっていなかった。王たちは、偶像礼拝を行い、律法に従わず、民たちを正しく治めなかった。その結果、民たちも偶像礼拝を行い、罪を犯し、イスラエルは周りの異邦人たちと何も変わらない生活をするようになった。いや、むしろ、周りの国々の中でも見られないほどの悪を行なったのだ。

 

神様は、律法の契約に従い、また預言者たちを通して警告した通りに、彼らを呪われた。北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、次に南ユダはバビロンの捕囚とされてしまった。

 

3)捕囚帰還後のイスラエル

神様はアブラハム、イサク、ヤコブ、すなわちイスラエルの父祖たちと結ばれた契約にどこまでも誠実なお方である。また、ダビデと結ばれた契約も決して破ることはなさらない。神様はこれらの契約に基づいて、ご自分の民イスラエルを滅ぼし尽くすことはなさらなかった。そして、彼らを救い出し、再び約束の土地に住まわせてくださった。

 

約束の地に帰還した民たちは、神殿と城壁の再建を行った。また、律法も民全体に教えられ、民全体は悔い改め、民全体は再び律法の全てを守り行うことを神様の前に誓った。祭司も立てられ、祭儀も律法に従って行われるようになり、神様が臨在される神殿と礼拝を中心に、イスラエルは神の民として再び栄えていくはずであった。

 

ところが、祭司が異国の女性たちを迎え入れ、祭司の職務は守られず、礼拝は形骸化していった。周りの国々のように、呪術が行われ、姦淫があり、偽りがあり、不正があり、虐げがあり、貧しい者たち、特にやもめや孤児が苦しめられ、寄留者たちものけもにされていた。このように民の心は再び神様から離れていき、律神からも完全に離れてしまった。

 

旧約聖書は、このようなイスラエルの状態を記したマラキ書という預言書によって、閉じられている。旧約聖書が見せているものは、神の民イスラエルが、いつでも、いつになっても、神の民ではない異邦人たちと全く同じような生活に戻ってしまう姿である。

 

 

ならば、新約聖書の時代の神の民であるクリスチャンたちも、旧約時代の神の民と同様に、異邦人たちと全く同じ生活をしてしまうのはしょうがないことなのだろうか。

 

それは違う!なぜなら、神様はご自分の御名が聖であることを示すために、神様ご自身が大いなるみわざを成し遂げられたからである。神様は、イエス・キリストを通して、私たちを贖い、イエス・キリストにあって私たちを聖なる者としてきよめることにより、私たちをのうちで、つまり教会において、ご自身の栄光を現されるからである!

 

神様は、私たちクリスチャンを、クリスチャンでない人たちと全く異なった存在とされ、全く異なった生活をさせる。それは、私たちのためではなく、イスラエルが汚してしまった、神様の聖なる御名のためである!

 

エゼキエル36:16~23

次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの家が自分の土地に住んでいたとき、彼らはその生き方と行いによって、その地を汚した。その生き方は、わたしの前では、月のさわりのある女の汚れのようであった。それでわたしは、彼らがその地に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのゆえに、わたしの憤りを彼らに注いだ。わたしは彼らを諸国の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの生き方と行いに従って彼らをさばいた。彼らはどの国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民なのに、主の国から出されたのだ』と言ったのだ。わたしは、イスラエルの家がその行った国々の間で汚した、わたしの聖なる名を惜しんだ。それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう言われる。イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行なった国々の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。わたしは、あなたがたが国々の間で汚したわたしの大いなる名が、聖であることを示す。あなたがたが彼らのただ中で汚した名である。わたしが彼らの目の前に、わたしがあなたがたのうちで聖であることを示すとき、国々は、わたしが主であることを知る。ー神である主のことばー」

 

ここに書かれていることを簡潔にまとめると以下である。

・神様の名は聖であられる(他のものと全く区別されるお方。それゆえ、唯一あがめられるべきお方)

イスラエルの行いと生き方(不正、暴虐、偶像礼拝など)により聖なる約束の地を汚したことにより、神様の憤りによるさばきを受けたゆえに、神様の名は汚された。

・しかし、神様はイスラエルによって、再びご自身の名が聖であることを国々示されると約束された。

 

ここで出てくる質問はこうである。

イスラエルは罪を犯して地を汚してしまう民なのに、どのようにして、そんな民を用いて神様は聖なる御名を示されるのか?

 

そのためには、民の不従順な行動と生き方が変えられなければならない。民は神様の大いなるみわざを経験しても、神様の大いなる憐れみを何度も経験しても、行動と生き方は変わることがなかった。そうであるならば、彼らの「心」に根本的な変化が必要である。

 

神様は、私たちのそのものを変えられる。

それは、イエス・キリストの福音を通してである。

 

本当は自分が分かっていないこと。それは、「キリストにある」ということ(③)

だんだんと暑くなってきた。暑いと、体がだるくなってきて、イライラしやすくなる。特に、お昼は一番頭がぼーっとしていて、誘惑に陥りやすくなると。私は大丈夫、と思っていても、大丈夫でなかったことが、これまでに幾度もあった。

 

その敗北の経験から、確信を持って言えることは、ポルノを見たり、自慰行為に耽ることによって犠牲にしているものは数知れないということだ。

 

時間、人間関係、人間性。しかし、最も犠牲にしているのは、神様との関係である。

 

神様との関係は別に重大ではない、と思うかもしれない(実際、罪を犯しているときは、神様との関係はどうでもいいと思ってしまっている)。けれども、実際は、神様との関係が時間の用い方(人生の生き方)、人間関係、人間性、すべてを決定づける。

 

なぜなら、一言で表すと、神様がすべてだからである。神様に善があり、義があり、愛がある。神様が初めであり終わりである。すべての者は神様によって造られ、神様のために存在している。神様がすべてを支配しておられる主権者であられる。その神様は、私たちがすべてを尽くして神様を愛するように人を造られた。人は神様に愛され、人は神様を愛するという愛の交わりの中に生きるように造られた。その神様との交わりにおいて、人は人を愛し、他の被造物を愛するのだ。それが神様の祝福であった。

 

しかし聖書は、すべての人間が神様をあがめず、神様に感謝もせず、神様に背き、その結果、欲望のままに、悪と不義と憎しみを行う悲惨な罪人であることを、包み隠すことなく示している。しかし、同時に、そんな背きの民を見捨てない、神様の憐れみと恵みが繰り返し現されている。そして、今は、その限りない豊かな恵みと憐れみが、神のひとり子イエス・キリストを通して、キリストを信じるすべての者に無償で与えられている!

 

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められるからです。」(ローマ3:24)

 

贖いとは、奴隷をその主人から、代価を払って買い取り、自由にすることである。罪と死の奴隷であった私のような罪人を、神様はひとり子のいのちという代価を払って買い取ってくださり、解放してくださった。そして、キリストは死者の中からよみがえられ、天に上げられ、天と地のすべての権威を与えられ、私たちの主となって、私たちをご自分のしもべとしてくださった。私たちは、このキリストにあって、値なしに義と認められ、御怒りに代えて、栄光を授かった。

 

どうして、キリストの死と復活が、私たちに罪と死からの解放と、神様からの義認と、神様からの栄光を与えることになるのか。その答えが、「キリストにあって」である。

 

これまで、この「キリストにあって」という意味について、『LIGHT INTO  LOVE』という本を通して学び、それをブログにまとめてきた。今回は、その最後である。

 

キリストを信じた者は誰でも、キリストと一つにされるのである。キリストとともに死んで、ともによみがえらされ、ともに栄光のうちに現されるのである。

 

この新しいアイデンティティのゆえに、パウロはコロサイの教会に、

「求めよ」、「殺せ」、「着よ」という概念を通して、変化について語った。

 

それでは、「着よ」についてまとめていく。

 

1、着よ

「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。」(コロサイ3:12)

「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」

 (3:14)

 

 

1)キリストを着る

私たちは、キリストの衣を着るように言われている。キリストはなんとも「深い慈愛の心」を持っておられた。「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく、真実を持ってさばきを執り行う。」(イザヤ書42:3)

 

これはやがて来られるメシヤ、すなわちイエス様についての旧約の預言である。葦が傷んでいたら、それを折って捨てて、他のものを使うのが当然であり、灯芯がくすぶったら消して他のものを使うのが当然である。しかし、イエス様は、そんな状態の私たちを見捨てることなく、慈しみ、用いて、この地に真実な裁きを確立される。

 

また、なんとも柔和でへりくだった心を持っておられた。「すべて疲れた人、重荷を追っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28-30)

 

エス様は、当時のパリサイ人や律法学者たちによって重い重荷を負わせられて、苦しんでいる人たちに語られた。パリサイ人たちは高ぶって、民衆を見下し、彼らを自分自身の利得のために乱暴に扱っていた。しかし、イエス様は彼らを見放さず、彼らの主となって、ともに歩もうとしてくださった。イエス様は、柔和でへりくだったお方であり、ついてくる者に対して、たましいの休息、平安を約束してくださった。

 

エス様は、人間の理解をはるかに越えて、慈愛に溢れ、親切で、謙遜で柔和で、寛容なお方なのだ。イエス様は「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)であられる。神様は、私たちをキリスト同じ神のかたちに似せて新しく造りかえ続けてくださるのだ。

 

これは「キリストのようになりなさい!」と言い換えることができる。この召しは圧倒的な命令であり、特権である。パウロは、この命令を語るにあたり、「キリストにある」アイデンティティを思い起こさせている。

 

 

 

2)キリストにあるアイデンティティのゆえに

「神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として」(3:12)

 

私たちは、神の恵みによって選ばれ(エペソ1:4)、キリストの血による贖いによって聖なる者と宣言され(エペソ1:7)、キリストを与えてくださったほどに神様に愛されている(ヨハネ3:16)。私たちは神様に背き、敵対していた罪人であったのに、神様は私たちを愛された(ローマ5:8)。その後も、私たちは神様に愛されるにふさわしい者となったことは一度たりともないのに、神様は絶えず真実な愛を注いでいてくださっている(ローマ5:5)。愛するひとり子イエス様を愛されたように(ヨハネ17:23)。

 

私たちは、キリストとともに死に、ともによみがえり、ともに栄光のうちに現されるのであるが、それは、神様が私たちを選び、聖なる者とし、愛してくださっているからなのである。

 

 

3)愛をすべての上に着ける

「これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。」

(コロサイ3:14)

 

結びの帯がなければ、衣ははだけて、落ちてしまう。ゆえに、結びの帯は必要なのである。そして、パウロは、愛こそが結びの帯として完全なものだと言った。

 

しかし、私たちは愛ではないものを、結びの帯としてしまうことがよくある。慈愛、親切、謙遜、柔和、寛容の裏に、強欲や情欲が潜んでいることがある。それは愛のように見えても、実際は偽りや欺瞞の愛であり、そのような結びの帯は不完全であり、簡単に解けてしまう。

 

ところが、キリストの真実な愛の帯ならば、解けることはない。私たちがキリストを着ていることをはっきりと自覚させ、平安を与える(第一ヨハネ3:18-19)。キリストを着て、愛の帯をしっかりと結ぶならば、すべての行動にはキリストが現れるようになる。まさしく、「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられる」(コロサイ3:11)。キリストが赦してくださったように赦し合い(3:13)、キリストの平和が心を支配し(3:15)、キリストのことばが心のうちに豊かに住む(3:16)。すべてを主イエスの名において行う(3:17)。

 

では、愛とは何なのか。キリストはわたしたちに愛を教えてくださった。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

(第一ヨハネ3:16)

 

この記事の最初に、ポルノや自慰行為に耽ることは神様への愛を犠牲にしていることだと書いた。そして、神様との関係がすべての人間性や人間関係に影響を与えることを説明した。

 

第一ヨハネには、このような構図が示されている。神は人を愛された→人は神を愛するべき→神を愛する者は神の命令を守る→神の命令とはキリストを信じて、互いに愛し合うことなので、互いに愛し合いましょう

 

つまり、神を愛する者はお互いを愛するのである。もし、教会の兄弟姉妹を愛せないで悩んでいるならば、私たちは神様との関係を省みなくてはならない。そして、こんな罪人に対して、神様が与えてくださった犠牲と愛に目を向け、罪を心から悲しみ、悔い改めて、神様を愛する者へと再び立ち帰らさせていただくのである。そうすることでは、私たちは兄弟を愛する者と変えられる。

 

キリストは私たちのためにいのちを捨ててくださったのだ。それが愛なのだ。私たちは、自分のいのち(この世のあらゆる欲望、富、快楽、名声、自分の利益)を握り締めながら、キリストのように人を愛することはあり得ない

 

私たちは、愛するために、相手のために自分のいのちを捨てなければらない。いのちを捨てることが愛である。捨てることを惜しんで、他のもので補おうとする行為は、すべて偽りの愛である。

 

ああ、私はなんて愛がないのだろう。「愛」と言いながら、自分のいのちを固く握り締めていたではないか。誰が何と言おうと私は偽善者であった。友人を助けた。友人に時間を割いた。けれども、それらは自分の利益のためだった。どうか神様、愛を教えてください。そして、愛を行わせてください。愛することは、重荷とはならず、いのちと平安(すべての人間が渇き求めているもの)を私たちに与えてくださるのですから。

(マタイ11:28-、第一ヨハネ2:10、3:19、5:3)

 

 

 

4)感謝せよ

「感謝の心を持つ人になりなさい」(3:15)

「詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい」(3:16)

「ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、」(3:17)

 

感謝は現実逃避でもなく、何もないところに無理やり作る感情でもない。むしろ、現実の本質を理解した者にとって、感謝は必然である。光が照らし、私たちは見える者とされた。神に感謝をしなかった盲目な私たちが。

 

「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。......そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。」(ローマ1:21、24)

 

「彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行なっているのです。」(1:28)

 

汚れた欲望、無価値な思いは、神を神としてあがめず、感謝もしない暗い心の中に生じる。あれが必要だ→欲しい→手に入れた→握り締めた→自分で手放せない→奴隷、という抑え難い欲望のサイクルを(自分では抑えることはできない)、「感謝」は止めることができる。

 

神様を認めて、神様を神様としてあがめて、神様に感謝をするとき、私たちは汚れた欲望や無価値な思いに引き渡されることなく、神様からのすべての良い賜物を楽しむことができる。そのとき、造り主であり、祝福に満ちた唯一の主権者であり、すべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神様ご自身が栄光を受けられる(第一テモテ6:16-17)。被造物はさらに恵みを受け、神の栄光を喜び楽しむ。そしてさらに、神が栄光を受けられる。神様の栄光が周囲に示されていく。

 

これが「変化」である。

 

 

 

 

 

 

 

本当は私が分かっていないこと。それは、「キリストにある」の意味。(続き)

「キリストにある」とはどういうことなのか、教会の多くの人たちが分かっていない。何より、そのみことばを宣べ伝えるために立てられている私自身が、本当はわかっていない。キリストの上に建てられた教会が、「キリストにあって」歩むことができないなら、教会に未来はない。この問題の重大さにようやく気づいた私は、『LOVE INTO LIGHT』(Peter Hubbard)という本を参考にして学び、ブログに書くことにした。

 

「キリストにあって」のみ、私たちの心と人生は新しく変えられ続けていく

 

この変化を、コロサイ人への手紙3章を土台として、

①「求める」②「殺す」③「着る」、という3つのポイントでまとめる。

 

前々回の投稿では、①のみを扱った。

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今回は、その続きで、②と③を扱っていく。

 

 

2、殺す

「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」(コロサイ3:5)

 

行動が私たちのアイデンティティを決定するのではなく、アイデンティティが私たちの行動を決定する。私たちはキリストにあって、キリストとともに死んで、ともによみがえり、ともに栄光のうちに現される。このキリストにあるアイデンティティが、私たちを「戦い」へと突き動かす。なぜ、戦いなのか。二つのポイントをあげる。

 

1)なぜ戦わなければならないのか

①私たちは世にあって、キリストの御国の中に生きているから

「これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。」(3:6-7)

 

新しい国に移されたことは、肉体的なものではないが(今はまだ)、それにも関わらずこの移行は現実である。「世にあって、世とは異なる国に生きる」ということが意味するのは、戦争である。なぜなら、サタンの支配する世と、キリストの支配する御国は敵対しているからである。

 

私たちは外側においても、内側においても敵対勢力と日常的に戦わなければならない。外側とは、世の律法とキリストの律法は異なるので、世の調子(ローマ12:2)が私たちを常に押し流し、キリストの元から引き離そうとするからである。また、内側とは、古い国のものが私たちの内側に残っていて、内側から戦いを挑んでくるからである。

 

そのため、私たちはその内側に残っている古いものを殺さなければならない。パウロは、「地にあるからだの部分(what is earthly in you)......を殺してしまいなさい」と書き送った。この「殺し」は物質的なものではなく、自分の体を傷つけることでもない。これは、罪を殺すことである。神様が私たちに命じている戦いは、罪を弱らせて生かしておく程度のものではなく、罪の息の根をとめることである。

 

②私たちは世にあって、キリストにある新しい人であるから

「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」(3:9-10)

 

私たちは古い人とともにその行いも脱ぎ捨てたのだ。すなわち不従順のゆえに御怒りを受けるべきであった生き方を捨て、代わりに新しい人を着たのだ。新しい人は、造り主である神のかたちにしたがって新しくされ続けていき、真の知識に至るのだ。それは、キリストの満ち満ちた様にまで私たちが変えられるということである(2:3、9)。

 

神様は、私たちをキリストにあって、キリストと同じ生き方へと変えてくださるのだ!

 

それでは、毎日の戦いとは、実際にどのようなものだろうか。

 

2)どのような戦いなのか

ここで個人的な話になるが、今日このブログを書くことができているのは、神様の恵みである。神様が助けてくればければ、私はこのブログを書くことはできなかっただろう。なぜなら、30分前の私は、戦意喪失寸前だったからである。お昼ご飯を食べようと街に繰り出し、ほんの1時間過ごしただけで、私は露出の多い女性の姿に目を奪われて、情欲の誘惑に攻撃され、ブログを書く意欲をほぼ失ってしまった。

 

ブログを読まれている方は、私を自制がなくて、情けない人間だと思われるだろう。まさに、その通りなのだ。私は本当に惨めな人間だ。私は神様の助けにすがるしかなかった。目の前にいる友人に打ち明けて、今すぐにでも祈ってもらわなくては敗北すると思った。けれど、打ち明けることもできなかった。なぜなら、打ち明けるよりも、戦うよりも、家に帰って、一人で情欲とたっぷり時間を過ごしたかったからだ。

 

私はもう戦意喪失寸前であった。しかし、神様は私の心を動かし、友に打ち明けるようにしてくださった。そして、私は自分の悲惨さを分かち合い、その友に祈ってもらった。友は、私がイエス・キリストの福音を信じることができるようにと祈ってくれた。

 

神様は、私が祈るよりも前に私の心を知っておられ、助けてくださるお方。

神様は、祈りを聞かれ、祈りに答えてくださるお方。

このお方が、私たちの父なる神様。

 

今、私はこのお方に守られて、このブログを書いている。

このように、私たちは常に霊的な戦争を戦っている。

 

この戦争とはどのような戦いなのか。

 

①私たちは戦場にいる

朝起きて最初の任務は、罪を殺すことである。ダビデはこう言った。「朝ごとに、私は国の中の悪しき者をことごとく滅ぼし、主の都から、不法を行う者を、ことごとく断ち切ります」(詩篇101:8)。ダビデは、イスラエル王国と都エルサレムを、神の前に聖なるものとするため、朝ごとに悪しき者や不法を行う者を滅ぼすと宣言した。

 

神は私たちに対して同様に求めておられることは、朝ごとに「地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺」すことである。しかし、具体的な罪と戦う前に、私たちがまず格闘するのは、自分自身のアイデンティティである。

 

「私は何者なのか」。私たちはキリストにあるアイデンティティから簡単にさまよい出て、他に答えを追い求めてしまう。もし受け身でいるならば、私たちの欲望や経験がその空欄を埋めることになるだろう。なぜなら、私たちの周りには様々な答えを提示してくる敵たちに囲まれているからである。

 

 

②欲望の時点における戦い

パウロが殺すようにと命令した、「淫らな行い、汚れ、情欲...」などの欲望は、多くの場合、敵としてではなく、友人あるいは親友のようにして私たちの前に現れる。それらは私たちに、自由や快楽、そして幸福を約束してくる。私たちは、これらの不道徳な欲望が人間に元来備わっている自然なものだと感じる。それゆえ、これらに抵抗することは、まるで自分自身を否定しているかのようにさえ感じてしまう。だから、私たちはこれらの欲望を「殺す」という発想には至らない。むしろ、友人のように迎え入れて一緒に人生を歩んでしまうのだ。

 

また、これらの欲望は単独ではやってこない。他の友人に引き連れられてやってくる。例えば、孤独自体は無害かもしれない。しかし、それが怒りに変質した時、すぐに情欲もやってくる。創世記4章で、カインが怒った時、神様はカインに対して、戸口を開けたたまにしないように警告された。戸口で罪が待ち伏せていて、彼を恋い慕っていたからである(創世記4:7)。私たちは怒りや失望、苦々しさ、妬みは、その物事に対する当然の応答だと考える。しかし、それらはカインの場合と同様に、本人の不義が原因である。ところが、たとえそうではなくて、正当な応答であったとしても、それらは罪を心に招き入れるきっかけとなり得る

 

他の例として、不安は若者を虚構の世界へと向かわせる。それは安心できる場所を求めるからだ。「安心がほしい」という無害な欲望が、虚構の世界で、若者を非人間化させていくことがある。本当のアイデンティティは虚構の世界で失われていき、深みに入るほどに、自分が何者であるかの感触を失っていく。

 

また、友情に関しても、「友達になりたい」という正常な欲求が、「自分だけのものにしたい」という悪質な渇望へと変質してしまう。箴言にはこうある。「よみと滅びの地は飽くことがなく、人の目も飽くことがない」(箴言27:20)。不満足は、濫用をもたらし、濫用はその対象を自分にとって必要不可欠な存在として錯覚させる。

 

このように、正当な欲望も簡単に「淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲」へと変質し、罪(「怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことば」(コロサイ3:8))を迎え入れる入り口となる。だから、私たちは、欲望・欲求のレベルで戦わなければならない

 

しかし、私たちの欲望を理解し、そのレベルで戦うことは易しいことではない。その人のうちにある欲望は、互いに複雑に絡み合っているため、解明するには、神が与えてくださる忍耐と洞察力を必要とする。

 

ただ言えるのは、キリストにあるアイデンティティを信じ続けることが、欲望のレベルにおける戦いには必要不可欠であるということだ。キリストにあるアイデンティティを見失いかけたとき、私たちはすぐさま、キリストに向き直らなければならない。なぜなら、キリストにあるアイデンティティが、私たちの欲求、思考、行動を決定するからである。

 

つまり、「キリストにあって」、私たちは戦争へと突き動かされ、「キリストにあって」、戦争を戦うのである。

 

まとめると、

Ⅰ 私たちは「キリストにある」者、すなわちキリストともに死んで、ともによみがえり、ともに栄光のうちに現される者である。

 

Ⅱ それゆえ、私たちは世にあってキリストの御国の中に生き、世に属する古い人ではなくキリストにある新しい人とされているため、内側においても外側においても戦争がある。

 

Ⅲ この戦争は、欲望の時点において戦わなければならず、勝利のためにはキリストにあるアイデンティティを信じ続けることが必要不可欠である。

 

Ⅳ この戦争において、神様が求めておられることは、悪い欲望を殺し、罪を捨て去ることである。

 

 

 

 

 

 

 

 

召しのもたらす望みは一つ。だから、召しにふさわしい歩みも一つ。

エペソ人への手紙4章には、キリストご自身が牧師たちをお立てになり、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げると書かれていて、その順番に注目する必要がある、と前にブログで書いた。

 

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そのときは、順番が大事で、牧師が聖徒たちを整えなければ、聖徒たちは奉仕することができず、教会も建て上がることはない(神の御子に対する信仰と知識において一つとなれず、むしろバラバラになってしまう)ため、牧師の務めは重大であると書いた。

 

しかし、それと同じくらい、あるいはそれよりも重大なことに気づいた。それは、4章1節から書かれていることである。

 

「さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。」(4:1-3)

 

パウロは、教会のすべての人に共通する勧めをまず与え、その後に、キリストの賜物、すなわち、使徒、牧師、教師の務め、聖徒たちの奉仕について語ったのだ。つまり、キリストの賜物を持って仕え合うことは、最初の「召しにふさわしく歩みなさい」という勧めの上に成り立つものなのだ!

 

そのため、私がまず考なくてはならないことは、牧師としての務めが果たせているかどうかよりも(私は牧師ではないが、メッセージを語る務めを受けている)、召されたその召しにふさわしく歩めているかどうかなのである。

 

召しにふさわしい歩みとは何か。それは、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保」つことだとパウロは言っている。

 

ああ、私はある兄弟に対して、高ぶり、怒り、耐え忍ばず、敵意を抱き、一致を保つ努力を放棄していた。誘惑に抵抗することなく、女性のことを情欲を持って何度も見てしまった。淫らな思いにもふけってしまった。これら全てが示しているのは、私が召しにふさわしく歩まなかったという事実だ。

 

召しとは何なのか。

召しには望みがある。そして、その望みは一つである。なぜなら、パウロは続けてこう書いているからである。「あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように...」。また、エペソの聖徒たちのために、「神の召しによって与えられる望みがどのようなものか」知ることができるように、とも祈っている(1:18)。

 

神の召しにより私たちには望みが与えられているのだ!そして、その望みは私たちが思っているものよりも遥かに素晴らしいのだ。だから、それを知ることができるようにとパウロは祈ったのだ。

 

そもそも「召し」とは、神様の私たちへの働きかけであり、英語では"call"と訳されている。つまり、召しとは、神様が私たちをお呼びになることなのだ。

 

神様は私たちをお呼びになった。それは、私たちにあるものを得させるためである。しかし、私たちはまだそれを受け取っていない。なぜなら、「望み」とは将来に対する期待だからである。召しのもたらしたものが、「望み」である以上、その望みの「対象」を私たちはまだ得ていないのだ。

 

パウロはこの望みについて、ローマ書でこのように書いている。

「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを誰が望むでしょうか。私たちはまだ目で見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。」

(ローマ8:23-25)

 

パウロがここで書いた望みとは、「子にしていただくこと」である。それを言い換えて、「からだが贖われること」とも言っている。パウロは、ローマ書の中で、「からだ」(の中)には「罪の律法」(7:23)があると言い、「からだ」を死の「からだ」と表現している(7:24)。また、「からだ」の行いは殺されなければならないとも言っている(8:13)。これらのことから、「からだ」は、罪のもとに売られ、罪と死に支配されている奴隷となっていることが分かる。

 

パウロはそのからだが贖われることを待ち望んだ。つまり、からだが罪のもとから完全に買い戻され、からだが罪の支配から完全に解放され、からだがもはや罪の奴隷ではなく、からだも心もともに完全に神の子どもとされることである。

 

これは、目で見えるものでもなく、まだ見ていないものだ。だからこそ、忍耐して待ち望むことができるのである。

 

私もパウロと同じ召しを受けた。そして、パウロと同じ望みをいただいた。そして、この望みはすべてのクリスチャンと一つなのだ。私たちはこの望みのもとで、ともに召しにふさわしく歩むのだ。

 

 

この召しは、神様の恵みによって、キリスト・イエスにあって、キリスト・イエスを信じる信仰を通して与えられた。そして、その保障として神は御霊をくださった。

 

私たちが待ち望むことができるのは、御霊をいただいているからである。

「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。」

(ローマ8:23)

 

それに、ただ待ち望むだけではない。 心の中で呻いているのだ。

 

 

まとめると、神様に召された私たちは、

御霊によって、からだが贖われ、子とされることを待ち望みながら、

御霊にあって、からだを支配する罪と戦争を繰り広げ、心の中で呻きながら、

その召しにふさわしく、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保つ」のである。

 

 

 

 

本当は私自身が分かっていないこと。それは、「キリストにある」の意味。

変わりなさいと勧めても、人は変わらない。礼拝での説教の奉仕をするようになってから、しばらく経って、ようやくこの事実を認識するようになった。けれども、さらに重要なことを認識するようになった。それは、わたし自身が変わっていないということだ。

 

先日、「キリストにあって」喜ぶとはどういうことなの?と聞かれて、答えられなかった。私は、「キリストにあって」の意味が分からなかったからだ。キリストを宣べ伝える務めを受け、それを行いながら、キリストを分かっていなかったとは大問題である。私は一体、何を語って来たのだろうか。

 

しかし、この気づきをきっかけに、私の心の渇き、誘惑に対する弱さ、敗北、失望、無感情、怒り、無慈悲、怠惰、、、すべての原因は、キリストを知らないことにあることを知った。これは、希望である。なぜなら、「私はキリストを知っている」と思い続けていたのであれば、私はキリストを見限り(なんという愚かなこと。しかし、いつもしてしまう)、これらの問題をキリスト以外によって解決しようとしたことだろう。ところが、神はキリストへと再び目を向けさせてくださった。神は真実である。

 

 

「キリストにある」。この意味を正しく理解したい。しなければ未来はない。

私にとっても、教会にとっても。

 

 

 

『LOVE INTO LIGHT, THE GOSPEL, THE HOMOSEXUAL AND THE CHURCH』(Peter Hubbard) という本を参考にして、「キリストにある」の意味を学びつつ、ここにまとめる。

 

 

 ここでは、「変化」ということを軸に見ていく。

 

変わらない時と、変わることができるとき。

コロサイ人への手紙を中心として。

 

1、変化できない場合

パウロはコロサイの教会に書き送った。

「これらの定め(人間の戒めや教えによる定め)は、人間の好き勝手な礼拝、自己卑下、肉体の苦行のゆえに知恵のあることのように見えますが、何の価値もなく、肉を満足させるだけです。」(コロサイ2:23)

 

この教会には、偽りの教えが入り込んでいた。

「あの空しいだましごとの哲学によって、誰かの捕らわれの身にならないように、注意しなさい。それは人間の言い伝えによるもの、この世のもろもろの霊によるものであり、キリストによるものではありません。」(2:8)

 

コロサイのクリスチャンたちは、イエス・キリストを完全に否定していたのではなかった。ところが、お鍋のように、「人間の言い伝え」、「この世のもろもろの霊」による「だましごとの哲学(それが何かは明確には書かれていない)」をイエス・キリストと混ぜ合わせてしまっていた。そこには、「人間の好き勝手な礼拝(御使い礼拝)、自己卑下、肉体の苦行」などが伴っていた。

 

その鍋料理のような歩みの結果は、知恵あるように見えても、実際は「何の価値もなく、肉を満足させるだけ」であった。

 

このように、人間の作り出す宗教は、「癒し」を約束するが、実際は無意味なのだ。

キリストへの信仰+アルファも、純粋な信仰ではなく、人間の作り出す自己救

済の宗教と同じである。真実な教えは、キリスト100%なのである。

 

今日も、私たちは、キリストと他の何かを混ぜ合わせた「無意味」な宗教に陥ってしまう。実際、私は自覚していなくても、キリストを分からないまま、突っ走っていたのだから、真実から外れていたのだ。

 

パウロが次のようにコロサイの教会に求めたことは、私にも当然当てはまる。そして、当然今日のすべての教会にも。

 

「あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストのうちに根ざし、建てられ、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかりに感謝しなさい。......キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(2:6-7、9)

 

キリストのうちにこそ、である。

 

 

 

 

2、変化できる場合

パウロはこのように書き送った。

 

「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。」(3:1-4)

 

パウロは、単純に、「天国のことをいつも思っていれば、この世での罪のことは気にならなくなる」と言っているのではない。ここで言っていることは、「今、イエス・キリストが私たちを造りかえる」という変化についてである。そのための行動を3つの言葉に要約することができる。

 

求める、殺す、着るである。

 

1)求める

「上にあるものを求めなさい(3:1)」、「上にあるものを思いなさい(3:2)」

 

求めることは、に関わることである。これらの動詞は現在形であるため、今実行し続けるものであることが強調されている。人間が作り出した自己救済の宗教からキリストのみに信仰を置くとき、私たちのアイデンティティと指向も自分自身(あるいは罪)からキリストへと変えられる。

 

また、ここでは天国のアイデンティティを獲得することを「求めよ」と言っているのではなく、私たちの考えや指向をキリストにある本当のアイデンティティと一致させることを「求めよ」と言っている。なぜなら、恵みにより、キリストにあって、私たちはすでに神の子どもとされているからである。

 

しかし、キリストにある新しいアイデンティティは、過去に経験した傷を一瞬で消し去るものではない。また、今葛藤している心の性質や傾向を一瞬で正すものでもない。しかし、これらの経験や性質を全く違うレンズを通して見ることができるようにする。

 

言い換えるなら、私たちは、過去、現在、未来をキリストにある神の子どもとしてのアイデンティティを通して見るようにされた

 

①キリストは私たちの過去

パウロは言った。「あなたがたはすでに(キリストとともに)死んで」、「あなたがたはキリストとともによみがえらされた」。この事実に対して、私たちは何もしていない。また、この事実を私たちは変えることはできない。イエス様が死んで、よみがられたとき、イエス様を信じた私たちもともに死に、ともによみがえったのだ。

 

キリストとともに死んだという意味は、罪は私たちの人生をもはや支配できない、ということだ!この世に対してキリストが死んだならば、世もキリストに対して死んだのだ。世は何の力もキリストに対して及ぼせないのだ。キリストとともに死んだ私たちも同じなのだ。

 

「もしあなたがたがキリストとともに死んで、この世のもろもろの霊から離れた(クリスチャンはこの世の霊から解放されているということ)のなら、どうして、まだこの世に生きているかのように(クリスチャンはこの世に対して死んでいるということ)、『つかむな、味わうな、さわるな』と言った定めに縛られるのですか(もはや縛られることはあり得ない)。」(2:20-21)

 

 

②キリストは私たちの今のいのち

「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです」(3:3)

「あなたがたのいのちであるキリスト」(3:4)

 

キリストにうちにあるクリスチャンたちは、もはや「いのちを得る」ための努力は必要はない。なぜなら、私たちは「まことのいのち」をすでに得ているからである。しかし、このいのちは今は目に見えるものではない。人からの称賛、受容、成功、宗教的な儀式、自己卑下、苦行などによって得ようとするものはいのちではなく、「無意味」な「肉の満足」である。まことのいのちは、天に上られたキリストご自身である。キリストを信じた者は、キリストとともに死に、キリストとともによみがえらされたのだ。今、私たちはキリストのいのちにあずかっている。そして、そのいのちは、キリストともに神のうちに隠されているため、誰も私たちから奪い去ることはできない!

 

エス様は仰せられた。

「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしの福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばとを恥じるなら、人の子(キリスト)も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」(マルコ8:34-38)

 

終わりの日に、イエス様は父なる神様の栄光を帯びて、世に戻ってこられる。そのとき、イエス様はすべての者をさばかれる。この姦淫と罪の時代にあって、キリストを信じる者はいのちを救い、キリストを恥じる者はいのちを失う。人はこのいのちを失ったら、たとい他のすべてのものを持っていても(莫大な富、幸せな家族、友人関係、名誉、成功など世が与えるものすべて)、それらは何の益にもならない。まだキリストは来ないと思って、私たちがこの世のいのちを貪っているときに、イエス様は来られる。ノアの日のように。そのときに後悔しても遅い。なぜなら、自分のいのちを買い戻すことは決してできないからである(セカンドチャンスと呼ばれるものは聖書には認められない)。

 

しかし、キリストにある者は、永遠のいのちであるキリストを持っている。この世のいのちは福音のために捨てたが、永遠に残るいのちを保証されている。

 

③キリストは私たちの未来

「あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現されます。」(コロサイ3:4)

 

私たちのアイデンティティは永遠的(過去、現在、未来)にキリストと結び合わされている。よって、キリストが死んで、よみがえり、栄光をお受けになられたのであれば、私たちも栄光を受ける!キリストが栄光を帯びて現れるときに、私たちもキリストとともに栄光のうちに現されるのだ。

 

しかし、キリストが過去、現在、未来であるということが、私たちの今の考え方や生き方をどのように変えることができるのか。ある人はこう言った。「イエス様が死んで、よみがえられ、再び来られることは知っています。けれども、そのことが私の今の人生にどう変化をもたらすかが分からないのです。」

 

この質問に答えるにあたり、まず大切なことは、キリストにあるアイデンティティと、私たちの行動がどのように関連しているかを理解することだ。私たちの文化は、アイデンティティを行動によって定義する。例えば、「あなたは会社に勤めているから、サラリーマン」、「あなたは同性愛的行動と傾向を持っているから、あなたはゲイ」、「あなたはいつも人に迷惑をかけるから、ダメな人間」などである。

 

しかし、パウロはコロサイ3章で、この順序を逆にしている!「あなたのキリストにあるアイデンティティが、あなたを造りかえ、あなたの行動を生み出す」と。パウロは、犯した罪や、葛藤している欲望を見て、自分自身を定義するのではなく、むしろイエス様を見て、自分自身を定義するようにと言った!「(キリストともに死んで、)キリストとともによみがえらされたのなら」(3:1)

 

私たちはキリストにあって、罪の圧制から解放された!新しいいのちを受け取った!やがて栄光のうちに現される!だから、今、上にあるものを求めよ!だから、地にあるものを思ってはならない!

 

エス様はこの世にあっては誘惑や試練、患難を続けて経験すると約束された。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

 

しかし、罪や苦難が私たちのアイデンティティを決定づけることはもはや出来ない。なぜなら、キリストはすでに世に勝利されたから!私たちの人生はもう、世によって色付けされるのではなく、キリストにあって色付けられていく!そして、やがてはキリストとともに栄光のうちに現される!だから、どんな苦難があっても、勇気を持てる!

 

神様は私たちをキリストにある者へと召してくださった!「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(コロサイ3:1)

 

 

 

では、「上にあるもの」とは何か?それは、この地にあるものとは全く異なる。上とは、神がおられ、その右の座にキリストが着いておられるところだ。また、言い換えるならば天であり、キリストが王として治めておられるところだ。では、そこにあるものとは、何か?

 

・・・ん〜なんだろう?

一つ言えることは、私たちは天を見たことがないから、そこにあるものが何かを完全に知ることは出来ないということだ。しかし、そこから世に来られたキリストが、天の御国はどのようなところかを現してくださった。私たちはキリストのみわざとことばを通して、天を知ることができる。「だれも天に上った者はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です」(ヨハネ3:13)。まさに、キリストご自身が、天の体現であられる。

 

「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています」(2:3)。神様は、キリストにあって、この知恵と知識のすべての宝を私たちにも与えてくださったのだ。私たちは、キリストご自身が持っておられるすべての知恵と知識、すなわち私たちの「いのちであるキリスト」(3:4)を与えると約束してくださり、それだけでなく今求めるようにと召しておられるのだ。

 

私たちはそれが何かを完全に分からない。けれど、それをだれが完全に持っておられるかを知っている。そして、それを完全に受け取るようにと神が祝福してくださったことも知っている。そして、それを今、求めるように召しておられることも知っている。

 

私たちは、「変えてください!用いてください!」と神様に祈る。そして、私たちはその答えがどのようなものであるかを思い描く。しかし、私たが必要だと思っているものと、神様が与えようと願っておられるものは違うのだ。神様は、キリストご自身の栄光を私たちに与えられるのだ!それ以下のものを与えることは決してないのだ!

 

たとえ私たちがそう思わなくても、私たちが最も必要なものはキリストご自身であるそれ以外のものはすべて、キリストの代わりにはなり得ない。たとえ変化」や「成長」と呼ばれるものであっても、キリストご自身を求めていないのであれば、それは偶像礼拝である。

 

私たちは、「キリストにある(in Christ)」者として、すなわち、キリストとともに死んで、ともによみがえり、ともに栄光にあずかる者として、上にあるもの、すなわちキリストご自身を求めるのだ。

 

 

「求める」(思う)は、心に関わることだ。

変化の最初のステップは、心から始まる。

しかし、その心の変化は、キリストにある自分を知ることから始まる。

 

 

次のステップである、「殺す」と「着る」については後日まとめる。

 

 

 

 

牧師の喜び!私たちの父なる神様が礼拝されること!

(※ 長い文章です)

1、礼拝って?

礼拝とは何か。実は、教会の「礼拝」に集っている殆どの人たちが、礼拝が分からない

でいることに気づいた。礼拝でメッセージを聞いた後、「なるほど」と思っても、礼拝

が終わった直後には、もう神様が頭から消え始めているのだ。当然、一週間の中で、神

様のことを思うことはほとんどない。そうであれば、神様を礼拝することもない。

 

私は牧師ではない。けれども、主イエス・キリストによって、みことばを宣べ伝えるた

めに立てられた者として、私はこの状況を真剣に、重く受け止めなくてはならない。

 

「キリスト・イエスのしもべである」パウロは、ピリピの教会に対してこう書いた。

「たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎささげ物

となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。」

(ピリピ人への手紙2:17)

 

パウロの願いは、彼らの信仰の礼拝を見ることだった!そのためなら、自分の命が犠牲

になっても構わなかった。では、「信仰の礼拝」とは何を意味していたのか。直前に、

パウロが書いたことばが説明となる。

 

「あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代

のただ中にあって、傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼ら

の間で世の光として輝く」(2:15-16)

 

パウロが言っている礼拝とは、日曜日の「礼拝」ではなく、生き方のことだ。世の光と

して輝くことだ!それ以上でも、以下でもない。礼拝とは、世の光として輝いて生きる

ことである。

 

パウロは、「信仰の礼拝という『いけにえ』」という言葉を用いた。いけにえとは、モ

ーセ律法において、定められた神への生贄を示唆している。その生け贄はなんでも良い

わけではなかった。傷のない動物でなければならなかった。つまり、教会も、神様にさ

さげられるものとして、「非難されるところのない」、「傷のない」状態でなくてはな

らない。

 

しかし、罪人である私たちがどのようにしたら、そうなれるのか。それは、私たちのわ

ざではなく、神のみわざである。しかし、私たちは神のみわざに、自分を従わせていく

ように努めなくてはならない。

 

パウロは言った。「恐れおののいて自分の救いを達成するように努めなさい。神は

みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方

です。すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」(2:12b-13)

 

神様がみこころのままに働かれる。そして、志を立てさせる。そして、事を行わせてく

ださる。動詞の語尾に注目すると、「働かれる」は神様の行動だが、「立てさせる」と

「行わせてくださる」は神様の行動であっても、使役、つまり教会自身がそれをするよ

うにさせるという行動であることが分かる。言い換えると、志を立てるのも、事を行う

のも教会である。けれど、それをできるようにさせてくださるのは神様であり、神様が

働かれるからである。

 

だから、「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい」と命令したのだ。

神様が立てさせてくださる志をすべて、不平なし、疑いなしで行っていくならば、教

会は変えられていく。

 

神様はすでに、みこころのままに、教会のうちに働いておられる。

 

まとめると、

①礼拝とは、信仰の礼拝といういけにえである。

②それは、非難されるところのない、傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをし

っかりと握って、世の光として輝くことである。

③そうなるように、神様がみこころのままに教会のうちに働いている。

④教会がそれに応えて、従っていくとき、造り変えられていく!パウロは、それを「救

いの達成」と言った。

 

気づいたことは、以下である。

救いの達成とは、神様への礼拝者として整えられることである。

神様への礼拝とは、世の光として輝くことだ。

 

さらに大事なこととして気づいたことは、以下である。

世の光として輝くためには、いのちのことばをしっかりと握っていなければならな

い、ということだ。

 

 

 

2、牧師って?

教会のほとんどの人たちが、礼拝をしていないと冒頭に言った。つまり、世の光として

輝いて生きていないということだ。でも、その理由は、いのちのことばをしっかりと握

ることができていないからだ。いのちのことばを蓄えていない人に、また正しく理解で

きていない人に、「世の光としてもっと輝きなさい。神様を持って礼拝しなさい」と言

ってはならない。なぜなら、それは不可能だからだ。

 

教会のある人たちは正直に分かち合ってくださった。「みことばが本当はよく分からな

いんです」、「喜びがないんです」、「神様との交わりもさっぱりないんです」。思い

返すと、ずっと前から繰り返しSOSを発信してくださっていた。ある方が、「みことば

を学ぶ機会がほしいです」と言っておられのを、私は何度も聞いていた。

 

週一度の礼拝でメッセージを聞いていても、疑問や分からないところがたくさんあった

のだ。もっと知りたい、探求したいという渇きを持っておられたのに、私はいのちのみ

ことばを積極的に分かち合ってこなかったのだ。

 

教会が、「一人の成熟した大人となる」という意味は、「神の御子に対する信仰と知

において一つとなる」ということである。(エペソ4:13)

 

そのために、キリストご自身が、ある人たちを使徒、預言者、伝道者、牧師、教師とし

てお立てになった。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを

建て上げるためなのだ。(4:11-12)

 

すべてのものを満たす方でおられるキリストが、教会のために贖いのみわざを成し遂げ

てくださった。そればかりでなく、今も教会を建て上げるために、キリストがすでに働

いておられる。

 

そうであるならば、教会が建て上がっていかない原因は、私たち一人一人がなすべきこ

とをしていないからである。しかし、順番がある。「聖徒たちを整えて、奉仕の働きを

させ」、という順番である。牧師たちが聖徒たちを整える前に、聖徒たちは奉仕の働き

をすることは出来ないのだ。キリストによって立てられた牧師たちが、与えられた務め

を果たさなければ、聖徒たちの奉仕は始まらない。聖徒たちの奉仕がなければ、教会は

建て上がらない。教会が建て上げられないということは、神の御子に対する信仰と知識

においてバラバラであり、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風

にも、吹き回されたり、もてあそばれたりしてしまうのだ。その教会は、いのちのこと

ばをしっかり握っていないため、この曲がった邪悪な世代のただ中にあって、世の光と

して輝くことはできない。つまり、神様を礼拝できないのだ

 

牧師の務めは、本当に重いのだ。それは他の聖徒たちの奉仕に取って代えることは決し

てできない。

 

ピリピ人への手紙を読むとき、他の手紙と同様に、パウロがどれほど教会を愛して、教

会に仕え、教会のために祈り、教会に模範を示し、教会に教えてきたのかが分かる。

 

「あなた方のことを思うたびに、私の神に感謝しています」(1:3)

 

「私がキリスト・イエスの愛の心を持って、どんなにあなたがたすべてを慕っている

か、その証をしてくださるのは神です。」(1:8)

 

「あなたがたの信仰の前進と喜びのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてと

ともにいるようになることを知っています。そうなれば、私は再びあなたがたのもとに

行けるので、私に関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるで

しょう。」(1:25-26)

 

「愛する者たち、あなたがたいつも従順であったように、私がともにいるときだけでな

く、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いの達成を達成する

ように努めなさい」(2:12)

 

「・・・いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そう

すれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったこと

を、キリストの日に誇ることができます。たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝という

いけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべて

とともに喜びます。同じように、あなたがたも喜んでください。私とともに喜んでくだ

さい。」(2:16b-18)

 

 

「早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。あ

なたがたのことを知って、励ましを受けるためです。テモテのように私と同じ心になっ

て、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。」(2:19-20)

 

「兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手

本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」(3:17-18)

 

「ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立っ

てください。愛する者たち。」(4:1)

 

「あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。

そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(4:9)

 

 

 

そして、そのように愛されたピリピの教会も、パウロを愛した。

 

ピリピの教会は、福音のために牢屋に入れられているパウロに贈り物を届けて、また側

で仕えさせるために、エパフロディトを送った。このことは、パウロを大いに喜ばせ、

たましいを満ち溢れさせた。

 

「私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあ

って大いに喜んでいます。」(4:10)

 

「私はすべてのものを受けて、満ち溢れています。」(4:18)

 

しかし、パウロが喜び、満ち溢れたのは、自分の必要が満たされたからではなかった。

ピリピの教会がくれた贈り物が、神様に喜ばれる礼拝だったからだ。

 

「私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的

な口座に加えられていく実なのです。」(4:17)

 

「エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳

ばしい香りであって、神が喜んで受け取ってくださるささげ物です。」(4:18)

 

 

 

パウロの心の中心は、いつも父なる神様が礼拝されることなのだ。

 

「私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本当に愚かなこと。

 知った風な口を聞くな。

 何も分かっていないくせに。

 人のこと、勝手に決めんな。

 人をカテゴライズすんじゃねえ。

 

 

てな感じで、人が私を決めつけてくることに対して、私はかなり反発してしまう。

相手が口に出して言ってはこなくても、相手の表情にその思いを読み取ってしまい、相

手に対して敵意を抱いてしまう。

 

 

人を知るとは何だろう?

相手について、私には知らないことがありすぎる。相手の全てを知るなんて出来るわけ

がない。それでも、相手を知ろうとして、限られた情報を組み合わせて、色々分析す

る。情報も、分析も、当然ながら不完全なため、誤解も生まれる。

 

てなわけで、相手が自分を誤解することは避けられないことだ。それなのにに、「私の

ことをわかっていないくせに」と言って、いちいち腹を立てるとは何と情けないことだ

ろう。しかも、私が腹をたてるときは、「誤解されている」と感じる時というよりもむ

しろ、「見下されている」、あるいは「過小評価されている」と感じる時だ。詰まると

ころ、私は、自分が認められないから、怒っているのだけなのだ。

 

 

 

では、神を知るとは何だろう?

人に対しても知らないことが山ほどあって、誤解もたくさん持ってしまうのであれば、

神様については、どれほど多くの誤解を持ってしまっているだろう。いや、誤解ではな

い。私たちは何と、神様を見下し、過小評価してしまっているのだ。

 

人間のどんぐりの背比べとはわけが違う。創造主であられる神様に比べたら、虫けらほ

どに小さな人間が、何よりも偉大な神を見下しているのだ。

 

 「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」ローマ人への手紙1:21-23

 

神の代わりに他のものを礼拝するということは、神の栄光を他のものと取り変えるこ

とである。神の栄光の価値が10000だとしたら、その他のものは0.00001である。いや、

数字では到底言い表せない。ただ言えることは、これは本当に「愚か」であるというこ

とだ。 

 

しかし、本当は、すべての人が、不滅の神の栄光を知ることに飢えている。

 

 

「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰に住んでいた者たちの上に光が照った。」イザヤ9:2(旧約預言書)

 

 

神の栄光が見えない状態は、罪の中に死んでいることであり、これは「やみ」である。

しかし、ここに良い知らせ、福音が与えられた!

 

 

この神のみことばのとおりに、神は私たちの上に光を照らしてくださったのだ。

 

「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。、、、この方は恵みとまことに満ちておられた。、、、いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたからである」ヨハネ福音書1章

 

これは、御子イエス・キリストのことである。御子が、人となられ、神を説きあかし、神の栄光を現してくださった。その究極は、十字架と復活である。恵みとまことがその中心だ。

 

 

 

ちっぽけな私は、自分を見下す相手を嫌う。しかし、神は、神に背き、神を見下し、神

を認めず、神に敵対していた私に「恵み」を与えてくださった。それは、神様のご自分

の約束と誓いに対する「まこと」であった。

 

神は、キリストの十字架により、私たちの全ての罪を赦し、神様ご自身との和解を与

え、御霊を与え、神を知る知識と神の御心を知る知識(すべての真理)を与え、神の栄

光をほめたたえる喜びを与えてくださった。しかも、私たちは、この御方を父と呼ベル

特権が与えられた。さらに、子であるゆえに、来たる日には、キリストと共によみがえ

らされ、共に栄光を受け継ぐ相続人とされた。

 

父なる神の栄光があり、ひとり子としての栄光があった。その父と御子の栄光が満ち溢

れる神の御国において、私たちは子としての重い栄光をいただくのだ。何という圧倒的

な恵みとまことだろう。私たちのような憎たらしい人間に、これほどの祝福を無償で与

えてくださるとは、神はなんて恵み深い方なのだろう。

 

「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛を持ってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」

                                                                                              エペソ1:5-6

 

 

キリストにより私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられますように!

 

もっと多くの人たちが、神様の栄光に歓喜しますように!

 

私たちがどれだけ神様を罵ってたとしても、神様の栄光が変わらないように、私がどれだけ罵られても、見下されても、神様が私に与えてくださる栄光は変わらない。

 

神様が与えてくださる永遠の誉れに比べれば、一時的な人からの賞賛は全く取るに足らない